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薬指のキリトリ線 2


 大声で耳がキーンとする。
 しまった、と瞬時に後悔した。さっと俯いて、イルミの視線から逃れる。
 怒りに任せてとんでもないことを口走ってしまった。ああ、一体どれほど嘲りを受けることになるだろう……。
 唇を噛み締めて沙汰を待っていると、頭上から平坦な声が降ってきた。

「なんだ」

 恐る恐る視線を持ち上げる。頭二つ分ほど高い位置から見下してくる顔には何の感情も浮かんでいなかった。普段と変わらない無表情のまま。てっきり手酷く罵られるかと思いきや、イルミは独り言でも言うかのようにぽつりと零した。

「お前、オレに抱かれたかったんだ」

 その一言に、思考が爆破されたように感じた。すうっと体温が下がって、けれど逆に首から上が熱くなる。あまりの動揺に眩暈すら覚えた。

「ちがっ……!」

 否定の言葉を口にしかけるも、その後が続かなかった。目一杯否定してやりたいのに、訳も分からず込み上げてくるものがあって言葉に詰まってしまう。

(違う? 本当に?)
 
 ぽつぽつと、心の奥底に沈めていた本心が浮かび上がる。でも、決してその思いを口に出すわけにはいかない。剥き出しの心を差し出せるほど私たちの関係は生ぬるいものではない。
 どうにか唇をこじあけ、否定しようとした時だった。

「なら抱いてあげるよ」

 そう言うや否や、長い腕に腰を搦め捕られた。

(な――っ!)

 鼻先が触れ合うほどの距離にイルミの顔が迫って、心臓が縮み上がる。唐突なイルミの行動に、頭の中は混乱一色になった。

「はっ、離し……」
「ナマエの望み通りにしてあげるよ」

 腰が引ける私の顔を、イルミがわざとらしく覗き込んでくる。目を細め、薄笑いを浮かべながら。

「ほら、どういう風に抱いて欲しいか言ってごらん?」

 その問いかけはとびきりの悪意を孕んでいるように聞こえた。悪意に満ちた言葉が心をドロドロと黒く染めていく。やっぱり、この男は死ぬほど性格が悪い。
 イルミの肩を拳で叩いて、距離をとった。

「ふざけないで……」
「ふざける? オレは本気だよ」

 何が本気だ。茶番も大概にしろ。
 怒りが湧き上がって、目を剥いてイルミを睨む。きょとんとした顔でこちらを見返すイルミに余計に苛立ちが増した。

「嫌ってる相手をわざわざ抱こうだなんて悪趣味ね。イかれてるとしか思えないわ」

 唇を歪めて吐き捨てると、イルミの気配が一瞬ピリッとした。しかし構わずに捲し立てる。

「言っておくけど、私は死んでもあんたの思い通りにはならないから。従順な妻がお望みならどうぞ離縁してください」

 気持ちとは裏腹な言葉を告げる。憎まれ口を叩くことでしか、私は自分を守る術を知らない。

 イルミの怜悧な視線が私を貫く。そのまましばらく睨み合いの時間が続いた。
 まさか本当に離縁を言い渡されるんじゃないかと内心ひやひやしていると、ふーっと息を吐き出す音が聞こえてきた。

「嫌いだなんて、オレがいつ言った?」

 ……は? と私は耳を疑った。
 数秒かけて言われたことを理解した瞬間、弾かれたように叫んでいた。

「はぁ!? 顔合わせの時に言ったでしょうが! 忘れたとは言わせないわよ!」
「顔合わせ? ……ああ、あれか。あの時は好きになるのは無理って言ったんだよ。嫌いとは言ってない」
「はあああ? 同じでしょうが!」
「違うね。オレは嫌いな人間と結婚なんてしない」

 思いがけない切り返しに、ぐっと言葉につまる。
 これは、喜ぶべきなのだろうか。でも、あの日に言われたことが頭を過ぎって素直に喜べない。

「……好きには、ならないんでしょう」
「うん」

 あっさりと頷かれ、胸がずきりと痛む。
 私のことを好きにはならないけど、かといって嫌いなわけでもないと。好きでも嫌いでもないとは、つまりどうでもいい存在ということだろうか。
 胸の奥深くに刻まれた傷がじくじくと痛み出す。イルミからどうでもいいと思われるのは嫌われるよりも堪えた。

「それならどうして私に構うのよ。私のことなんてもう放っておいて!」

 子供じみた癇癪を起こす自分が嫌になる。毅然としていたいのに、イルミを前にするとうまく感情が制御できない。
 イルミはわざとらしく溜め息を吐いた。呆れたと言わんばかりの態度だ。実際呆れているんだろう。
 話にならないと立ち去るかと思いきや、イルミはこちらを真っ直ぐ見つめたまま口を開いた。

