ナイト・エスケイプ 2


 調子よく酒をあおり続け、やがてビールが日本酒に切り替わり、酔いはどんどん回っていった。
 会話の内容は上司の愚痴から同僚の噂話へと移り変わり、しまいにはお互いの人間ドッグの結果について言い合い、それも一段落すると名字がグラスに口をつけてから切り出した。

「最近会う人会う人に彼氏できた? って聞かれるんだよね……」

 溜息とともに吐き出される言葉にはうんざりとした響きがあった。
 珍しいな、と独歩は頭の一隅で思う。名字からその手の愚痴が出てくるのは初めてのことだ。どことなく名字はそういった話題は避けているように思っていたが、相当に鬱憤が溜まっているのだろうか。熱燗をくいっと飲み、独歩はその話題に乗っかった。

「俺も飲み会があると誰かしらに聞かれるな。みんなそういう話題好きだよな」
「ほんっとに。彼氏いないって答えたら頼んでもないのに良い人紹介するよとか言われるし、断ったら断ったでそんなんじゃダメだよ! って説教されるし……」
「あぁ、あるあるだな……」

 独歩も思い当たることがあるのか遠い目をする。名字は目の前の酒を呷るように飲み干して、ふたたび口を開いた。

「どうしてみんな自分の価値観を押し付けてくるんだろう。自分の幸せが他人にとっても同じとは限らないのに……マウント社会つらすぎる」

 独歩が首肯する。恋愛ごとに限らず、人は他人より優位に立ちたがるものだ。
 名字が店員を呼び止めて「焼酎ロックで」と注文した。いつもなら「それくらいにしとけ」と止めていただろうが、今日は独歩も酔いが回っていて判断力が鈍っていた。どんどんおかしな方向に話が進んでいることに気がつかないほどに。

「友達にはいつまで処女守ってんだってからかわれるし」
「……ん?」

 なにか、とんでもない単語が聞こえたような……。
 独歩が通常時より大きく瞼を持ち上げる。酔いでやや歪んだ視界で名字を見た。ロックグラスに氷を落としながら名字はやさぐれた笑みを浮かべていた。アルコールで頓馬した頭がようやく不穏な気配を察知する。しかし独歩が制止をかけるよりも早く、名字は言い放った。

「難攻不落の要塞とかこのままじゃ魔女になるとか言われてさ。私だって好きで守ってるわけじゃないっつの!」
「……ま、待て。一旦待て」

 聞いてはいけないことを聞いてしまっている焦りから独歩の額に汗がにじむ。
 ここまであけすけな会話を名字としたことはない。その時になってようやく独歩は名字がしたたかに酔っていることに気がついた。
 独歩のしどろもどろな制止に効果はなく、名字の暴走は続いた。

「女子会では毎回ネタにされるし、誕生日の時なんてプレートに『今年こそ目指せ脱処女!』とか書かれるし……経験があるやつがそんなに偉いのか? そうなのか?」

 滔々と語られる内容に独歩の顔が引きつる。女子会とはそれほどに恐ろしい集まりなのか。
 名字の勢いに気圧されて二の句を継げずにいると、さらなる爆弾が投下された。

「男の人はいいよね、お金払えば解決するし」

 ドン引きである。
 これはダメだ。一刻も早くこの酔っ払いをどうにかしないと。
 独歩はすみやかに店員を呼んで水を頼んだ。とりあえず水を飲ませて落ち着かせようという作戦である。もう色々と手遅れな気がするがこれ以上醜態を晒させるのは何としても食い止めたかった。
 だがしかし、酔っ払いの猛攻は止まらない。
 
「観音坂に折り入って頼みがある」

 名字が独歩を見つめる。その目は完全に据わっていた。嫌な予感が独歩の胃を圧迫する。

「やめろ、それ以上は言うな」

 名字が自分の意思で伝えようとしているならまだいい。しかし明らかに酔った上での血迷った発言だ。それが分かっていたから独歩はきつい口調で制した。だが酔っ払いの耳には届かない。

「お願い、」

 彼女が区切った言葉の先は聞かないほうがいいと思い、独歩はとっさに両手で耳を塞ごうとした。が、名字が行動に移す方が早かった。

 ――そして、冒頭の土下座である。

 目の前で起きているあまりの出来事に独歩は眩暈をおぼえた。
 なんだこれ、夢か? と現実逃避しかけるが、水を運んできた店員の声に意識を引き戻される。店員がすごい顔で独歩と名字を交互に見た。近くに座る客からも好奇の目線を向けているのが分かる。あぁ、もうこの店には来れないな……と嘆きつつも、独歩は目の前の現実を処理することに意識を切り替えた。

「名字、顔上げろ」

 立ち上がって、ハムスターみたいに丸まった背中に声をかける。

「頼むから顔を上げてくれ。自棄になるな」

 もしこの場に独歩の腐れ縁のホストがいれば「それ独歩ちんが言っちゃうー?」と茶々を入れる事だろう。

「おい、名字……?」

 いくら声をかけても名字はピクリとも動かずまさか死んだのかと一瞬不安になったが、やがて寝息が聞こえてきて独歩は愕然とした。この女、土下座の体勢のまま寝ている。

「嘘だろ……」

 それしか言いようがなかった。
 全身の力が抜けて、キリキリとした胃の痛みとアルコールによる頭痛がいっぺんに襲ってくる。しかし休んでいる暇はない。一刻も早くここを去らないと胃に穴が空く。
 そこからの独歩の行動は早かった。店員の白い目を見ないようにしながら会計を済ませ、携帯を取り出してタクシーを呼ぶ。金曜ということもありすぐにきてくれたタクシーに、寝ている名字を抱えて乗り込んだ。

「はぁ……」

 後部座席に座った瞬間、独歩は盛大なため息をついた。
 疲れた。とにかく疲れた。きっと明日は寝て過ごすことにだろう。せっかくの週末が台無しだ。
 鬱々とした感情が大挙して押し寄せるが、それでも名字を恨む気持ちにはあまりなれなかった。隣で健やかな寝息を立てる名字の目の端に涙が浮かんでいることに気づいてしまったからだ。こいつも色々苦労してるんだな……と哀れみの気持ちが募る。

(俺の辛気臭い顔を見ながら飲んでたから悪酔いしたのか? そうだ、こうなったのも全て俺のせい……)

 お決まりのネガティブ思想を発揮させながら、独歩は窓の外の景色を眺めた。シンジュクのネオン街が通り過ぎていく。

 こうして、独歩の散々な金曜日が幕を下ろした。


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