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箱庭虚妄 2


 キルアがそれを見つけたのは偶然だった。訓練を抜け出して屋敷内を探索していた最中のこと。気まぐれに足を向けた拷問部屋と称される地下室で見知らぬ女が捕らえられていた。

「うわっ、びびったー」

 女は牢屋に入れられているにも関わらず両手に物々しい拘束具が取り付けられていた。敷地内に侵入した挑戦者か、それとも規則に違反した執事か。なぜ処分されずに放置されているか定かではないが、今のキルアにとってはそんなことはどうでもよかった。

「おねーさーん」

 牢屋の奥でぐったりと項垂れた女に向かって声をかける。返答はない。もう死んでいるのか。

「つまんねーの」

 鉄格子を蹴り上げると、女が微かに反応を見せた。

「なんだ、生きてんじゃん」
「チッ」

 キルアの鋭い聴覚が舌を打つ音を拾う。その態度に面食うと同時に、好奇心がむくむくと頭を擡げた。

「おねーさんここで何してんの?」

 女は答えない。

「なあ聞いてんだけど。おーい、起きろー」
「っさいな……」

 しばらく呼びかけが続くと、ついに女が痺れを切らした。

「んなカリカリすんなって。別にアンタに何かするつもりはないし」

 女が拘束された腕を持ち上げ、しっしと手を払う。しかし拒絶の態度はキルアを助長させるだけだった。幼い胸の内に、新種の生き物を発見したかのような高揚感が湧き上がる。どうにかしてこの変わった生き物の気を引きたい。逸る思いのまま口を開いた。

「なー、ここから出してやろっか」
「……」

 そこで初めて女が頭を持ち上げた。長い前髪から覗く目がぎらりと光る。しかし、次に女が見せた反応はキルアの期待を裏切るものだった。

「はっ、くだらない……」
「なっ!」

 小馬鹿にしたように鼻で笑われ、キルアはムキになって声を荒げた。

「なんだよ!お前ここから出たくねーのかよ!」
「出たいに決まってんでしょ。でもあんたに言っても無駄」
「はあ!?なんでだよ!」
「あんたみたいなガキが、屋敷中にいる執事の目を盗んで私を外に連れ出せるとは思えないんだけど?」
「〜〜っ!!」

 キルアの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。悔しげに噛み締められた唇は開かれることなく、キルアはその場を去っていった。ふたたび静寂を取り戻した空間で、女は屍のようにうなだれた。


 次の日、キルアは地下室に姿を現した。昨日のことなど何もなかったようにケロリとした顔で。

「なーお前いつからここにいんの?」
「……」
「飯とかどーしてんの?」

 答えが返ってこなくてもキルアはかまわず続ける。女は気怠げに頭を持ち上げ、鉄格子の前で座り込む少年を睨みつけた。

「何でまた来たの」
「別に?暇だから。あとここって隠れるのに丁度いいんだよなー」
「ガキの遊び場じゃないんだよ。さっさとママのとこに帰りな」
「帰れって言われてもここもオレの家だけど?」

 そう言い返すキルアの顔には猫を思わせる高慢さと不敵さが同居していた。逆上させて追い払う手が効かないとなると、もはや女に為す術はなかった。

「……好きにすれば」

 勝った、とキルアはほくそ笑んだ。
 地下室の女のことをキルアは亡霊と名付けた。訓練漬けの毎日に飽き飽きしていた少年にとって、亡霊は暇つぶしにうってつけの相手だった。気まぐれに足を向けては好き勝手に喋り倒し、満足したら去る。それが何度も続くと女の方も無反応を貫くのが面倒になったのかぽつぽつと返事をするようになっていた。亡霊との交流を重ねるごとに、キルアが最初に抱いていた好奇心は親しみへと変わっていった。


 ある日、いつも通り地下室にやってきたキルアを見た女が愛想もそっけもない声で言った。

「それ、平気なの」
「え?」

 一瞬何のことか分からなかったが、女の視線を受けてようやく合点がいく。

「あ、うん余裕」

 今のキルアは全身傷だらけで見るからに痛々しい姿をしていた。さっきまで受けていた訓練によるものだ。これくらいの怪我は日常茶飯事で気にも留めていなかったが、女の目にはそう映らなかったらしい。身を案じる目線を向けられ、キルアは胸の内をくすぐられるような感覚を覚えていた。なんだか無性に気恥ずかしくて、誤魔化すために声を張り上げる。