「だってお前、オレに構ってほしいんだろ?」

 目を見張り、イルミを凝視する。底の知れない真っ黒な瞳には、馬鹿みたいにあんぐりと口を開けた顔が映り込んでいた。

「は、はっ? なにをっ……ばっかじゃないの!?」

 何をどう言っていいかわからず、子供みたいに拙い言葉を重ねる。顔が火をつけたように熱を持っていくのがわかる。
 イルミは私の反応を無視して淡々と続けた。

「ほら、今もかまってかまってって顔してる。オレ弟いるからそういうの分かるんだよね」
「そんな顔してない!」
「してるよ。何だ、お前自覚してないの?」
「なっ……ちが……」

 全身を羞恥と動揺が駆け巡る。身体が熱い。巡る血が沸騰しているようだ。
 動揺のあまり、思わず後ずさりしていた。しかしすぐ背中が壁に突き当たり、それ以上の逃げ場を失ってしまう。
 イルミは目を逸らさず、一言一言刻むように告げた。

「オレの気を引くために、わざとルールを破ったり怒らせるようなことしてたと思ってたんだけど、違うの?」
「っ……」

 ひゅっと息を呑む。まるで喉を掴まれたような心地だった。
 否定するどころか、返事すらできない。イルミの指摘はまさに私の本心だったから。心の奥底にしまいこんで、ずっと見ないふりをしてきた――。

(もう駄目だ)

 すべての力を失って項垂れる。死んでも知られたくなかった秘密を暴かれ、完膚なきまでに叩きのめされた気分だった。

(消えてしまいたい……)

 今までの言動もすべて見透かされていたのだと思うと、あまりの居た堪れなさに死にたくなった。しかし、追い詰められた人間にさらなる追い討ちをかけるのがイルミ=ゾルディックという男だ。
 顎に手をかけ、顔を上げさせられる。息がかかるほど間近でイルミは両目を眇めた。

「本当に子供だよね。ナマエって」

 そう言いながら、イルミは私の顔の両隣を囲うように壁に手をついた。声音は不機嫌だったが、目が笑っている。私をいたぶり、傷つくさまを愉しんでいる。

「昔からそう。本当はオレに構って欲しくて仕方ないくせに、口を開けば不平不満ばかり。そうやって全部オレのせいにして被害者面してれば楽だもんね。でも、それももうおしまい。ほら、オレにどうして欲しいか自分の口で言ってごらん?」

 耳元で囁かれる内容に、喉の奥が凍りつく。
 あんまりだ。本心を引き摺り出すだけじゃ飽き足らず、自ら差し出せと? 差し出したところで踏み躙るだけのくせに。どれだけ鬼畜なんだこの男は。
 唇の内側を跡がつくほど噛みしめる。そうしていないと堪えているものが溢れてしまいそうだったから。でも、それもきっとムダな抵抗だろう。檻の中に閉じ込められた私に逃げ場などない。

「ちゃんと素直になれたらナマエが望むものを与えてあげるよ。お前が欲しがってる言葉も好きなだけ言ってあげる」

 力なく首を振る。違う。偽りの言葉なんていらない。そんなものは虚しいだけだ。それを分かった上でイルミはわざと言っているんだろう。私を傷つけるために。苦しめるために。
 ひくり、と喉がしゃくりあげる。こらえきれず、涙が零れ落ちた。ああ、もういやだ。こんな感情的になって、まさしく子供みたいに。本当、最悪。
 目元を拭っても拭ってもぬぐいきれず両手を使って防ごうとしたものの、その腕はあえなく絡め取られてしまう。抵抗しても無駄だと悟って、私は脱力した。
 泣きじゃくる私の顔をイルミは冷ややかに見下ろしていた。蔑むような眼差しに余計に涙が止まらなくなる。どうしてこんな男を好きになってしまったんだろう。どうしてこんな目に遭ってもまだ好きなんだろう。自分じゃどうにもできない感情に絶望した。

 しばしの沈黙の後、イルミは溜め息を落とした。そこでようやく両手を解放してくれたと思ったら、涙で濡れた頬を拭われた。

「今回はこれで許してあげるよ」

 甘い声が鼓膜を震わせる。口説いてるような声音だった。次にキスされるんじゃないかと思ってしまいそうな。
 頭がくらくらする。いいように扱われているだけだと分かっていても、許されることに喜びを覚えてしまう。

「これに懲りたら二度と離縁なんて言わないこと。いいね?」

 私は自然と頷いていた。降参だった。
 よしよし、と頭を撫でられる。完全に子供扱いだ。私のことを舐めきっているのが伝わってくる。悔しいとは思うけど、どうすることもできない。
 しばらくされるがままになっていると、イルミはふたたび私の手をとった。左手の薬指。その付け根に嵌められた指輪に触れられる。存在を確かめるように、何度も何度も。

「お前が決めた契約だよ。簡単に逃げられると思うな」

 その言葉に、向けられる眼差しに、おぞましい感情の一片を垣間見た気がして、背筋が冷たくなる。
 その時になってようやく、自分が大きな思い違いをしていたことに気が付いた。
 イルミは、私に執着している。その執着の裏側には、好きとか嫌いとかそんな単純な言葉じゃ言い表せない複雑に捻れた感情が隠されている。常軌を逸した執着心。きっと、この先何があってもイルミからは逃げられないんだろう。そのことにこの上なく安堵している自分に、また絶望した。

 ああ、本当に救いようがない。


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