バッドエンドとそれから


 電車を降りてホームに立つと、午後の日差しの照り返しに頭がくらくらした。階段の手すりにつかまり、ゆっくりと上る。肩で息を継いだ。ここ数日ろくに飲まず食わずで過ごしたせいで体力が落ちているのがわかる。しっかりしろ、と自分を叱った。
 迷路のような駅の構内を抜けて、ようやく外に出た。駅前の通りには人も車も絶え間なく行き交っている。見慣れた光景を眺めながら思わずため息がこぼれる。
 彼らがいなくなった街は、これまでと何ひとつ変わらなかった。八つ当たりだと分かっていても恨めしく思ってしまう。なんて残酷で、優しくないんだろうって。
 巡らせた思いを苦笑まじりに切り捨てる。世界を恨んでみたところで何も変わらない。どう足掻いても過去は変えられないし、未来のことはわからない。だから、目の前にある現実に立ち向かっていくしかないんだ。

 雑踏をかき分けて目的の場所に向かう。立ち並ぶビルを横目にいくつも信号を渡り、住宅街の狭い路地を進み続けると、やがて一棟の古びたビルに辿り着いた。
 何度かメモを確認し、階段を上る。煤けたコンクリートの壁に目を当てながら、表情がこわばっていくのが自分でもわかった。
 バッグの口を開けて手を差し入れると、ハンカチに包まれた物を指で探った。布の下には鉄の塊が息をひそめているはずだった。拳銃など手に持つのはこれが生まれて初めてのことだった。
 汗ばんだ掌で固い感触を確かめながら、何てバカなことをしているんだろうとぼんやり考えた。感情だけで突っ走っている自覚はある。それでも、何もしないで後悔するよりはずっとマシなはずだ。

(一方的に踏みにじられたままで終わらせるものか)

 階段を一段飛ばしで駆け上って、表札の出ていない部屋の前に立つ。この部屋の中に、彼がいる。何度か深呼吸してから、覚悟を決めてインターホンを押す。が、鳴らない。スプリングが軋む感触が指先に伝わってくるだけ。そのまましばらく待ってみたが何の音沙汰もないので、渡されていた鍵を差し込み扉を開けた。
 扉の先はそう広くはないワンルームだった。殺風景な部屋だ。灰色の壁に、同じ色の床と天井。ガスコンロと流し。窓際に置かれた簡易ベッド。そこに春千夜は腰掛けていた。
 何で、と春千夜は呟いた。何でお前がここにいるんだと言いたかったのだろう。その声は少し濁って掠れていた。
 目の下には隈が浮かび、頬はげっそりとこけていて見るからにやつれた顔をしている。正常に話せる状態だろうかと一瞬不安になったけど、苦々しげに顰められた顔を見てそれが杞憂だとわかった。
 すぐに言葉が出てこなかった。言いたいことがありすぎて、一体何から切り出すべきか迷う。しばらくは互いに言葉もなく見つめ合っていた。いや、にらみ合っていたと言うほうが正しい。
 先に口火を切ったのは春千夜の方だった。

「何しにきた」
「落とし前つけにきたんだよ」

 答えると、春千夜は馬鹿にしたように鼻で笑った。続けて「誰の差し金だ?」と片眉をもちあげる。
 その問いには答えず、私はおもむろにバッグから拳銃を取り出した。構える手がみっともなく震えてしまう。だけど銃口を向けられた本人は顔色一つ変えなかった。

「おいおい、随分と物騒なモン持ってんじゃねえか」

 春千夜は逃げ出す様子も抵抗する様子もなかった。それどころか面白がるように「お前に扱えんのかぁ?」「ちゃんと狙って撃てよ」と声高にまくしたてた。挑発してるんだ、私を。
 自棄になってるとしか思えない態度に、腹の底から怒りが込み上げてくるのを感じる。
 私は一度息を吸い込み、それから吐き捨てるように言った。

