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猫を殺した好奇心


 はじめは、ただの好奇心だった。

 似たような環境で育った同年代の男の子が物珍しくて、真っ黒で底の知れない瞳の奥に潜む感情が知りたくて、私はイルミにしきりにちょっかいを出した。今思うとなんて恐ろしいことをしていたのだろうと背筋が冷たくなるが、幼い頃の私はそれはもう怖いもの知らずな性格だったのだ。

 イルミの後ろを追いかける私の姿を両家の親は微笑ましく眺めていたけど、まとわりつかれている本人はこれ以上なく迷惑そうだった。話しかけても大概無視。それくらいならまだいい。イルミの苛立ちがピークに達した時は、親の目を盗んで毒を飲まされそうになったり、外に放り出されてミケの餌にされそうになったこともある。しかし当時の私にはまったくと言っていいほど効いていなかった。むしろイルミに構ってもらえて喜んですらいたと思う。頭のネジが何本か吹っ飛んでいたとしか思えない。

 私のあまりのしつこさに観念したのか、やがてイルミは少しずつ相手をしてくれるようになった。だいぶ不本意そうだったけど殺されかけていた時に比べたら大きな変化だ。私は舞い上がって、さらにイルミに構うようになった。人嫌いの猫を手懐けたような感覚に近かったと思う。イルミの頭や顔を撫で回したりして、まる飼い猫をかわいがるように接していたのを覚えている。今思えば狂気の沙汰だ。あのイルミがされるがままになっていたのも信じられない。

 しかしイルミへの過剰なスキンシップも思春期を迎える頃にはめっきり少なくなった。この頃の私は幼少期とは打って変わって異性と話すことさえ恥ずかしがるようになっていたからだ。そんな多感な時期にキキョウさんから「ナマエさんが嫁いでくれる日が待ち遠しいわぁ!」と揶揄われるのがいたたまれなくて、徐々にあの家から足が遠のくようになっていった。自然とイルミとも顔を合わせる機会も減り、二十歳を迎える頃にはすっかり疎遠になってしまった。…… 私の認識では、疎遠になっていたはずなのだ。

 ――なのに、ある日突然、目の前にイルミが現れた。

 その日は私の二十歳の誕生日で、そんな特別な日に仕事の予定しかないことに落ち込みながらとぼとぼと帰路についていた時のことだった。

「え? イルミ? ひ、久しぶり……」

 なんの前触れもなく出現した相手に戸惑いつつもなんとか声を絞り出す。
 記憶の中の彼よりも随分背が伸びていたけれど、すぐにイルミだと分かった。こんな特徴的な人間は私の知る限りイルミしかいない。

「えっと……どうしたの? 私に何か用?」

 イルミから返事はなく、代わりに眼前に何かを突きつけられる。何かっていうか、紙。何の紙かというと……。

「なにこれ」

 見覚えはあるがまったく身に覚えがないそれを前に思わず本音が漏れる。すると頭上から呆れたと言わんばかりの仰々しいため息が降ってきた。

「そんなことも分からないの? 婚姻届だよ」
「いや、それは分かるけど……」
「そ。ならさっさと記入してくれる?」
「えっ? 私が?」
「お前以外誰がいるの」

 恐る恐る視線を持ち上げると、光を通さない真っ黒な瞳と目が合う。あの頃と変わらないその瞳がどんな思いを宿しているのか、今の私にはさっぱり分からなかった。

「あはは……イルミ、冗談きついって……」
「オレのところはもう書いておいたから」

 鼻先に突きつけられたままの用紙に視線を戻せば、確かに片側の記入欄は埋まっていた。判子もしっかり押されている。それを目にした途端、背筋がぞわぞわと粟立った。
 何で。どうして。そんな言葉の切れ端がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

「本気で言ってるの?」
「うん」

 あっさりと肯定され、束の間絶句する。
 何なんだこれは。まったくついていけない。なぜこんな奇妙な状況になっているのかさっぱり分からない。
 混乱の坩堝に叩き落とされた私を見下ろして、イルミがにんまりと笑う。きゅうっと細められた目は獲物を狙う猫そっくりだ。

「ナマエの家族のサインも貰っておいたよ」
「は!?」

 言われて見れば、何と我が父のサインが書かれているではないか。
 まさか勝手にゾルディック家との縁談を成立させてしまったのだろうか。十分あり得るから恐ろしい。一族の繁栄のためならば娘を犠牲にすることも厭わないような親なのだ。
 一気に焦燥感が増して、慌てて携帯を取り出す。真偽を確かめるため父に電話をかけようとしたが、鋭い声が私の動きを制した。

「言っておくけど、ナマエから言い出したことだから」
「――は?」

(私がイルミとの結婚を?)
 
