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どこかで愛が眠っている 2


「オレがナマエの恋人になってあげるよ」
「…………へ?」

 先日、「お前に恋人なんて一生できないよ」と呪いのような言葉を吐いたその口で、イルミはとんでもないことを言い放った。
 身も心も冷え切った冬が終わり、季節は春を迎えようとしている。しかし一向に我が身に訪れぬ春に嘆きながらヤケ酒をあおっていた最中のことだった。私は目を白黒させて、バーカウンターの薄暗い光に照らされたイルミの顔を凝視した。

「イルミ、もしかして酔ってる?」
「オレが?まさか」
「ですよね……」
「いい加減ナマエのつまらない愚痴を聞くのも飽きてたんだよね。オレが付き合えばもう聞かなくて済むだろ?」

 あまりの発言にあっけにとられてしまう。この世にこんな傲岸不遜な交際の申し込みがあるだろうか。少なくとも私にとっては仰天ものだ。

(そもそも愚痴を聞かなくて済むから付き合うって……どういうこと?)

 これはもしかして、たまに発動されるイルミの分かりにくいジョークだろうか。笑い飛ばしたほうがよかったのか?
 酒が回っているせいでろくに頭が働かず、ぐるぐると思考の迷路に陥る私を見て、イルミはひょいと片眉を上げてみせた。

「なに。オレじゃ不満?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」

 剣呑な空気にひるんで、つい口をついてしまった否定の言葉。はっとして自分の口を覆ったけどもう遅い。

「ならいいよね」
「や、あの、イルミ……」
「まだ何かあるの?」

 あるに決まっている。もっとも大きな問題が。しかし、その問題は口に出す前に遮られた。

「ナマエがオレに対して恋愛感情を持っていない事は分かってるよ。別にそれは大した問題じゃない。なにも結婚するわけじゃないんだからお互い不都合があれば元の関係に戻ればいいだけの話だし。それでいいよね?」

 イルミの饒舌に脳がかき混ぜられ、足元がぐらりときたように感じる。

「は、はい……」

 迫力のある物言いに気圧され、思わずうなずく。丸め込まれている自覚はあったけどアルコールでふやけた頭ではイルミの言い分も正しいような気がした。

 かくして、私とイルミのお付き合いが始まった。



 それからの日々は後悔の連続だった。なぜあの時、頷いてしまったのか。酔っ払っていて正常な判断ができなかったとはいえ軽率にもほどがある。しかしあのイルミ相手に「なかったことにしてくれる?」なんて今さら言えるはずもなく……。
 それにしても謎だ。何度思い返しても、あの夜のイルミとの会話をおかしいところだらけだった。イルミの目的は一体なんだ?ただの暇つぶし?それとも本当に私の愚痴を聞かないようにするため?あれこれと思考を巡らせたが、やがて考えることを放棄した。あの変人の思考回路を凡人の私が理解できるはずがない。
 どうかイルミのいっときの気まぐれであってくれと願いながら過ごした数日後。そんな淡い期待は見事に打ち砕かれた。

「や」
「……どうも」

 黒塗りの高級車から降りてきたイルミは、長い足を優雅に運んで近づいてきた。長身でありながら均整のとれた体躯はスプリングコートに包まれており、その下に薄手の黒いニットを着ているのが見える。執事の姿がないのは、これが仮にも“デート”という名目だからだろうか。イヴにもデートまがいのことはしたけれど、あの時とはまるで意味合いが違ってくる。いま私たちは(きわめて不本意ながらも)恋人という関係なのだから。
 目の前に立つ長身を見上げると、若干の気まずさが込み上げてきて目を逸らしてしまう。そんな私の様子に目敏く気付いたイルミは鼻の先でせせら笑った。

「お前、なに緊張してるの」

 余裕たっぷりの態度に悔しさがつのるが、これ以上口を開くとボロが出そうで無言のまま助手席に乗り込んだ。
 車が走り始めて数十分。いったい何が待ち受けているのだろうかと戦々恐々としていたが、目的地に到着した途端に肩の力が抜けた。レトロな佇まいの洋館には覚えがある。たしか、何かの雑誌で取り上げられていた美術館だ。行ってみたいと思っていたから記憶に残っていた。

(イルミのやつ、芸術に興味あったのか……たしかによく前衛的な服着てるもんな。今日は普通の格好でよかった)

 本人には口が裂けても言えないようなことを思いながら、美術館に足を踏み入れた。館内は古い洋館がそのまま活用されていて、歴史を感じさせる調度品が空間を彩っている。あっちこっち物珍しげに視線を散らせていると、いつのまにかイルミが受付でチケットを出していた。えらくスマートな振る舞いに目を見張る。あわてて財布を取り出そうとしたが、イルミ相手になんだか無粋な気がして思いとどまった。あとでコーヒーでも奢ろう。

「イルミ、ありがとう」
「何が?」
「チケット買っといてくれて」
「手配したのは執事だけどね」
「……それは言わなくていいんじゃない?」

 正直すぎるイルミの返答に半ば呆れつつ、消音用の薄いカーペットが敷かれた床を歩く。最初の展示スペースには鮮やかな色彩の絵画が飾られていた。ライトに照らされた作品の前に来ては立ち止まり、また進む。どの作品も一通りは鑑賞して、気になるものがあれば視線をとどめる。美術館の外観に興味を引かれていたが、展示されているものもなかなか面白くて、ついつい立ち止まる時間が長くなってしまう。いつのまにか夢中になっていた。
 ふと、視線を感じて横を見ると、イルミがじっとこちらを見ていた。まずい。完全にイルミの存在を忘れてた。『いつまで此処にいるつもり?もうとっくに飽きてるんだけど』前回の水族館でのイルミの発言を思い出し、とっさに謝罪が口をついた。

