ナイト・エスケイプ


「お願い! 人助けだと思って私とホテルに行ってください!」

 ビール一杯299円の安い居酒屋の座敷。目の前には土下座する泥酔女。遠巻きに白い目で見てくるオーディエンス。
 悪い夢なら覚めてくれ、と観音坂独歩は心の底から思った。



 遡ること数時間前。その日、独歩はくたくたに疲れていた。
 午前中に取引先からクレームの電話が入り、大慌てで先方へと出向きひたすら頭を下げ続け、散々な罵りを浴びたあとオフィスに戻れば今度はそれをネタに上司からねちねちと説教され、ようやく解放された頃には定時を過ぎていた。今はデスクに積もった仕事の山を片付けている。もちろんサービス残業。
 ビルばかりが見える窓の外はもうすっかり暗くなっていた。先ほどまで社内システムの点検をしていた業者の姿も消え、フロアにはもうほとんど人が残っていない。今日は花の金曜日。多くの労働者が解放される夜。今頃、退勤を勝ち取った同僚たちは飲みに行ったり、家族が待つ自宅に帰ったり、趣味に勤しんでいることだろう。そんな状況が独歩の悲観的思考に拍車をかけていた。

(俺のせい、俺のせい、俺のせい……)

 呪文のようにそればかりを心の中で繰り返す。しかしキーボードを叩く手は止まらないのが悲しき社畜の習性である。
 閑散としたオフィスにキーボードを叩く無機質な音だけが響き渡る。ふと手を止めると、どこかから同じ音が聞こえてくることに気がついた。視線を持ち上げて、唯一明かりがついている隣の島のデスクを見る。独歩の視線の先には、パソコンにかじりつく同僚、名字名前の姿があった。
 名字もまた、独歩と同じ泥沼の残業組だ。さっき課長から「おい名字、これ今日中にまとめておけ」と大量の書類を押し付けられている光景を独歩は目撃していた。業務時間後に突然発生した残業に名字はしばし呆然としていたが、やがてすべて諦めたような無表情になり、今に至るまで黙々と書類の束を片付けている。
 名字名前は独歩の同期であり、そして独歩に負けず劣らずの社畜であった。営業成績はそこそこ、しかし社内営業が不得手で上司から可愛がられず、よく雑務を押し付けられている。しかも元来の責任感の強さと真面目な性格が災いして適当にこなすということも出来なくて、こうしていつも夜遅くまで残業していた。
 独歩はこのどうにも不憫な同期に仲間意識を持っていた。抗いがたい拘束に身を囚われた哀れな同士。その存在は、独歩の沈み切った心を少しだけ軽くする。
 猫背でキーボードを打ち込む背中に向かって心の中でエールを送る。同じく大量の仕事が残っているためコーヒーを差し入れするような余裕はない。
 独歩はふたたびブルーライトを放射する画面に視線を戻し、残りの仕事に取り掛かった。

「はぁ……」

 しん静まり返ったオフィスに溜息が響き渡る。ようやく仕事が終わったところだった。
 時計を見れば22時を回っていた。思ったより早く終わったな、と独歩は思った。一般的に早い時間ではないがその辺りの感覚はもはや麻痺してしまっている。
 照明が半分消えたオフィスを見渡すと、名字の姿がなかった。デスクの明かりはついたまま。休憩中だろうか。
 手伝ってやるかと独歩が席から立ち上がると、背後から声をかけられた。

「観音坂」

 振り返ると名字が立っていた。その顔に先ほどまでの虚無感はない。どうやら片がついたのは相手も同じようだ。

「飲みに行かない?」

 とたんに喉の渇きを覚える。名字からの誘いに独歩は二つ返事で頷いた。



「かんぱーい」
「乾杯」

 運ばれてきたジョッキを控えめにぶつけ合い、二人の飲み会がひっそりと幕を上げた。
 独歩と名字が訪れたのはシンジュク駅付近にある大衆居酒屋だった。会社からのアクセスも良く、値段が安く、評判がいい。二人で飲みに行く時は大抵この店だった。お互い新規開拓する余力がないためだ。
 給料日後の最初の金曜日ということもあり、当然ながら満員だったのに、五分も待たずに入ることができた。その上、てっきりカウンターに通されるかと思いきや、案内されたのは奥の座敷の席。運が良いとお互い静かに高揚する。こんなささやかな幸運を噛みしめるほど観音坂独歩という人間は不幸慣れしていた。そしてそれは名字も同じだった。

