02
そこには、古ぼけた椅子に腰掛ける若い男がいた。
どんなやつが住んでるのかと思ってたけど、割と小綺麗な雰囲気のある男だった。額には包帯が巻かれ、その下の黒々とした瞳は、突然壊されたドアと見知らぬ女への驚きで見開かれていた。
「どうも。隣の部屋の者ですけれど」
「……随分な挨拶だな」
ええ、そうでしょうとも。私もそう思います。私だって出来ればこんなご挨拶したくなかったですよ。
「ドアの立て付けが悪かったみたいで、押したらすぐ壊れちゃいましたよ」
いけしゃあしゃあと告げてやると、クロロ=ルシルフルは薄く笑った。
(なんだ、この男……)
こんな状況でも落ち着き払っている男に、嫌な予感が頭を過ぎった。しかし、もう引くわけにはいかない。私にはやるべきことがあるんだ。
チラ、と辺りを見回すと男の周りには無数の本が散らばっていた。うげ、また本か。どんだけ本の虫なんだ。
「あのですね、お宅に届けられた本をこちらで大量に預かってるんですよ。今日はそれを届けにきたんです。昨日も一昨日もその前もインターホン鳴らしたんですけど、いらっしゃらなかったみたいなんで」
ニッコリと貼り付けた笑顔で言い放つと、男はようやく手に持った本を閉じた。
「ああ、それで毎日あんなにうるさかったのか」
血が上った頭に、更に燃料が投下された。
いや、なに納得したみたいな顔してるんだ。ていうかやっぱり聞こえてたのか。その上で出なかったってことか。
(こんの、居留守野郎……)
怒りで歪みそうになる表情に力を入れて、無理やり笑顔を作った。
「そうなんです。それであんなにお宅にお訪ねするハメになってたんですよ。分かって頂けて良かったです。……というわけで、早速持ってってください。私の部屋にあるあなたの本、全部。ひとつ残らず!」
「それはできない」
あん?
「……いまなんて?」
「それは出来ないと言っている。部屋に入らないからな」
この部屋の惨状が見えないのか?と、クロロ=ルシルフルは本に埋もれた床を指差した。
いや、見えてますけども。確かにこんな散らかり放題のままじゃ、あの大量の本は受け入れられないだろうけども。
「じゃあ、片付ければいいんじゃ……」
「それも出来ない。本を読む時間がなくなる」
「は……は?」
もう、どう反応していいか分からない。呆気にとられていると男はまた涼しい顔で本を読みだした。
いや、なに普通の顔して読み始めてるんだ。本を読む時間がなくなるから片付けられない? だからまだ預かっていろと?
なんだか頭がクラクラしてきた。
そもそも周囲に迷惑をかけても平気で過ごしているような人間だ。まともに向き合う方が馬鹿なのかもしれない。
決めた。扉も開いたことだし、私の部屋にある荷物全部持ってきてやろう。本が散らかってて置き場所がない? 知ったこっちゃない。同じように散りばめてくれるわ!
――そう心に決めて踵を返そうとしたときだった。
「念が使えるんだな」
不意打ちで、体が反応してしまった。
「なんのことですか」
なんとか取り繕って返答したが、こっちの動揺は悟られてしまっただろう。
「別に隠さなくてもいいだろ。知られると何か不都合なことでもあるのか?」
男は手元の本に視線を落としたまま、人を食ったように笑った。
背筋に悪寒が走る。やっぱり、最初に感じた胸騒ぎは間違いじゃなかった。こいつと関わってはいけない。
反射的に逃げ出したくなったが、グッと堪えた。そんなことしたら自ら弱味を曝け出しているようなものだ。逃げを打ちそうになる体に鞭を打ち、気丈に向き直った。
「だったら、なんだって言うんですか」
「いや、何も? こんなところに念が使えるやつがいるなんて意外に思っただけだ」
「……昔少しだけ教わっただけで、別に大したものじゃ」
「周が出来るのに大したことない、か」
「なっ…」
何故それを。驚きを隠せないでいる私に、男は視線を上げ優雅な手つきで壊れたドアを指差した。
「あれだけの衝撃だったのに扉自体にはなんの傷も付いてない。衝撃から守るためにオーラを纏わせたんだろう?」
扉が壊されたのを見ただけで、そんなことまで分かるのか。失敗した。まさか隣人の迷惑野郎が念能力者だったなんて。しかも、相当腕の立つ念能力者だ。
こちらを射抜く視線に、冷や汗がだらだらと流れる。
なんだか鎖のついていない猛獣の檻に放り込まれたような気分になった。こちらから襲撃したというのに、すっかり立場が変わってしまっている。
この場をどう切り抜けばいいのか、まっしろになっている私を見て、ぷっと男は吹き出した。
「そんな顔しなくてもいいだろ」
さっきまでの威勢が嘘みたいだな、と軽やかに笑われる。
「安心しろ。別に言いふらしたりしないさ」
興味もないしな、そう言いながらまた手に持った本に目を通し始めた。
どうやら私が念能力を使えるかどうかなんて、クロロ=ルシルフルにとっては瑣末なことだったらしい。
内心安堵しつつ、むかむかと腹が立ってきた。関心がないのに妙な気迫で凄んできやがって。こちらの反応を見て面白がっていたんだろう。なんつー性格の悪さ。
「用が済んだなら帰ってもらえるか?」
いや、済んでない。私の用事はなにも。
私は本来の目的を果たすために、緊張でカラカラになった喉から声を振り絞った。
「……私の部屋にある本はどうすりゃいいんですか」
「さあ」
さあ、って……。
なんかもう、疲れた。このまま部屋に戻ってしまおうか。
一瞬だけそう思ったけど、自分の部屋にあるダンボールの山が思い出されて踏みとどまった。
クロロ=ルシルフルは関わってはいけない人種だ。確実に。
だけど、私が本を預かっている以上、奴との縁は続いてしまう。それだけは避けたかった。
「じゃあ、私がこの部屋を片付けたら、受け取ってくれるんですか」
「ああ、それなら構わない」
やけくそ気味な提案はあっさりと受理された。
いや、もっと他の方法で解決するだろ! 自分で片付けろ! 頭の中でふつふつと文句が浮かんでくるが、どれも発する気力がなかった。
もういい。こいつと縁が切れるならなんでも。
クラクラする頭を抑えつつ、片付けの準備をするためにクロロ=ルシルフルの部屋を後にした。