「マイキーが死んだら、あんたの人生も終わりなわけ?」

 ぴく、と春千夜の肩が揺らぐ。その顔から薄ら笑いが消える。代わりに恐ろしい目つきで睨まれた。
 私はなおも言い募った。

「いつまでそうやって現実から目を背けるつもり?」
「いいからさっさと撃て」
「撃たないよ。誰が撃ってやるもんか」

 気付いた時には、拳銃を放り投げていた。鉄の塊がぼすっと間抜けな音を立ててベッドに着地する。傍らに落ちたそれを春千夜は険しい顔で見下ろした。

「それは護身用に持ってきただけ。楽に殺してもらえると思ったら大間違いだから」

 勝手に口が動いていた。考えている間もなく、怒りが私を突き動かす。
 バッグの中身を素早く漁って目当てのものを取り出すと、春千夜の眼前に突きつけた。彼の目が訝しげに細められる。しかし、突きつけられた物が何か理解すると、その目はみるみるうちに見開かれていった。

「おい、これ……」

 ――それは、精巧に偽造されたパスポートだった。

「航空券の手配も済んでる。今日中には荷物まとめて空港に向かってもらうから」
「オイ、いったい何の冗談だ」
「冗談なんかじゃない。逃げるんだよ」

 逃げる――自分で発したその言葉がやけになまなましく聞こえた。けれど、それは不思議なほど力強い響きでもあった。
 春千夜は心底驚いたように目を丸くしていた。その反応が妙におかしくて思わず笑みがこぼれる。因縁の相手の鼻を明かせて、ようやく気分も爽快になった。
 声なく笑っていると、春千夜が胡乱な目を向けてきた。

「なに企んでんだテメェ。こんなもんどうやって用意した」

 疑惑と苛立ちを含んだ低い声で問われ、私はきっぱりと答えた。

「九井に頼んだ」
「ココが? あいつがこんな一銭にもならないことに手ェ貸すわけねーだろ」
「もちろんタダじゃないよ。ちゃんとお金払って依頼した。偽造パスポートの作成とかその他諸々合わせて五千万くらい」
「は? んな金どっから……」
「マイキーが生きてた頃にくれたんだよ。自分と関わったことでこの先何か不都合があったら、これでどうにかしろって。もうほとんど手元に残ってないけどね」

 おそらく九井はそのことを知っていたのだろう。まったく抜け目がない。
 それでも九井には感謝しかなかった。彼がいなかったら私はここまで辿り着けなかった。
 私の言葉を聞くと、春千夜は黙り込んだ。疑念のこもる目で窺っている。本当か嘘かはかりかねているようだ。
 しばらく無言のままだったが、やがて春千夜は深く息を吐き出すと、ぼそりと呟いた。

「……なんで、お前がそこまでするんだよ」

 心底理解できないという顔だった。春千夜がそう思うのは当然だ。これまで彼にされたことを思えば助ける道理などない。
 改めて考えるとこの二十年余りで大小含めれば数え切れないほど暴言を吐かれてきた。私はちょっと自分に対して呆れ笑いをした。
 自分でもどうかしていると思う。それでも、どんな理屈で納得しようとも決して消えない感情がある。私はもう諦めるということに関してはとっくの昔に匙を投げてしまっている。

「まぁ、あんたには散々お世話になったもんね?」

 皮肉を込めて言うと、春千夜が顔をしかめる。私の発言に苛立っているようにも見えたし、何か痛みを堪えているようにも見えた。
 ふいに、形容しがたい感情が腹の底からこみ上げた。心臓がドクドクと音を立てて鼓動を打ち始める。
 身体に走る興奮のような震えを、拳を握ることで制して、私は口を開いた。