「あぁ、ビールがうまい……染みわたる……」
「この瞬間だけは生きてるって思えるよね……」
「わかる」

 お互いだけが聞こえるくらいの声量でぼそぼそと言葉をかわす。初っ端から盛り上がるには独歩も名字も疲れ過ぎていた。そして両者とも会話に調子が出るまでに時間がかかるタイプだった。
 突き出しをつまみながら、お疲れ、お互い災難だったな、と慰め合う。そんな適当な会話をしているうちに独歩の口はほぐれていった。

「課長がいなくなれば今より数倍仕事が捗る気がする」
「あの人気分で仕事振ってくるもんね。こっちの都合はお構いなし。完全に嫌がらせだわ」
「仕事そっちのけで説教してくるしな」
「そうそう! あれさ、家では奥さんに尻に敷かれてるタイプだよ。家庭のストレスを部下で発散してるんだ」

 いつのまにか会話の内容はお決まりの愚痴に変わっていた。非生産的な会話だが、サラリーマンにはこういった時間が必要なのだ。理不尽な上司に憤慨し、溜まった鬱憤を発散する時間が。
 愚痴を肴に酒を飲み続け、順調に酔いが回っていく。奥まった席ということも相俟って声のボリュームはどんどん上がっていった。

「どうして俺たちばっかりこんな目に遭うんだ? おかしいだろ……」
「分かりすぎて辛い……」
「俺が悪いのか? 客から理不尽なクレーム入れられるのも、課長のサンドバックにされるのも俺自身が招いてることなのか……?俺が煮え切らない態度だから相手を助長させてる気がする……そうだ、全部俺のせいだ。俺のせい、俺のせい、俺のせい……」

 酔いが回ろうが関係なく独歩のネガティブ発言は発揮される。自分の世界に入り始めた独歩の向かいで、名字はモツ煮を咀嚼しながら話を聞いていた。独歩がこのモードに入ると大抵の人間は慰めるか窘めるかしてどうにか止めようとするのだが、名字は野放しだった。ただ静かに頷くだけ。気持ちは痛いほど分かるという風に。
 独歩と名字の間には、常に一定の距離感が保たれている。踏み込み過ぎず、踏み込ませることもない。その関係が独歩にとっては心地よかった。
 会社の同僚、特に同じ営業同士で飲むと、大抵そこには何かしらのプライドのぶつかり合いが生じる。血の気が多く、気が強い人間が多いからだろう。そして、その中には己の自尊心を満たすために他人を貶める人間も存在する。その餌食になるのは決まって独歩だった。わざわざ金を払って疲弊するのも馬鹿らしくて、独歩は接待飲み以外は避けるようになっていた。
 しかし、名字と居るときにそういった攻撃的な空気になることは一切なかった。異性だということも関係あるのかもしれないが、名字の気質によるものが大きいだろう。心をすり減らす心配のない穏やかな時間。名字と飲むときは独歩も自然体でいれた。
 その上、今日は金曜日だ。明日は待ちに待った土曜日。休日出勤の予定もない。独歩はつらつらとネガティブを吐き散らしながらも、珍しく気分が良かった。そしてそれは名字も同じだった。
 段々と飲むペースが加速していく。追加のつまみの注文が追いつかないほどに。お互い強かに酔っていた。二人の間に存在していたボーダーラインを軽率に踏み外してしまうほどに……。

 ――そして、ささやかな飲み会に波乱が起きた。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -