透明になりたい 3


「――!」

 大きな声がして、身体が揺さぶられる。うるさいな。気持ちよく寝てるんだから放っておいて。
 抗議の意を込めて唸ると、頭上でスゥーっと大きく息を吸い込む音がした。

「名字名前! 起きろ!」
「っ!?」

 直接耳に響いた声に一気に意識が掬いあげられ、あわてて顔を上げる。目に飛び込んできたのは、眉間に皺を寄せた教師の顔だった。

「えっ、あれ」

 一瞬、自分が今どこにいるのか分からなかった。あたりを見回すとそこは教室で、周りに座るクラスメイトたちが笑いながらこちらを見ている。そこでようやく、今が数学の授業中だったことを思い出した。

「俺の授業で居眠りとはいい度胸だなぁ、名字」
「す、すみません……」

 頭上にある顰め面が威圧感たっぷりに言う。言い訳やごまかしが通用しない状況だと察して、私は素直に頭を下げた。教師は聞えよがしのため息を吐いたあと「また寝たら廊下に立たせるからな」と釘を刺して授業に戻った。
 軽い注意で済んだことにホッと胸を撫で下ろしつつ、あたりの様子をうかがう。午後の日差しが差し込む明るい教室。いつもこの時間は気怠い空気に満ちているが、今さっき居眠りしていた私が注意されたからか、ちゃんと前を向いて授業を受けている生徒がほとんどだった。
 ――その中に、彼を見つけた。
 その背中を見ていると、私は心臓が激しく打ち出すのを感じた。脳裏にさっきまで見ていた夢の記憶が鮮明によみがえって、衝動的に彼の名を呼んでやりたくなる。

(今はダメだ)

 唇の内側を跡がつくほど噛みしめて、必死に堪える。
 はじめは何が起こったか理解できなかったけれど、思い出した。癇癪を起こす私を宥める言葉も、ひやりとするくらい冷たい眼差しも、はっきりと。

(あれはただの夢なんかじゃない)

 私の直感がそう告げている。

(何が守ります、だ。妖怪なんて信じた私が馬鹿だった!)

 今にも爆発しそうな怒りを抑えながら、授業が終わるまでの時間をなんとかやり過ごした。

 やがてチャイムが鳴って、教室の生徒たちは一斉に動き出す。次の授業までの短い休憩時間。私はすぐさま立ち上がって駆け寄ろうとしたが、それよりも早く彼が教室を出た。私は慌ててその背を追った。

「南野!」

 声を張り上げると、南野は立ち止まった。

「やっぱりあんたの仕業だったのね」
「何が?」

 息巻く私を視線で軽くいなすと、南野は首をかしげた。憎たらしい。このスカした面した男をどうにかしてやりたいという衝動が膨れ上がる。

「とぼけやがって、この狐野郎」

 私はとっさに南野の胸ぐらを掴んで引き寄せた。周囲でどよめきの声が聞こえた気がしたけどもう止められない。詰襟に顔を寄せて、くん、と嗅いでみせると南野は目を見開いた。

「花の匂いがプンプンする。夢の中で嗅いだ匂いと同じ。あんたの仕業なきゃ、なんだっていうの」

 南野は目を丸くさせたまま少しの間押し黙る。やがて観念したように吐息を漏らした。

「降参です。オレがやりました」
「何であんなことしたの?」
「名字さんがどこまでオレのことを知ってるのか探りたくて。もちろん危害を加える気はなかったですよ? 事が済んだらすべて忘れてもらうつもりだったけど、暗示が上手く効かなかったみたいですね」

 しれっと返されて閉口する。その悪びれもしない態度に腹が立つと同時に、じわじわと悲しい気持ちが押し寄せてきた。

(妖怪も悪いやつばっかりじゃない、中には南野みたいな良い奴もいるんだって考えを改めようとしてたところなのに……)

 裏切られたなんて言い方は大袈裟かもしれないけど、今の私の心境はまさにそんな感じだった。

「南野は軽い気持ちでやったのかもしれないけど……私は本気で怖かった。もう二度と戻れないかもしれない、家族に会えないかもしれないって、すっごく怖かったんだから!」

 南野が息を呑んだのが分かった。それから、どこか弱々しい仕草で視線を落とす。その目には後悔が滲んでいるように見えた。

「――ごめん。オレが悪かったです」

 先ほどとは打って変わって神妙に謝られる。南野は重たい目を揺らして付け加えた。

「あなたが怖がっているのは分かってたのに、意地の悪いことをしました」
「……」
「本当にすみません」

 深々と頭を下げられ、私はたじろいだ。こんな風に真摯に謝られると、非難したい気持ちがみるみる萎んでいく。
 正直なところ、南野秀一が完全な悪党だとは思っていない。怖い思いをさせられたとはいえ、危害を加えるつもりはなかったと言っているし、実際無傷で戻ってこれた。

(言いたいことも言ったし、もういいかな)

 フーッと息を吐き出し、気持ちを切り替える。

「……もういいよ。頭上げて」
「許してくれるんですか?」
「謝られたら許すしかないでしょ」

 もうほとんど怒りの気持ちは消えていたけど、簡単に許したと思われるのも癪だからわざと素っ気なく返した。

「ただし、もう二度とああいう事はしないでね」
「さて、それはどうでしょう」
「は……はぁ!?」

 耳を疑った。

(そこはもうしませんって言うところだろうが!)

 まったく懲りてない返事に怒りがぶり返す。
 反射的に文句を言いたくなったが、次に南野が発した一言で喉の奥に引っ込んだ。

「“狐野郎”」

 それは、さっき私が勢いに任せて言い放った言葉だ。南野の思いがけない発言に固まる私を見て、彼はかすかに笑った。

「またひとつ、気になることができちゃったんで」

 不敵な笑みを向けられ、愕然とする。

(しまった――!)

 迂闊だった。夢の中で、南野の姿はただの人間にしか見えないと言ったのに。自ら墓穴を掘ってしまった。

「ま、せいぜい狡猾な狐に唆されないよう気をつけてください」

 南野は内緒話をするようにわずかに身を屈め、品良く微笑む。だが細められた目にはいかにも獣らしい野蛮な光が宿っていた。

(前言撤回。やっぱりこいつもただの妖怪だ……)

 踏み込んだのは私だ。無視すればよかったのに、一方的に暴かれるのが気に食わなくて彼に近付いた。そのせいで、とんでもない相手に目をつけられてしまった。
 きっと、以前のような透明人間にはもう戻れない。そんな予感がした。

 ――そして予感は的中する。
 この日以来、私の周囲は一気に騒がしくなり、平穏とは程遠い日々が幕を開けることとなった。



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