「これ兄貴にやられてんだぜ。イルミっていう一番上の兄貴。イカれてるよなー」

 兄の文句を並べたてながらこっそりと女の方を窺い見る。実のところキルアは、女がイルミによって閉じ込められていることを知っていた。これまで何度か地下室に降りていくイルミの後ろ姿を見たからだ。女の世話をしているのもおそらく兄だろう。女が兄の所有物だと知って、キルアは言いようのない焦燥感を覚えていた。幼いキルアには理解し難い感情だった。
兄の名を出せば少しは反応を見せるかと思ったが、女は表情を変えなかった。その瞳は、純粋にキルアを心配しているように見える。やっぱりこの女は変だ。キルアにとって女は奇妙な存在に他ならなかったが、もう亡霊と呼ぶには相応しくない気がしていた。もしかしたら、亡霊ではない何かになれるのかもしれない。そんな淡い期待を胸に、キルアは以前より足繁く地下室へと通うようになった。兄に見つかればただでは済まないことは分かっていたが、それでも止められなかった。――しかし、終わりの時は唐突にやってきた。


 その日、訓練を終えたキルアはいつも通り地下室へと続く階段を降りていた。こっそり近寄って、あの女を驚かせてやろう。そんな小さなたくらみを抱きながら音もなく地下室に滑り込む。
 女は冷たい石床の上に蹲っていた。その姿を見て、あれ、と首を傾げた。何かが違う気がする。じっと女を観察すると、すぐに違和感の正体に気がついた。手枷がない。昨日まで女の手にあったはずの拘束具が取り払われている。その変化は、キルアの胸に不吉な予感を呼び起こさせた。

「なぁ」

 悪戯を仕掛けるのも忘れ、キルアは女に声をかける。途端、女が弾かれたように顔をあげた。キルアの姿を見て視線を上下にさまよわせたあと、震える唇を開いた。

「だれ……?」

 女が発した言葉を、キルアは一瞬理解できなかった。

「はぁ?何言って……」

 一歩踏み出すと、女は「いや!来ないで!」と悲鳴をあげた。キルアを見上げるその顔は怯え一色だ。

「誰……来ないで……」
「なに寝ぼけたこと言ってんだよ!オレだって!」
「し、知らない……あなたのことなんて知らない!」

 その言葉を聞いた瞬間、キルアは自身の心臓がぎゅっと縮こまる感覚を覚えた。目の縁に涙を浮かべ、怯えた表情を見せる女はとても嘘をついているようには見えない。キルアの脳内に『記憶喪失』の四文字が浮かぶ。それと同時に、兄の姿が浮かんだ。

「まさか、兄貴が……」

 そこまで口に出して、キルアはしばし黙り込んだ。びくびくと怯える女に視線を定めたまま思考を巡らせる。記憶を失った女は、昨日までとはまるで別人のようだった。人格を入れ替えられたのような変貌ぶりは、キルアの中で痛烈な違和感を湧き起こした。

(何か変だ)

 幼い子供の澄み渡った勘がそう訴えている。キルアは地下室にきてからの記憶を一つずつ丁寧に思い起こしていた。牢屋の中で蹲る女。声をかけたとき、女はどこを見ていた?
 疑惑は確信に変わり、キルアは鋭い眼光を向けた。

