真実よりも重いもの 2
私がこの家に引き取られたのはまだ赤ん坊のときだった。
当時、父と母の間にはまだ子供がおらず、表向きはゾルディック家の長女して迎え入れられたが、実際は一族の掟によって選ばれた生贄に過ぎなかった。
ゾルディック家には、銀髪を持つ人間しか家督を継ぐことができないという隠された掟が存在する。掟を破れば災いが降りかかり、やがて一族は衰退すると先祖代々言い伝えられている。荒唐無稽な話だが、この家の人間はその迷信を本気で信じている。信じているからこそ、わざわざ余所から私が買い入れられたのだ。万が一、銀髪の子に恵まれなかった時の保険として。
もし銀髪の子が生まれていなかったら、いずれ私は当主の座に据えられていたことだろう。当主といってもただのお飾りだ。実権は血縁者たちが握る。私の存在は、正当な後継者が生まれるまでの一時凌ぎにすぎない。
女の私が選ばれたのは、繋ぎの存在が不要になった時に性別を理由に当主の座から退けるためだ。あるいは弟たちの誰かと番わせて正当な後継者を生ませようという算段だったのかもしれない。今となっては、もう起こり得ない話だけれど。
――ゾルディック繁栄の糧となれ。己の存在意義を決して忘れるな。
物心つく前から繰り返し言い聞かされてきた言葉が頭の中で木霊する。その言葉は、長い年月の中で呪いのように私の身に染み付いていた。
(私の存在意義はとっくの昔に失われている。キルアが生まれたあの日から……)
苦い感情が胸に広がるのを自覚して、ゆっくりと視線を持ち上げる。
目の前に両親が立っている。――両親と呼ぶように指示した二人が、温度を感じさせない眼差しを向けている。弟たちの前では見せない他人行儀な顔に心がしくりと痛んだ。
父の自室には緊張を孕んだ沈黙が広がっていた。私は固唾を飲んで、父が口を開くのを待った。
「お前の結婚相手が決まった」
告げられた言葉にすうっと血の気が引いていくとともに、遂にこの日が来たのかと諦念じみた感慨も伴った。
父は続けて相手の素性について説明しはじめたが、ほとんど頭に入ってこなかった。というより、まともに聞く気になれなかった。相手が何者であろうと、厄介払いされているという事実に変わりはないのだから。
(……いや、表立って排斥されないだけありがたいと思うべきだ)
ゾルディック家の人間として送り出そうとしてくれているのは、父と母のせめてもの温情だろう。ただの代替品が愛されることはなかったが、情けはかけてもらえた。それで十分じゃないか。
私はひとつ頭を振り、雑念を追い払った。
「畏まりました。従います。」
恭しく頭をさげる。弟たちの前では家族らしく振舞っていたが、もう必要ない。
細く息を吐き出しながら頭を上げた時、こちらをみていた父さんと視線がぶつかった。父さんは何も言わなかったがその目が静かに問いかけていた。お前はそれでいいのか、と。
(今さら、何を……)
ここで泣き縋れば、家に居させてくれるとでもいうのか。家族でもない役立たずを無条件で受け入れるとでも? その気もないくせに、なぜ私の意思を確認するような目を向けてくるのか。
あまりにも身勝手で残酷な眼差しに、封じ込めていた怒りの感情が膨れ上がる。しかしそれも一瞬のことで、すぐに虚しさに塗り変わった。長い年月の中で、私は怒りを感じる気力さえ失ってしまっていた。
ひそかに嘆息して目を伏せる。
「これまで育ててくださり感謝しております。この御恩は忘れません」
感情を殺して、儀礼的な言葉を口にする。
最後まで、父と母の顔をまっすぐ見ることはできなかった。
部屋から出て、ため息を漏らす。胸の内が暗雲に飲み込まれてしまわないうちに、自分の寝室に行き、来るべき日に備えて荷物の整理に取り掛かることにした。
自室をぐるりと見回す。改めて見ると殺風景な部屋だった。私は無意識のうちに家を出て行く準備をしていたのかもしれない。そう思うと自嘲の笑みが漏れた。
ベッドに座って、ぼうっと部屋の壁を見つめる。
「私の役目は終わったんだ」
ひとり、つぶやいてみる。
「私は最後まで家族にはなれなかった」
