間違いは夜に犯すべからず


「いいよ」

 思いがけず優しい響きが耳を打って、私は目を見張った。バーカウンターの薄暗い光に照らされたその横顔をまじまじと見つめる。切れ長の瞳に、すらりとした鼻梁。形の良い唇は薄い微笑をたたえている。つくづく顔が良い男だと思う。顔だけじゃなくスタイルも良い。ダークグレーの細身のスーツは蘭の長身によく似合っていた。どう見ても堅気じゃないけど。

(腹立つくらい格好良いなこの男)

 アルコールが回った頭でそんなことを思っていたら、ふいに蘭が手を伸ばしてきた。その指先が頬に触れる寸前、私は反射的に首をすくめる。蘭に触れられるのは少し怖い。彼の手が簡単に人を捻り潰せることを知っているから。

「何ビビってんの?」

 蘭はそんな私の反応すら面白がるみたいに目を細めて笑った。そして私の頭の上にぽんと掌を乗せると、くしゃりと髪を撫でた。まるで小さな子供にするみたいな仕草だ。こんな風に甘やかされるとなんだか悪い気がしなくなってしまう。我ながらちょろい女だと思うけど、酔っ払いなんてみんな大なり小なりそういうものだろう。
 そのままされるがままになっていると、不意に蘭の手の動きが変わった。長い指先が髪の間に差し込まれて引っ張られたのだ。痛みを感じるほどではないものの、それなりに強い力で掴まれているらしく後頭部がじわじわと熱を持ち始める。思わず抗議の声を上げようとしたところで、蘭の顔が近づいてきた。

「で、どこでヤる? ラブホ? 俺んちでもいいけど」
「へ……?」

 唐突に謎の選択を迫られて、間抜けな声が出た。蘭はおかしそうに喉を鳴らすと「だからァ」と言葉を続ける。

「ヤる場所選べっつってんの」

 お前が誘って来たんだろ? と付け加えられて、私はぽかんと口を開けて固まった。そこでようやくアルコールで鈍った脳が機能し始めた。

(あれ、私さっきなんて言ったんだっけ?)

 たしか、今日はちょっと飲み過ぎたみたいな話の流れになって、そしたら蘭が送ってくれるって言ってくれて、それで……。そこまで思い出したところではたと気づく。そうだ、その後だ。私がうっかり口走った台詞は―――。

(蘭ちゃん大好き、抱いて!って言ったわ……)

 一瞬で酔いが覚めた。というか血の気が引いた。どうしてあんなことを言ってしまったのか。普段なら絶対に言わないのに。
 酒の勢いで口から出た言葉は、紛れもない私の本心だ。これまでずっとひた隠しにしてきた、それこそ墓場まで持っていくつもりだった想い。それをまさかこんな形で本人に暴露してしまうなんて。数分前の自分をぶん殴ってやりたい。

(どうしよう。どう言えば誤魔化せる?)

 必死に思考を巡らせるも、良い案は浮かばなかった。今は酒が入っている上、相手はこの男だ。下手な誤魔化し方をすれば、それこそ墓穴を掘ることになりかねない。
 そもそも蘭も蘭だ。酔っ払いの発言なんて流してくれればいいのに、何を了承してくれてるんだ。その上ヤる場所とか聞いてくるし。悪ノリにも程がある。
 黙り込んだまま固まる私を見て、蘭が楽しげに笑う。そして髪を掴んでいた手を離し、首筋をするりと撫でてくる。途端にぞわりとした感覚に襲われて、息を飲んだ。まずい。なんか分からないけど、猛烈にまずい気がする。
 逃げ出そうと身を捩るも、肩を押さえつけられて動けなくなった。

「逃げんなって」

 耳元で囁かれて、背骨に甘い痺れのようなものが広がった。吐息混じりの低い声は妙に色っぽくて、顔に熱が集まっていくのを感じる。
 この男は本当にずるいと思う。こういう時ばかり優しい声で、優しい手つきで触れてきて、こっちの反応を楽しんでいるのだ。とことん性格が悪い。でもそんなところも魅力に感じるんだから救いようがない。

「あのー……」

 結局うまい言い訳を思いつけないまま、私はおずおずと口を開いた。

「さっきのはやっぱり無しで……」

 蚊の鳴くような声で告げると、蘭は小さく吹き出した。

「それは聞けねぇ頼みだなァ」

 蘭は微笑みの中で軽く目を炒めて「自分の言葉にはちゃんと責任持たないとなァ」と言った。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら。
 いつまで悪ノリを続けるつもりなのかと恨めしく思っていると、ふいに蘭が身体を屈めて顔を近づけてきた。鼻先が触れるほどの距離で視線が絡み合う。その瞳の奥に宿る不穏な色に気づいて、私はごくりと唾を飲み込んだ。

