04
「うわ、もう真っ暗」
溜まった仕事を一人で黙々とこなし外に出ると、すでにとっぷりと日が暮れていた。
「不動産いきたかったのに……はぁ……」
力ない溜息が、人気の無い夜道に消えていく。
いつも通りにいけば定時で帰れたのに、クロロ=ルシルフルの出現によってのぼせあがった先輩から鬼の質問責めをされ仕事の妨害に遭い、こんな遅くまでかかってしまった。(当の先輩は見かねた館長から強制早退させられた)
あの男がよっぽど好みだったのか、先輩は人が変わったように私に詰め寄って来た。ただの隣人だと何度説明しても「いいから紹介して!」の一点張り。あいつとは今後一切の付き合いを断ちたいと思っているのに紹介だなんて。冗談じゃない。
「はぁ……」
なんだか身も心も疲れ果てた。
昨日から本当にろくなことが起きない。今日はひたすら眠ろう。先輩の件も、引っ越しの件もそれから考えよう。今はとにかく何も考えずに休みたい。ああ、家までワープできたらなあ。もう歩くのもめんどうくさい。
「随分と遅くまで仕事をしてるんだな」
突然、背後からかけられた声に飛び上がりそうになった。
振り返るとそこにはクロロ=ルシルフルが立っていた。ぎゃあ、と叫びそうになるのをなんとか堪える。
「お疲れ」
男は持っていた本を閉じると、軽く手を上げて近付いてきた。さも当然かのようなそぶりで。こちらとしては不可解でしかない。警戒心を強めながら近づいてくる相手と距離をとった。
「なんでここにいるんですか」
「出てくるのを待ってた」
しれっと言い返されて、たじろぐ。
待っていた? 私を? なぜ。
「待ち伏せしてたってことですか」
「まぁ、そうなるな」
「へぇ……部屋を片付ける時間はないのに、待ち伏せする暇はあるんですね」
「そうだな」
嫌味たっぷりに言ってのけるが、男は歯牙にもかけなかった。
「待ちくたびれたよ。おかげで一日無駄にした」
「っ!」
その言葉で、はっと気が付いた。
(やっぱり、偶然なんかじゃない)
こいつは、私がここで働いていることを予め知っていた。その上で私の前に姿を現したんだ。
理解した途端、心臓が急にドキドキしはじめた。
(いったい何が目的でそんなこと……)
なんだか、嫌な予感がする。この男に狙いをつけられているという事実が、とても恐ろしい事のような気がしてならない。
「何か用ですか。もう遅いんで手短にお願いしたいんですけど」
口早に告げると、男は口角を薄く吊り上げた。その笑みが、こちらの動揺を見抜いて嘲笑っているかのように見えてしまう。冷や汗が背を伝った。
「渡したいものがあったんだ」
「は?」
男は持っていた本を差し出してきた。ふと、その手にはめられた手袋が目についた。シミひとつないそれはきっと新品だろう。なんだか妙な違和感を覚えるが、尋ねる間も無く本を押し付けられた。
「なんですかこれ」
それは赤い重厚な装丁の本だった。カバーの上には日に焼けたパラフィン紙が巻かれている。一目見ただけで古いものだと分かる代物だった。
「古文書?」
表紙には見たことない言語で文字が綴られいた。異国の本だろうか。大きさの割には手にずっしりと重いそれの中身をパラパラとめくってみるが、表紙と同じ異国の字で綴られており意味はまったくわからない。
ざっと目を通してから、これが何なのか問いかけようと視線を上げた瞬間、ゾワリと全身が総毛立った。
「やっぱり、思った通りだな」
男は笑っていた。さきほどまでの暗く沈んだ瞳に、爛々とした光を灯らせて。その眼光は、獲物を見つけた獣にひどく似ていた。
(なにその目。なんで急にこんな……)
今すぐ逃げろ、と頭の中で誰かが警告している。けれど、鋭い眼光に射抜かれて身動きがとれなかった。
「それは、昨日お前が運んできた箱のひとつに紛れてた本だ。特殊な生活体系を持つ少数民族の生態を書いた本で、興味があって注文したんだが……」
男はそこで一息つくと、にやりと口元を歪めた。
「その本、所謂いわくつきだったんだよ。所持している人間が呪われるっていう」
ギュッと、心臓をまるごと握り込まれたような衝撃だった。
言葉を失う私とは対照的に、男はそれはもう饒舌に喋り続けた。
「その本が俺の部屋に運ばれてからおかしなことが次々起きてな。急に体が重くなったり息苦しくなったり、幻聴までし始めた時は驚いた。さすがにおかしいと思って調べてみたら、その本が原因だったってわけだ」
あの大量の本の中から見つけ出すのは骨が折れたよ、と男は軽やかに笑う。
「調べていくうちに分かったことなんだが、その本の呪いは購入者ではなくその時の保持者にかかるものらしい」
「……っ」
まるで足元からじりじりと炙られているかのような錯覚を覚えた。
「俺がこの本を注文したのが二ヶ月前。つまり、少なくとも二ヶ月間は別の誰かが所持していたことになる」
「……」
「まあ、普通なら死んでてもおかしくないだろうな」
――どうしてお前は、生きている?
言外にそう問いかけられているのが分かる。
何か答えなければ。そう思うほど、声が出なくなった。
きっと、絶体絶命のピンチってこういう状況をいうんだろう。体験した事のない窮地に追い込まれ、そんな事を思った。