「気に食わないからだよ」

 絞り出した声は少し掠れていた。一度吐き出すと、自分の中にたくさん溜めてきたものが堰を切って溢れ出した。

「散々人のことコケにしてきたくせに、楽に死なせてもらおうだなんて図々しいにも程がある。こっちは死ぬほど鬱憤が溜まってんのよ」

 春千夜が怯んだように息を呑む。

「勝手に死ぬなんて、絶対に許さない。生きて、生き抜いて、私に償え!」

 勢いよく言い放つと、酸欠で頭がくらりとした。滅茶苦茶なことを言っている自覚はある。でも、私にはこれ以外の言い方が見つからなかった。
 ――死なないで。そんなたった一言さえ、簡単には口に出せない。それが私と彼の関係なのだ。
 心を落ち着けるように深い息を吐いた。少し冷静さを取り戻した頭が、興奮気味だった自分を恥じる。

(うわ、どうしよう。急に恥ずかしくなってきた)

 春千夜はきょとんと目を丸くさせていた。その反応が余計に居た堪れない。
 しばらくの間、室内に落ち着かない沈黙が漂う。やがて、それを破ったのは春千夜の噴き出す音だった。

「バッカじゃねーのお前! マジありえねぇ。イカれてるとしか思えねーわ」

 ゲラゲラと腹を抱えながら言われる。あまりにも遠慮なく笑われてさすがにムッとした。

(ああ、そうだよ。イカれてるよ。ありえなくても、犯罪者の仲間入りをしたとしても、それでも頭がおかしくなるぐらい私はあんたが好きなんだよ)

 ぶすっと顔をしかめながら、心の中で言い返す。

「はー、傑作」

 春千夜は目尻にたまった涙を指先で拭った。まだ笑いの余韻が抜けないらしく、ニヤニヤと口の端をゆがめている。

「ほんとばかだよな、お前」

 笑いの混じった息を吐きながら感じ入ったように言われる。その口調が思いがけず優しくて、私は息を呑んだ。
 春千夜はいつのまにか私から奪い取っていたパスポートをしげしげと眺めて呟いた。

「――行き先は」
「え?」
「国外に逃げるんだろ? 行き先はどこか聞いてんの」
「あ、えっと、サンパウロだけど……」
「マジか。いや遠すぎんだろ」

 そりゃ誰も追ってこねーわ、と春千夜はまた笑う。その笑顔は、いつもの人を小馬鹿にしたような意地の悪いものだった。でもどこかスッキリしているように見える。
 今度はすぐに笑いを引っ込めた春千夜が、まっすぐに私を見据える。数拍開けて、ぎごちなく唇を動かした。

「名前」
「――」

 まるで身体をどこかに激しく打ち付けたみたいに、息が詰まった。大袈裟かもしれないけどそれぐらい驚いた。こんな風に名前を呼ばれたのは一体いつぶりだろう。

「お前も一緒に来るんだろうな」

 その言葉を理解するまでに数秒かかってしまった。いや、理解してもまだ、信じられなかった。
 目を瞬かせていると、春千夜はバツが悪そうに「テメェがやり出したことだろ。最後まで責任持てよ」と続ける。
 私はとっさに顔を伏せ、グッと両手で拳を握った。

(――ああ、やっぱりダメだ)

 もう泣かないと心に決めたはずなのに、彼からもたらされるたった一言だけで、自分は泣いてしまいたくなっている。
 胸の奥に押し込んだ想いがざわめいて、膨らんでいく。やがて、血肉を揺らがすほどの歓喜が全身を駆け抜けた。
 どうしようもなく熱く潤んでしまう目を無理やりあげる。表情筋に力を込め、必死に平静を装いながら春千夜を見据えた。

「当たり前でしょ。まだ何もやり返せてないもの」

 そっけなく言ってやった。それ以外の言い方をすると眉間に皺を寄せた顔がたちまち崩れてしまいそうだった。どこまでも可愛くない女だと思う。でも、これが私なんだ。
 春千夜が一瞬、眩しそうに目をすがめる。その目には、心を許した者にだけ向けられるひたむきさや甘さが滲んでいた。それだけで、もう十分だった。

 選んだのは茨の道だ。きっとこの先あらゆる困難が待ち受けている。それでもこの選択に後悔はない。
 いつか迎える最期がどれだけ悲劇に終わろうとも、今この瞬間を思い出して断言できるのだろう。この人生は幸福だったと。


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