 記憶を掘り返してみるが、これっぽっちも思い当たる節がない。そもそもイルミとはここ数年、会話どころか顔を合わせた記憶すらない。言い掛かりにもほどがある。
 抗議の意を込めてイルミを睨みつけるが、それ以上に鋭い眼光が返ってきてたじろいだ。

「そんなこと、私は言ってない」
「言った」
「いつよ!」
「ナマエが五歳の時」
「ごっ……」

 その時の私は目も口も盛大に開いていたと思う。唖然とする私を見て、イルミは苛立たしげに目を細めた。

「大人になったらオレと結婚するんだって、ナマエがしつこく言ってくるから約束してやったんだよ?」

 噛んで含めるような物言いに戦慄が走る。
 つまり、この男は幼い頃の他愛もないやり取りをずっと覚えていて、その約束を果たすために今こうして私の前に現れたと……?

(気持ち悪い!)

 素直にそう思った。目の前の相手がとんでもないサイコパスに見えてくる。

(昔からブッ飛んだ奴だってことは分かっていたけれど、まさかここまでとは……)

 冷や汗が背中の中心を伝う。今すぐ逃げ出したい。だが逃げたところですぐに取っ捕まるのがオチだろう。
 激しく鼓動を打つ胸を落ち着かせるため、一度唾液を飲み込む。とりあえず深呼吸だ。片手で胸を押さえ、大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。それを数度繰り返し、カラカラに乾いた喉を振り絞った。

「だからって、いきなり婚姻届にサインしろって言うのはあまりにも横暴じゃない? 正式に婚約していたわけでもないのに」

 まずは冷静に論してみる。イルミ相手に通用するとは思えないけど、悪あがきせずにはいられなかった。
 怒りを買うかと内心ビクビクしていたが、イルミは特に気にした様子はなかった。つまり、こちらの主張はまったく響いていないというわけだ。勇気を振り絞って反論を続けた。

「そもそもイルミとは何年も会ってなかったわけだし、今さらそんな子供の頃の話を持ち出されても……」
「オレはずっと見てたよ」
「はい?」

 予想外の方向から返ってきた言葉に耳を疑う。
 イルミがじっと見つめてくる。その濁った瞳を見つめ返した瞬間、背中をぞわぞわと寒気が這い上ってきた。
 怖い。これ以上聞きたくない。しかし頭の中ではイルミの言葉が羽虫のようにぐるぐると飛び回っていて、とてもじゃないけど無視できなかった。
 
「えっと、それは一体どういう意味でしょうか……」

 恐々尋ねると、ぐっと顔を寄せられる。悪意にまみれた黒い目が笑っていた。

「執事にナマエの行動を見張らせて逐一報告させてたんだよ。今日までずっとね。だから会っていない間のことも知ってる。ナマエがいつ、どこで、誰と、何をしていたのか全部ね。お前は何も気付いてなかったみたいだけど」
「ぎゃあああ!!!」

 辺りに絶叫が響き渡った。

(無理無理無理! やばすぎる! 完全にイかれてる!)
 
 パニックになって逃げ出そうとする私の腕を力強い手が掴む。ひっ、と喉の奥で悲鳴がもれた。

「ナマエはオレに放って置かれたのが気に食わなかったってことか。ごめんごめん、どうせ結婚するんだから会う必要ないと思ってたよ。これからはたくさん構ってあげる」
「いいいいいらない! 構わないで!」
「あはは、遠慮しなくていいよ」
「いやだぁぁ!」

 恐怖のあまり半狂乱になる私を、イルミは笑いながら見下ろしていた。しかしその瞳は暗く澱んでいて、底知れない負の感情を孕んでいた。
 その目を見た瞬間、急に頭が靄がかかったようになり、そして唐突に澄み渡った。
 ――思い出した。イルミの眼が何を訴えているのか。幼い頃に培ったものが蘇って、分かりたくないのに分かってしまう。

(ああ……もうダメなんだ……)

 失った、と感じる。思い描いていた平凡な幸せが根こそぎ奪われた喪失感。
 諦めたくないのに、抵抗する力が微塵も湧き上がらない。無駄だと分かっているからだ。――本気になったイルミから逃げることなんて、到底不可能だと。
 失意にのまれ項垂れていると、掴まれた腕が軋んだ。痛みに身を捩れば、反対の手で顎をとられ強引に顔を上げさせられる。

「ナマエが悪いんだよ」
 
 その目に浮かぶ感情は憤りに近いものだった。

「これまでの自分の行いを思い出してごらん? すべてお前が招いたことだ」

 耳元で囁かれ、息をのむ。
 違う、そんなつもりじゃなかった。イルミに近づいたことに特別な意味も、意図も何もなかった。ただの好奇心からだったんだ。
 そんな内心を見透かすように追い打ちをかける一言が投げつけられた。

「そんなつもりはなかった、なんて言い訳が通用すると思う?」
「……っ!」
「今さら無かったことになんかさせないから」

 高圧的な口調はどこまでも不遜だ。
 なのに何も言い返せないのは、彼の目に浮かぶ感情を読み取ってしまったから。

(――どうして、そんな縋るような目で見るの?)

 まるで心をもみくちゃにされた気分だった。イルミに対する感情をどう処理すればいいか分からない。
 腕を掴んでいるイルミの手にさらに力がこもる。痕がつきそうだと頭の片隅で思ったが、振りほどく気にはなれなかった。


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