その言葉を口にしたことが刺激になり、涙が溢れ出すかと思いきや、意外にも実際には何も起こらなかった。身体は麻痺したように動かず、頭は現実的なことでいっぱいだった。
顔も合わせたことのない相手と結婚する。この家を出て、別の場所で暮らす。表向きはゾルディック家の娘だ。そう簡単に追い出されることはないだろう。いつ放逐されるか気が気じゃなかった過去より、よほど心穏やかに過ごせるかもしれない。希望を抱くこと自体は悪くない。
ずっとこの日が来ることを恐れていたけど、いざ迎えたときに湧き上がる感慨はあっけないものだった。
「もう、嘘をつかなくてもいいんだ……」
私はぼんやりと弟の姿を脳裏に描き、複雑なため息をもらした。
ふいに遠くから足音が聞こえてきた。聞こえよがしのその音からは、明確な怒りが読み取れる。
(やっぱりきたか)
ぼうっとした心地の中で、そう思った。
いつも遠慮なくノックされるが、今日に至ってはそれすらなく、勢いよく扉が開かれた。
「姉さん」
怒りをはらんだ低い声が耳を打つ。私は余所行きの表情をさっと顔に張り付け、部屋に侵入してきた相手を出迎えた。
「そんなに慌ててどうしたの?」
ことさらゆっくりとした口調で尋ねれば、イルミはさらに怒りの気配を濃くさせた。あまりにも予想通りの反応に一周巡って笑いたくなってきた。本当に少し笑ってしまったかもしれない。歪む口元を微笑にすり替えて、イルミの元へと歩み寄った。
「さっき親父に呼ばれてたみたいだね。いったい何の話をしてたの?」
白々しい問いかけだった。既に知っているくせにわざわざ私の口から言わせたいのだろう。どう答えるべきか逡巡していると、イルミは苛立たしげに眉を顰めた。
「聞いてるの、姉さん」
数歩分あいていた距離を一気に詰められ、顔を覗き込まれる。間近に感じる悍ましいオーラに内心気圧されるが、決して顔には出さぬよう注意を払いながら答えた。
「私の結婚相手が決まったって……父さんたちから言われたわ」
「で? 姉さんはどうするつもり? まさか受け入れる気じゃないだろうね」
厳しい声音で問われ、喉の奥が引き攣った。
私がこの家の本当の子供だったなら、受け入れないという選択肢もあっただろう。あるいは本当の子供のように愛されていたのなら――。
(何も知らないくせに!)
当たり前のようにその選択肢を提示してくるイルミが、私が死に物狂いで努力しても手に入れられなかったものを生まれながらにして持っている弟が、憎らしくて恨めしくて仕方がない。それは、これまで数えきれないほど抱いてきた感情だった。慣れた感情だからこそ隠し方も心得ている。
私は寂しげな笑みを口元に乗せて、イルミの腕をトンと優しく叩いた。
「あなたもいつかは結婚するでしょう」
「今オレの話は関係ない。親父が決めた馬鹿げた縁談を受け入れるのかって聞いてるんだよ」
「もちろん引き受けるつもりよ。結婚は由緒ある血族に生まれた者の義務だもの」
「由緒ある血族?」
イルミは大袈裟なくらい目を見開くと、弾かれたように笑い出した。ははは、と音を連ねただけの不気味な笑い声が部屋に響き渡る。
「イルミ……?」
イルミの尋常ではない様子を私は息をのんで見つめた。じわり、と水がしみ出すように不安が胸に広がっていく。
(おかしい。何か反応が妙だ)
イルミの奇行には慣れている。そのはずなのに、胸騒ぎが止まらない。
不意にゆらりとイルミの身体が揺れたかと思うと、すり寄るように身を近づけて来た。鼻先が触れる距離までイルミの顔が迫る。人形めいた造作に狂気を感じ取って、額やこめかみから嫌な汗が浮いてくる。胸に蔓延っていた不安はすでに濃厚な恐怖に変わっていた。
思わずイルミから離れようとするが、それよりも早く、私は驚愕の淵に突き落とされた。
「血の繋がりなんてない姉さんが、何をおかしなことを言ってるんだよ」
瞬間――私は耳を疑った。頭の先から冷たいものが入ってきて、それが背筋を伝ってすうっと抜けていく……。
表情を取り繕うことも忘れてイルミの顔を凝視する。今、この男は、なんて言った?