「ご、ごめん。待たせちゃって……」
「別に。好きなだけ見なよ」

 あっさり返されて拍子抜けする。嫌味の一つや二つくらい飛んでくると思っていたのに、イルミはそれ以上何も言わなかった。淡々とした口調はいつものこと。そっけない態度も変わらない。でも、いつもと何かが確実に違う。その変化に、むずがゆいような、なんともいえない気恥ずかしさがこみあげた。
 イルミがずっと私と歩調を合わせてくれていたことに気づいてからは、いよいよ鑑賞どころではなくなってしまった。
 


 美術館を出ると、あたりはうっすら暗くなり始めていた。時計を見て、まだ夕食までは時間があるな、なんて思いながら隣を見る。するとちょうどこちらを向いていたイルミとばっちり目が合ってしまった。たったそれだけのことに動揺してしまう自分を歯がゆく思いながら、かろうじて言葉をつないだ。

「このあとどうする?」
「すこし歩いたところにカフェがあるから、そこでコーヒーでも飲もう」

 即答されて面食らう。あらかじめ考えておいてくれたのか。そう思うと、胸がくすぐられるような気持ちになった。
 夜の気配を纏った空気を肌に感じながら、石畳の歩道を並んで歩く。春先と言えどもまだ冷える。晴れているからと油断して薄着をしてきたことをひそかに後悔した。
 ふいに、肩のあたりが温もりに包まれた。一体何事かと視線を落とせば、先ほどまでイルミが首から垂らしていたマフラーが目に入る。肌触りのいい上質なカシミヤに残ったイルミの体温を感じ、また胸の中がざわざわして顔をあげられなくなってしまった。

「ありがとう……」
「ん」

 その一言がやわらかい響きをもって耳に落ちてくる。途端に、鼓動が早くなった。
 一体これはどういうことだ。あのイルミが優しいなんて、異常事態にもほどがある。イルミがおかしいせいで、私までおかしくなってる気がする。ふわふわと心臓が浮きあがって落ち着かない。

「……今日のイルミ、なんか変じゃない?」
「変って?」

 首を傾けて顔を覗き込んでくる。そんな仕草さえも以前とは違う気がする。

「やたら機嫌が良いというか……」
「……」

 そこで会話が途切れ、沈黙が流れる。まずい、気に障ったか。一瞬ひやりとしたが、イルミは気にした様子もなく答えた。

「浮かれてるのかな、オレも」

 うかれてる?

「なんで?」
「好きなやつと一緒にいて浮かれないやつっているの?」

 真顔でそう言われ、一瞬頭の中が真っ白になった。

「好きなやつって……もしかして、わたし?」
「は?他に誰がいるの」

 心拍音が太鼓のように響き、みるみる身体中が熱くなっていく。
 ――この数日の間で「もしかして」と思うこともあった。だけど、すぐに打ち消した。あのイルミが私を好きだなんて天地がひっくり返っても有り得ないと思っていたから。突きつけられた事実は、途方もない衝撃を私にもたらした。
 ふぅ、と形の良い唇からため息が溢れる様を呆然と見つめる。

「なんで驚くか分からない」
「だ、だってそんなこと一言も……」
「ナマエが鈍いんだよ。お前の理解力に合わせてもっと分かりやすくしてやってもいいけど」
「や、いや、大丈夫で……っ、ひっ!」

 右手にするりとイルミの手が触れる。そのまま指を絡めながら繋がれて鼓動が跳ねた。

「こんなのでいちいち照れないでくれる」

 さも面倒そうに言われる。だけど目を細めて私をみる表情はどこか優しくて、たまらない気持ちになった。
 ふと、顔に影がさす。気づけば、鼻先が触れ合うほどの距離にイルミの顔が迫っていた。

「ち、近い…っ!」
「近づかなきゃキスできない」
「なんでキスっ!?」
「恋人だから」

 驚きで見開いた目に、伏せられた長い睫毛と、シャープな頬のラインが映り込む。そして、唇に柔らかいものが押し当てられる。触れるだけのそれはすぐ離れたが、効果は絶大だった。

「えっ……なっ……」

 言葉にならない単語を零す。心臓が早鐘を打って、今にも爆発してしまいそうだ。混乱の極致にある私に対して、イルミは顔色は一つ変えずに言い放った。

「好きだよ」

 その言葉は心の奥深くにまで突き刺さり、新たな扉を心に浮き上がらせる。その扉はとびきり特別なものになる予感があった。
 これ以上なく顔を赤くさせる私を見下ろして、イルミは口元を綻ばせた。

「ふーん。こういう率直な言葉の方が効くんだね、お前。よし、これからはもっと言っていこう」
「…………か、勘弁して」
「今までオレがどれだけ我慢してやったと思ってるの?これからは遠慮しないから」

 そんな恐ろしい台詞さえも甘く聞こえてしまうのだから、きっともう手遅れなんだろう。ああ、イルミには一生敵いそうにない。


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