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愛の言葉は歪んで聞こえた


※イルミの妹設定です。苦手な方はご注意ください。



 一つ上の兄は完璧だった。ゾルディック家の長男として、暗殺者として。常に周囲の期待に応え、模範的な存在として兄弟たちを牽引してきた。ずっと傍にいた私にとっても兄は絶対的な存在だった。
 兄の期待に応えたい、兄に認めてもらいたい、兄に好かれたい。あの頃の私は、兄の存在がすべてだった。
 その行き過ぎた尊敬が、家族へ向けるものから逸脱していると気付いたのは思春期に突入した頃だった。この感情はまともじゃない。兄にとっても邪魔なものでしかない。それくらいの分別はついていた。だから、誰にも打ち明けることなく墓場まで持っていこうと心に誓った。
 心の奥底にしまいこんで、ごくたまに取り出してぎゅっと抱きしめる。それはまるで私だけが触れられる宝物のようだった。どうせ報われることがないのだから、せめて自分くらいは大切にしてあげたかったんだ。

 ――だけど、秘めていた感情は唐突に暴かれ、踏み躪られた。

「お前の結婚相手を見つけてきたよ」
「は?」

 常と変わらない平坦な口調で告げられた言葉に、思考がフリーズした。

「え、何それ……」

 言われたことが上手く飲み込めない。脳が理解するのを拒絶しているかのようだ。

「オレが何人か見繕ってきてあげたから、あとは自分で選びなよ」
「そんな、どうして……」

 急に結婚相手? しかも、よりにもよってお兄様が見つけてきた相手なんて。そんなの死んでも嫌だ。
 しかし開きかけた口は、次に浴びせられた言葉で凍りついた。

「いつまでもオレを好きなままじゃいけないだろ?」

 まるで、奈落の底に突き落とされたかのようだった。

「気付かれてないとでも思ってた? あんな物欲しそうな目しといて」

 鋭い言葉の矢が心臓を貫く。痛みを受け止める隙も与えられず、追撃の矢が放たれた。

「放っておけば諦めるだろうと思ってたのに、いつまでもその気配ないからさ。こんなことなら早いうちに針で矯正しておけば良かったよ」

 無慈悲な言葉の刃で切りつけられる。相手が再起不能になるまで徹底的に叩きのめすやり方は実にお兄様らしい。だけど、やられる方はたまったものじゃない。思わず懇願していた。

「お兄様、お願い。もうやめて」
「なに? オレが間違ったこと言ってるかい?」
「っ、それでも、ひどすぎます……い、いくら家族だからって……」

 涙ながらに絞りだす。しかし軽々と一蹴された。

「家族? よくお前がそれを言えるね。家族にこんな気持ち悪い感情を向けておいてさ」

 失笑混じりに吐き出され、目の前が真っ暗になる。それは、間違いなく私を殺す言葉だった。

「他の男と結婚するのが嫌なら、頭をいじるしかないね。バグは修正しなくちゃ」

 針の先端が光る。

「さあ、選べ」

 お兄様は冷淡にうながした。もう言葉を発する気力は残っていなくて、首を横に振るだけで精一杯だった。

「嫌なの? うーん、困ったなぁ」

 わざとらしく考えるそぶりを見せると、閃いたように手を叩いた。

「ならこの家から出て行ってもらうしかないね」

 お兄様は私を選ばない。分かっていたことだ。そういうお兄様を好きになったんだから。でも、こんなのあんまりだ。秘めた思いでさえも罪だというのか。
 足の重心が定まらず、その場で崩れ落ちた。溢れ出た大粒の涙が地面を打つ。その雫の一つがお兄様のつま先に落ちたが、泥水でも振り払うように踵を返された。

