薬指のキリトリ線
「言っておくけど、今さらお前を好きになるとか無理だから」
家族同士の顔合わせが済んだ直後のことだった。そそくさと立ち去ろうとする私を呼び止めたイルミは、周囲の目も憚らずに高々と宣言した。……うん、まあイルミだし。これくらい言ってきてもおかしくはないと思ってたけど、まさか家族の前でやられるとはね。
冷たい視線が私を射抜く。底なし沼のように暗く澱んだ瞳。幼い頃からこの目が嫌で嫌で仕方なかった。その瞳に私への嫌悪が満ちていることを嫌というほど思い知らされてきたから。
「分かってる」
声がうわずるのを必死に抑えて言った。
「そ、ならいいけど」
冷たく言い捨て、イルミが踵を返す。その足取りは心なしか乱暴だった。絡みついて仕方ない蜘蛛の巣を払いのけるみたいな仕草。ああ、私は本当に嫌われている。胸の奥に入ったひびが広がるのを感じながら、去っていくイルミの背中を睨みつけた。
誰もが冷え切った夫婦関係になると思っただろう。私自身もそう確信していた。
――しかし、その予想は思わぬかたちで裏切られることになる。
「遅い」
帰宅早々、玄関先で待ち伏せていた相手が放った一言にげんなりする。思わず回れ右して外に逃げ出したくなるが、目の前の男がそれを許すはずがない。
私が大嫌いな瞳に、今ははっきりとした怒りが宿っている。これからの展開がたやすく予想ができて、ぎゅっと服の裾を握りしめた。
「帰りが遅くなるときはオレに連絡しろって言ったよね?」
あんたは私の母親かという突っ込みは胸の内にとどめておく。私だって命は惜しい。
説明という名の言い訳をしようと、乾いた唇を舐めてから口を開いた。
「電池が切れちゃって……」
本当はイルミからの連絡が煩わしくて電源を落としたんだけど、それを馬鹿正直に伝える勇気はない。かといってうまい嘘をつく機転もありはしない。
イルミはひょいと片眉を上げ、嘲るように笑った。
「へぇ、お前の携帯ずいぶんとバッテリーの消耗が早いみたいだね。もう捨てたら? 数時間の外出も持たないようなら持ってる意味ないし」
「あはは、ですねー……」
気まずさから目を背ける。肌に触れる空気はピリピリとしていてなんとも居心地が悪い。
(今回も長くなるんだろうな……)
長ったらしい説教の予感を感じて、気が遠くなりそうだった。
最悪な形で始まったイルミとの結婚生活は想像以上に不自由で窮屈なものだった。いくつもの一方的なルールを強要され、行動を監視され、執拗に干渉される。その様子はまさに束縛男という言葉がぴったりだ。
だがしかし、私にはイルミに束縛される謂れはない。あれだけ堂々と「好きになるとか無理」と宣言されたのだから。毛嫌いしている相手を束縛するなんてあまりにもおかしな話だ。そう何度も訴えたが、イルミの答えはいつも同じだった。
「束縛ってどこが?」
不思議そうに小首を傾げるイルミを見るたびに私は愕然とした。
こいつ、自覚ないのかよ!
イルミの不可解な行動について考えを巡らせた結果、一つの結論にたどり着いた。おそらくイルミの中では家族=管理すべき対象という方程式が存在するのだろう。そこに私に対する嫌悪の感情など関係ない。どんなに疎ましい相手でも家族という枠組みに入った瞬間イルミにとっては監視対象になるのだ。
しかしそう結論づけたところで私の心は晴れなかった。どちらにせよ窮屈なことに変わりはないし、イルミが私を嫌っているという事実も変わらない。
(イルミの言いなりにだけはなってやるもんか)
幾度となく削られた心はやさぐれた思いを生み出し、私はイルミが突きつけるルールを破るようになっていた。イルミの怒りを買うのは分かっていたけど、それでも意地になって何度も、何度も。
今回も決められた門限を破り、連絡もせずに帰宅した。二重のルール違反だ。予想通りイルミはかなりご立腹で待ち受けていて、またいつものようにネチネチ説教されるのだろうと予想していたが、事態は想像以上に悪い方向ヘと転がっていった。
「次からナマエが外出するときは監視を付けるから。あと外出回数も制限する」
「なっ……」
とっさに顔を上げると、苛立ちをにじませた冷たい視線とぶつかる。
家でも常にイルミに見張られてるっていうのに、それじゃどこへ行っても自由がないじゃないか!
「そんなの絶対無理!」
「お前がいくら言っても聞かないからだろ。本来ならもっときついお灸を据えてやってもいいところなのに、少しはオレの温情に感謝したら?」
物覚えの悪い子供に言い聞かせる様な物言いに苛立ちが募る。いつだってこの男は私を見下し、蔑んでいる。
「ナマエが悪いんだよ? 何度もルールを破るから。お前はゾルディックの人間としての自覚が薄いんだよ」
イルミが一歩、また一歩と詰め寄ってくる。怒りと恐怖を覚えながら懸命に睨みつけた。
「ゾルディックの人間としての自覚? 今さら私に何を期待してるっていうのよ」
皮肉を込めて吐き捨てる。
「そんなに見張って一体何を知りたいわけ? 私がおかしなことでもしないか疑ってるの?」
「そうだね。お前が外で何してるか分からないし。そこらへんの男から病気でも貰ってきたら面倒だろ?」
「は……?」
それは、限りない恥辱と痛手を与える言葉だった。
「本気で言ってるの?」
怒りで声がうわずる。イルミは嘲笑を浮かべ、さらに私を踏みにじる言葉を続けた。
「ナマエさ、まさかオレから信用されてるとでも思ってたの?」
まるで心臓が切りつけられたかのようだった。同時に、怒りが湯玉のように湧き上がってくる。怒りと悲しみで頭の中がごっちゃになって正常な思考を奪っていく。
気づけば、周囲に響き渡る大声で怒鳴り散らしていた。
「結婚してから一度も抱いてこない不能野郎にとやかく言われたくないんだよ!」