驚きに打たれ固まる私をすうっと視線で撫ででから、イルミが深く微笑む。そして、平然と真実を明かしていった。
「姉さんがオレが生まれる前に外から引き取られた子供だってことは知ってたよ。――本心ではオレを毛嫌いしてることもね」
「……っ!」
咄嗟に自分の口を手で覆った。そうしていないとみっともなく叫んでしまいそうだった。
「大嫌いなオレに媚び諂ってまで家に残ろうとしてたくせに、こんなことで諦めちゃっていいの?」
先ほどとは打って変わって明るい口調だ。それが逆に恐ろしい。イルミが怒り狂ってるのが伝わってくる。
(そんな……イルミは……全部、分かって……)
心臓が痛いくらいに脈打ち始め、胸を押さえて俯く。視界にカタカタと揺れている自分の膝が見え、目眩がした。まるで悪い夢でも見ているようだ。
「顔を上げて、姉さん」
大きな手が私の両頬にべたりと貼り付けられた。そのまま上を向かされ、イルミと視線が合う。
「別にオレはそのことに関しては怒っちゃいないよ? 姉さんが嘘を吐いてることなんて昔から分かってたしね。それよりも親父の命令に従って結婚なんかして、姉さんがオレから離れようとしてることが許せない」
「な……」
呆気にとられた。まるで、私に執着しているかのような物言いに深く困惑する。
まさか、と思う。イルミは姉としての私にしか興味がない。家族の愛しか掴もうとしない。愛を知らないわけではないが、それがただの他人に向けられることはない。……そう思っていたのに。
「わ、私は……あなたの姉でも何でもないのよ……?」
たまらなくなって尋ねると、イルミは苛立ちの滲む目を眇めた。
「だから? 血が繋がってるかどうかなんて関係ない。そんなことでオレから見放してもらえるとでも思った?」
私は、瞬きを忘れてイルミを見つめた。真っ黒な瞳が、驚きに打たれる私の姿を映す。イルミの視線は一度も揺らぐことなく、私だけを貫いていた。
大きな思い違いをしていたことに気づかされ、愕然とした。それはまさに天地がひっくり返るような衝撃だった。
――イルミが嫌いだった。姉に固執する姿を見るたび、血の繋がりが全てだと思い知らされるようで忌々しくてたまらなかった。
だけどその反面、愛情に飢えていた私にとってイルミからの苛烈な執着は目のくらむようなものだった。姉としてではなく、本来の私に向けられる感情であったなら……そう思ったことは一度や二度じゃない。そのたびに、愚かな望みを持つ自分に辟易し、イルミに対して抱くもろもろの感情の中から嫌悪だけを抽出した。……嫌ってしまうのが、一番楽だったから。
(でも、私は間違っていたんだ――)
その事実は、私を混乱の極致へと追いやった。
急に強すぎる鼓動が溢れ始め、息が苦しくなる。酸欠で頭がくらくらした。思考の整理が追いつかない。とにかく一旦落ち着いて考える時間が欲しかった。
しかし、そんな猶予が与えられるはずもなく、頬を覆う手にぐっと力が込められた。