「蘭ちゃん、何か怒ってる……?」
「いーや? 何も?」

 すがすがしいとすら表現できるほどの笑顔なのに、目だけが笑っていない。いや絶対怒ってるでしょ!と突っ込みたかったけれど、なんだか不用意に触れられない空気を感じて私は押し黙った。
 どうしたものかと考えあぐねているうちに蘭は煙草を取り出した。彼はそれを口にくわえて火をつけると、ふうっと煙を吹きかけてくる。反射的に眉根を寄せると、蘭が喉奥で低く笑いながら言った。

「お前さー、酔ったら誰にでもンなこと言ってるわけじゃないよな?」

 予想外の質問に面食らう。蘭は相変わらず薄っぺらい笑みを浮かべたまま答えを待っている。

(誰にでもなんて、そんなわけ……)

 でもそれを口に出すことはできなかった。言ってしまったら、今度こそ冗談では済まなくなる。そうなったらきっと蘭とは今まで通りの関係ではいられなくなるだろう。そう思うと怖かった。臆病者の私は、今の心地よい関係を壊すことが怖いのだ。
 だからと言って、蘭の言葉に頷くのも躊躇われた。彼が一体どういう意図でそんなことを尋ねているのか分からないけど、答えを間違えたら取り返しのつかないことになる。それだけはなんとなく分かった。
 言えない答えを呑み込んだのが悪かったのか、蘭の顔から笑顔が消えた。同時に色素の薄い瞳がスゥッと酷薄に細められる。

「答えろよ」

 凍りつくほど冷たい声だった。

(怖っ!)

 思わず叫びそうになったのをなんとか堪える。
 気持ちがバレるかもとか気にしてる場合じゃない。これ以上蘭の機嫌を損ねるのはまずい。本能的に危険を悟った私は、震えそうになる唇を動かした。

「ら、蘭ちゃんだけ、です……」

 カラカラに乾いた喉からなんとか絞り出すと、ようやく蘭が凄む視線をやわらげた。

「ならいいけど」

 そう言う彼の声音はいつも通りの飄々としたものに戻っていて、無意識のうちに強張っていた肩の力が抜けていく。よかった、とりあえず最悪の事態は免れたみたいだ。
 しかし安堵の息をつく暇もなく、蘭の長い指先が耳の裏に触れた。

「ひゃっ!?」

 耳の縁をするりと撫でられて、びくりと肩が跳ね上がる。

「すげー声。耳弱いんだ?」
「う、うるさいな!」

 慌てて耳を押さえて睨みつけると、蘭がおかしそうに笑った。完全に揶揄われている。悔しい。
 私が文句を言うより早く、蘭が再び顔を寄せてきた。今度は額がくっつきそうな距離で目が合ってドキリとする。

「続きはベッドの上で聞かせてもらうわ。言っとくけど、冗談とかじゃねぇからな」

 囁かれた言葉に頭が真っ白になる。

(嘘でしょ? え、まさか本当に?)

 信じられない気持ちで蘭を見つめ返すと、彼は余裕たっぷりといった表情で微笑んだ。だけどその目には先程と同じ、いやそれ以上の熱がこもっていて。それが意味するところを理解した瞬間、私は自分が大きな勘違いをしていたことに気づいた。
 途端に心臓が早鐘を打ち始める。全身の血流が激しくなって、顔どころか身体中から火が出そうだ。

(ああもう、どうしよう……)

 今でさえこんな状態なのに、これからどうなってしまうんだろうか。バクバクとうるさく脈打つ鼓動を感じながら、緊張と期待と不安がない交ぜになる。
 そんな私を見て、蘭がふっと口元をゆるめた。

「緊張してんの? かーわい」

 そう言って笑う蘭の声は甘くて優しい。
 やっぱり蘭はずるいと思う。気に食わないことがあるとあんなにも怖い顔をするくせに、こういう時は砂糖菓子みたいな甘ったるい声で、甘い言葉を吐くんだから。でもそういうところも好きだと思ってしまう私は、きっと重症なんだろう。
 蘭はもう一度私の耳に手を伸ばした。優しく触れてくる指先に、私は観念して目を閉じる。そして、自分の唇に触れる柔らかい感触に身を委ねた。


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