 ――私は、完全に軽蔑されたんだ。

 何よりもそれが悲しくて、逃げるように家を出ていった。

 そこからの毎日は地獄だった。何をしていても兄のことを思い出して、ズタズタに傷つけられた心が悲鳴をあげる。絶望のあまり命を絶ってしまいたくなることすらあった。
 でも、ある時ふと、自分の中が空っぽなことに気がついた。己の存在意義に等しかった兄を失った今、残るものは何もない。ずっとそれでいいと思っていた。でも、このままじゃダメなのだと絶望のどん底まで落ちてようやく気がついた。
 兄のいない世界を知らなくてはならない。その結論に至るまで相当な時間を要した。行動に移せるようになるまでは更なる時間を費やした。外に出るようになって、交友関係を持つようになって……そうしているうちに、少しずつだけど死んだ心を取り戻していった。いつか、この身に巣食う絶望も過去にできる日がくるのかもしれない。そんな風に考えられるようになったのが最近のこと。あの家を出てから、実に二年近くの月日が経っていた。

 ――でも、どうやら私の人生はそう簡単に上手くいってはくれないらしい。

 暗い夜道。歩き慣れた家までの道のりがいやに長く感じるのは、隣にいる彼のせいだろう。先ほどから私と彼の間でとるに足らない会話が続いている。話の節目で大袈裟になり過ぎないリアクションを取りつつ、絶妙な距離を保ちながら足を進めた。
 穏やかな眼差し。柔和な笑み。少し不器用そうなところがまた人の良さを現している。絵に描いたようないい人だと思う。そんないい人が私に好意を向けてくれているのも、なんとなく分かっている。
 だけど、今私の胸を占拠するのは、得も言われぬ焦燥感だった。

「ここで大丈夫です」

 家まであと数分はかかるというところで切り出す。横に並んだ彼はわずかに眉を寄せた。

「危ないから家の前まで送るよ」
「大丈夫です。本当にすぐそこなんで」

 満面の笑みは拒絶の意。相手も察してくれたらしく、それ以上食い下がってくることはなかった。

「それじゃあまた」
「ええ、おやすみなさい」
「あ、あぁ。おやすみ」

 何か言いたげな顔に見えたが、あえて触れることなく背を向ける。そのまま駆け出したくなる気持ちをぐっと抑えて、歩き出したときだった。

「あ、あのっ! ナマエさん!」

 名を呼ばれたかと思えば、背後から抱きしめられていた。逞しい腕に体の自由を奪われる。熱い吐息が耳にかかって、ぞぞぞっと背筋に悪寒が走った。

「あの、俺っ!」
「えっ、ちょっと……」
「聞いてくれ!俺は、君のことが……!」
「…っ、離してっ!!」

 とっさに突き飛ばしていた。振り返れば、よろけた彼が傷ついた顔でこちらを見ていた。ずきりと胸が痛んだが、構わず駆け出した。

「はぁっ、はぁっ!」

 全速力で走った甲斐あって一分余りで玄関前までついた。鍵を取り出そうと鞄を漁るが、手が震えるせいで上手くいかない。全身を支配するのは紛れもない恐怖だった。でも、さっきの出来事に対するものではない。これは、この先起こりうることへの恐怖だ。

(お願い。お願いだから――)

 しかしその願いは、扉を開けた瞬間に虚しく散ったことを悟った。

「おかえり」

 広くはないワンルームのアパート。その中央に置かれたソファに、私を掻き乱す渦中の人物が腰かけていた。

「イルミ、兄さん……」

 名を口に出せば、深い落胆に襲われた。同時に、緊張が足元から這い上がってくる。

「随分と急いで帰ってきたんだね。何か用事でもあったの?」
「ないよ」

 声が震えないように気を払いながら答える。かつての私が見たら卒倒するような態度だろう。

「兄さんこそ何の用なの」
「冷たいな。一人立ちした妹の様子を見に来ちゃいけないの?」

 危うく舌を打ちかけた。何が『一人立ちした妹』だ。私を勘当したのは他でもない兄さんなのに。

 ――すべてを壊されたあの日から二年。何の前触れもなく、兄は姿を現した。突然の来襲に取り乱す私に構うことなく兄は居丈高に言い放った。『お前って男の趣味悪いんだね』と。……そう、二年ぶりの再会を果たしたあの日も、今日と同じように私が男性と食事をした帰りのことだった。