「嘘だ」
「え……?」

 女が困惑の表情を見せる。何を言っているか分からないという顔だ。

「とぼけんなよ。お前、声をかけたときにまず俺が怪我してないか確認しただろ」

 女がはっと息を呑む。その一瞬の動揺をキルアが見逃すはずもなかった。

「もうバレてんだよ。いい加減その嘘くさい芝居やめろよ」
「……」
「なあって!」

 女の沈黙にかぶせるようにキルアは強く迫る。やがて女は口元をクッとゆがめると、大声で笑い出した。

「あはははは!」
「おっまえ…っ!なに笑ってんだよっ!」

 からかわれたと察したキルアが声を荒げた。しかしそれでも女は笑い続けた。いよいよキルアが本気で怒鳴り声をあげそうになったとき、ようやく女の笑いがおさまった。

「いやー子供の観察眼を侮ってたよ。ごめんね、嘘ついて」
「……なんでこんなことしたんだよ」

 冷え切った声で問いかける。度が過ぎた悪ふざけにキルアは本気で憤りを覚えていた。しかし女は気にした様子もなく明るい声で切り返した。

「どうしてだと思う?」
「知らねーよ!お前なんかもう知らねぇ!」

 キルアが鉄格子を蹴り上げる。怒りのまま罵ってやろうとしたが、女の明るい声に遮られた。

「このことお兄さんには言わないでね。たぶん殺されちゃうから」
「は?」

 意味が分からない。そう目で訴えるキルアに、女はマジックの種明かしをするように意気揚々と語り始めた。

「忘れたふりをしてたのはあんたのお兄さんのお人形遊びに付き合ってたからだよ。あいつさ、私が使い物にならなくなったら頭に針を刺して記憶をリセットしてるの。イカれてるでしょ?」
「なんだよそれ」

 女の言葉はにわかには信じがたいものだった。現に女は記憶をなくしていない。なくしたふりをしていただけだ。きっとまた嘘をついているのだろう。キルアの胡乱な眼差しを受け、女はさらに続けた。

「たしかに最初の頃は針を刺されて記憶を失ってた。でも何度も何度も針を刺されてるうちに脳みそがバグってきちゃったんだろうね。いつのまにか針が効かなくなって、記憶が残るようになってた。イルミは記憶を消してるつもりでも私はぜーんぶ覚えてる。イルミに言われたこと、イルミにされたこと、何一つ忘れてない。でも、もうリセットできないってバレたら何されるか分かったもんじゃないでしょ?だからこうして健気に忘れたふりをしてるってわけ」

 口調は軽いが女の表情には鬼気迫るものがあった。自然とキルアの中から疑う気持ちは消えていく。代わりに、背中に氷を滑り落とされるようなおぞましさを覚えていた。

「何で、イル兄はそんなこと……」
「あは、それ聞いちゃう?」

 女は空々しく笑った。

「あいつさ、針を刺すときにいつも言うの。今度こそオレのこと愛してくれるよね?って。馬鹿げてるよね。記憶を消したところで私は私のままなのに」

 キルアは言葉を失った。幼い胸の内を襲った恐怖は計り知れず、凍りついたように動けなくなった。
 ふと、女は不自然な笑みを打ち消した。キルアから視線を外し、うつろ目で虚空を見つめる。

「なにを言っても信じてもらえない。どんなに言葉を尽くしても、オレから解放されたいからそんなこと言うんだろって。私の言葉は、もうイルミには届かない」

 女の瞳は、まるで壊れた人形のようになにも映していなかった。その瞬間、キルアの中で形容しがたい衝動が駆け巡って、気づけば鉄格子に掴みかかっていた。

「俺がここから出してやる!」

 女が目を丸くさせる。キルアは鉄格子の隙間から手を差し伸べた。

「俺が手を貸すから、ここから逃げるぞ!」
「……あはは。あいつの弟なのに、優しいんだね」

 女は力なく笑うだけだった。その目に浮かぶ深い諦念が、キルアにはたまらなく歯がゆかった。

「ありがとう」

 泣き笑いの響きを帯びた女の声は、まるで別れを告げているようだった。
 次の瞬間、女はありったけの声で叫んだ。目を剥いて声を張り上げる様はまるで気でも触れたかのようで。キルアは面食らって唖然とする。しかしすぐに正気に戻り、女の口を塞ごうと手を伸ばした。ダメだ、そんな大声を出したら、上まで聞こえてしまう――。

「キル」

 背後から聞こえた声に喉の奥が凍りつく。ふりかえると、厳然たる恐怖が立ちはだかっていた。女の方に視線を戻せば、怯えたように作られた表情でキルアを見上げている。やられた、とキルアは思った。

「ここは入っちゃダメだって前に言っただろ?」
「イル兄、俺…っ」

 続く言葉を発する前に後頭部に衝撃が走った。視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りが響く。身体が大きく揺れて、キルアの意識は急速に遠のいていった。気を失う直前、悲しげに微笑む女の顔を見た。それが、キルアが見た女の最後の姿だった。

 その日を境に、キルアが地下室に寄りつくことはなくなった。訓練に嫌気が差して抜け出すところは変わらないがその足が地下に赴くことはない。まるで、そんな場所など端から頭にないかのように――。


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