茨の君を抱き締める
「大金星だって言われたわ」
待ち合わせ時刻ぴったりに現れた相手に向かって開口一番に言い放つ。挨拶もなしに無作法だと言われようが知ったことではない。あいにくと友達でも恋人でもない男に向ける愛想など微塵も持ち合わせていないのだ。
高級ホテルの最上階ラウンジ。最上階だけあってすばらしい景観がのぞめるこの場所が私は昔から大嫌いだった。一級品に囲まれた空間にちっとも引けを取らない目の前の男のことも。
ブラックで飲んでいたコーヒーの残りを啜りながら睨みつけても、イルミは気にした様子もなく向かいのソファに座った。革表紙の細長いメニューを手に取り長い足を組む。その仕草が悔しいくらい様になっていて苦々しい気持ちがこみあげた。
「お父様もお母様も大喜びよ。これで我が一族も安泰だ、よくやったって」
「そ。よかったね」
「ええ、とっても良かったわ。家にとってはね」
存分な嫌味を含ませて、溜息とともに吐き出す。イルミはメニューに落としていた視線を持ち上げると、小馬鹿にするように目を眇めた。
「この期に及んでまだ納得してないんだ」
「そうね、納得してないわ」
喉がひりついて、語尾が震える。
「結婚する気はないって、何度も言ってたわよね?」
私とイルミの婚姻はかなり前から決められていたことだった。月に一度行われるお茶会も互いの親が取り決めたこと。不毛な時間を過ごす中でイルミは幾度となく私に言った。『こうして会うのも親の顔を立てるため。お前と結婚する気はないよ』と。なのに今さら結婚を引き受けるなんて。とんだ裏切り行為だ。
そんな内心が漏れ、恨みがましく問い詰める私をイルミは軽やかに突き放した。
「うん。言ったね。でも母さんがしつこいから断るのも面倒になっちゃってさ」
「面倒って……そのせいで私は……」
「嫌ならナマエから断ればいいだろ?」
「できるわけないでしょう!?」
かっとして声を荒げてしまう。
没落の危機に瀕した我が一族がゾルディック家との縁談を断れるはずがない。この婚約を白紙にするためにはイルミからの拒絶しか術はなかったのに。なのに、どうして。
「もう決まったことだ。それでもどうしても嫌だっていうなら家を捨てて逃げるしかないね。ま、お前の家族は責任を取らされるだろうけど」
その一言で私がどれだけ傷つけられるか。分かっているのに、躊躇うことなく口にできるのだ。嫌いだ。愛することなど到底できない。それでも、私はこの男と結婚しなくてはならない。
押し寄せる絶望感に打ちのめされ、がくりと項垂れる。
「どうして、私なの……」
「はは。可愛いこと聞くんだね、お前」
こぼれた嘆きを耳聡く拾ったイルミの声はもはや嘲笑一色だった。
「ナマエが好きだからって言えば満足するの?」
「……あんたのそういうところが、反吐が出るほど嫌い」
「うん、知ってる」
少しも抑揚のない声で応じたあと、イルミが手を伸ばしてきた。頬にあたる冷えた指先の感触に身体が強張る。
「ナマエが嫌いなものはよく知ってるよ。それで十分だろ?」
頬に触れられているだけなのに、まるで首を絞められてるみたいに苦しい。
しがらみを捨てたところでイルミからは決して逃げられない。そんなことに今更ながらに気が付いて、涙が頬を伝った。