あなたの欠片が苦しいの 3
「はっ? なに?」
起き上がろうと体を起こしかけたら、胸元をドンと押された。重いし、床に打ち付けた後頭部が痛い。何するんだ! って言いたくなったけど、頭上から感じるただならぬ空気に抗議の言葉は喉奥に引っ込んでしまった。
「あのー……何をしてるんですか……?」
「別の方法で昇華しろって言ったよね」
「言ったけど、それでどうしてこうなるわけ?」
「分からない?」
長ったらしい髪が垂れ下がっているせいで相変わらずイルミの表情は見えない。でも声色がひどく楽しげで、たまらなく嫌な感じがした。
さっきよりも強い力でイルミを押し返すが、抵抗を嘲笑うかのように顔を近づけられた。鼻先が触れるほど間近にイルミの顔がせまる。まるで、意思疎通のとれない野生動物と対面している気分だった。
「今まで散々オレの感情を受け入れてきたんだから分かるだろ?」
「はぁぁ?」
イルミの口ぶりに違和感を抱く。何かが噛み合っていないのは間違いないけど、その正体が分からない。
「……もしかして、私を殴ってストレス発散しようとしてる、とか」
「しらばっくれるのもいい加減にしたら?」
「はっ? ……えっ、ちょっ、どこ触ってんの!?」
イルミの手が服の隙間から入り込んで、ぎょっと目を剥いた。
(まさかとは思ったけど本気で襲う気?)
まったく意味が分からない。弟への執着と私を襲うことに、いったい何の因果関係があるっていうんだ。
ありったけの力をふりしぼり抵抗するが、両手首を片手で一纏めにされてしまう。それでも抵抗せずにはいられなくて、必死に声を振り絞った。
「あんたの感情なんて、おぞましい以外に分かることなんてないっ!」
途端に、イルミがぴたりと動きを止めた。黒々とした目を丸くさせてこちらを見遣るがそれも一瞬で、すぐにいつもの顔に戻ってしまう。
「ま、いいや」
「よくない! 全然よくないから! 分かるように説明しろっ!」
目の前の体を蹴り上げようと膝を立てるが、いとも簡単に抑えつけられてしまう。動けない太ももをイルミの手が這う。その感触に鳥肌を立てながら睨み上げると、イルミは煩わしそうに片眉を持ち上げた。
「ナマエ、うるさい」
「ワケも分からず押し倒されて黙ってられるか!」
「ふーん。本当に分かってなかったんだね、お前」
「だから、なにが」
これ見よがしなため息をつかれる。さも頭の可哀想な人を見るような目つきで。小馬鹿にした態度にムッとするが、次にイルミから言われた言葉ですべて吹っ飛んだ。
「今までお前にやってたのは全部ナマエに向けた感情だよ。ここまで言えば分かるだろ?」
「へっ?」
ぱっかーんと、脳天を割られたような錯覚に襲われた。今、この人、なんて言いました?
(全部、私に向けた感情……?)
頭の中で声を出して、イルミに言われたことを一字ずつなぞっていく。つまり、今まで散々私を苦しめてきた感情の正体が、弟への執着じゃなくて私に対するものだったってことか。なるほどなるほど。それで、その感情を昇華するために押し倒されてると。えーとそれってつまり……。
恐ろしい結論に辿りついて、ざあっと血の気が引いていった。考えたくもないけど、こいつは私のことが……。
心境的には泡吹いて気絶したいくらいだったけど、そう易々と意識を手放せるはずもなく。悲しいほどにはっきりとした意識で現実を受け止めざるをえなかった。
「じゃ、そういうことだから」
「っちょ、待って! 私はイルミのこと好きじゃないから!!」
弄る手を再開されて、悲鳴になりそうな声で叫ぶ。するとイルミは身を乗り出して、私の頭を持ち上げるように両方の手で挟んだ。食い殺されそうな視線に顔を背けたくなるが、耳のあたりを強く押さえつけられてそれも叶わない。
「何で?」
「なんでって……」
逆にどうして好かれてるって思えるんだ? あからさまに態度に出してきたのに。頭の中お花畑かよ!
しかし、この状況でそんなことを言えるはずもなく。答えに窮していると、イルミは勝手に話を進めていった。
「ま、いいや。ナマエの気持ちはどうでも」
「よくない! どうでもよくないからっ!!」
「別のやり方で昇華しろ。そう言ったのはお前だよね?」
「だからそれは、イルミの感情が昔のままだと思ってたから言ったことであって」
「いい加減観念したら?どうせオレからは逃げられないんだし」
「……っ」
息をのんだ。イルミの言葉で、幾度となくこの身に受けた苦痛を思い出した。どこまでもしつこく蝕む感情の渦。その感情に苛まれるたび、イルミから執着される人間に心から同情していたんだ。きっとその人間は壊れてしまうに違いない、と。
ざあ、と全身の血液が裸足で逃げ出すのを感じた。
「ひぃぃぃっ!!」
「動くな」
渾身の力で暴れるが軽々と制されてしまう。
「無理です、勘弁してください! 後生ですから許してくださいぃっ!」
「ははは、そのセリフ本当に言うやついるんだ」
恐怖のあまりパニック状態になる私を、イルミはそれはもう楽しそうに見下ろしていた。
「もう手遅れだよ、ナマエ」