 兄を無視して、脱いだコートをハンガーにかける。背中に突き刺さる無遠慮な視線に、内心冷や汗をかいた。まるで判決が下されるのを待つ罪人のようだ。

「随分と楽しそうだったね」

 ああ、やっぱり。思わずうなだれた。

「覗き見るのやめてって前に言ったよね」
「オレがいつそれを了承した?」

 鋭い語気に二の句が継げなくなる。何においても、この兄に勝てたことなど一度もないのだ。

「あんな態度とって良かったの? あの男、かなりショック受けてたみたいだけど」
「別に付き合ってるわけじゃないから」
「向こうはそうなる気満々だろ。ヤりたくてたまらないって顔してたし」
「……やめてよ」
「次会ったら誘われるんじゃない? お前もやっと処女を捨てられるね」
「…っ! やめてってば!」
「あっはっは、ごめんごめん。冗談だって」

 心の柔らかい部分を土足で踏みにじられている気分だった。ああ、感情をコントロールできたらどんなにいいだろう。できるなら今すぐにでもこの不毛な感情を消し去ってやるのに。

「ま、付き合ったところでお前には無理だろうけどね」

 ゆっくりと、兄が立ち上がる。その一挙手一投足から目を離せずにいると、影がかかるくらいまで距離をつめられた。長い黒髪のひと房が頬に当たり、服従させることに慣れ切った声が耳に流れ込んでくる。

「あの男に触られたとき、どんな顔してたか分かる?」

 声の響きが電流みたいに背筋を走る。これ以上聞いていたくなくて耳を塞ごうとしたが、腕を掴まれ阻まれた。

「顔面蒼白になって、石みたいに固まってさ」

 骨ばった手の甲で頬に触れられ、カッと首から上に熱が集まった。その変化を目敏い兄が見逃すはずもなく。

「オレが相手だったら、これだけで真っ赤になるのにね」

 悔しさのあまり唇を噛み締める。その反応すら兄にとっては愉快なものでしかないのだろう。口調だけは哀れむように、兄さんは言った。

「どうしようもないね、お前」

 軽蔑されたのだと思っていた。だから切り捨てられたのだと。
 でも、再会してからの兄はまるで矛盾だらけだった。ストーカーのように付き纏い、異性の影があるたびこんな行動をとって。はじめのうちは度が過ぎた嫌がらせだと思っていた。実の兄に愚かな感情を抱いた私に罰を与えているのだと。でも次第に、強い疑念に苛まれるようになった。
 ――そもそもこの兄が、妹からの恋愛感情ごときにそこまで拘るだろうか?
 兄への気持ちはずっと隠していくつもりだった。でも、万が一この感情を知られたとしても兄なら気にしないと思っていた。お兄様ならきっと取るにならないものとしてスルーしてくれる。私が何も求めなれけば普通の兄妹のままでいられるだろうと。でも、それを壊してきたのは他ならぬ兄本人だ。
 もしも、兄妹という絶対的な関係を壊すため、私にすべてを捨てさせたとしたら……。

「……どうしようもないのは、兄さんも一緒でしょう」

 兄が瞠目する。そしてわざとらしく小首を傾げて覗き込んできた。

「なんだ、分かってたんだ」

 その一言で、心が竦み上がる。聞きたくなかった肯定の言葉をいとも簡単に引き出せてしまった。

「なのに男と帰ってくるなんてお前もなかなかやるね。ま、もういいけど」

 兄の手が頭に覆いかぶさる。優しく撫でられ、悪寒に近い震えが走った。

「遊びはもうおしまい。今からオレたちは恋人同士だ」

 ざわりと身体が総毛立つ。体の反応は警戒そのものだった。

「これからはお前の望みをぜんぶ叶えてあげるよ」

 その言葉を額面通り受け取れるほどもう子供じゃない。それでも、心の奥底−−兄の手によって無残に傷つけられた部分が、歓喜に打ち震えるのをどうすることもできない。

「奪うの間違いでしょう」
「同じことだろ?」

 暗く澱んだ眼差しに捕われたまま、深く、唇を塞がれる。

 いつか私は、この恋に殺される日がくるのかもしれない。


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