バッドエンドとそれから


※梵天軸


『十分で来い』
 五文字のみの簡潔極まりないメッセージを確認したのが約三十分前。会社を出て、駅に向かって歩き始めたときだった。無茶言うな、と内心文句を言いながらも、すぐにタクシーを拾って目的地へと向かう。十分で着くなど土台無理な話で、到着した時には大幅に過ぎてしまっていた。 
 都心の一等地に建つタワーマンション。自動扉をくぐった先に広がるのは、豪勢なエントランスロビーだ。いつ来ても場違いな場所にいる気がして気後れしてしまう。常駐しているコンシェルジュの前をそそくさと通り過ぎ、エレベーターホールへと向かう。
 最上階まで昇り、ようやく目的のドアの前までたどり着いた私は、ロックを解除して扉を引き開けた。

「お邪魔しまーす」

 一応挨拶してから上がり込む。玄関はフラットな構造で、幅の広い廊下が続いている。突き当たりがリビングルームだ。パンプスを脱ぎ捨て、躊躇なく進んでいく。
 リビングに入るとまず目につくのが、部屋の中央に置かれた存在感たっぷりのソファだ。おそらくそこにいるだろうと目星をつけて近付く。
 すると、規則的な寝息が聞こえてきて思わず溜め息が漏れた。

「寝てる……」

 この部屋の住人であり、呼び出した張本人であるマイキーは、ソファに横たわって眠っていた。
 十分で来いと無理難題を言いつけておきながら大層なお出迎えだ。怒りを通り越してもはや呆れた。
 一瞬叩き起こしてやろうかとも思ったけど、珍しく寝入ってる姿を見るとそんな気も失せてくる。
 小さく嘆息した後、ダウンライトの明かりを絞ってカーテンを開ける。天井まである窓からは都心の夜景が一望できたけど、あまり楽しむ気分にはなれなかった。
 とたんに手持ち無沙汰になり、リビングの隅で立ち尽くす。高級感の漂う部屋だが、物が少ないせいか生活の匂いが感じられず、どこかモデルルームのようだ。
 明かりを落としたせいか余計に物寂しさを感じて、吸い寄せられるようにソファの端に腰掛けた。
 眠っているマイキーの姿を改めて見下ろす。ダウンライトのほのかな光を受ける寝顔は穏やかだ。しかし、閉ざされた瞼の下に色濃く浮かぶ隈を見て、胸が痛んだ。

 最近のマイキーはいつにもまして不安定で、心ここにあらずといった風情だった。
 何があったか本人に尋ねたことはない。聞いたところで答えてもらえないだろうし、私じゃ何の力にもなれないと分かり切っていたから。
 長年そばにいても、マイキーには決して踏み込めない部分があった。踏み込めない領域は年々増えていく一方で、その度に自分の無力さを痛感させられた。
 だからせめて必要とされているうちは彼の要望に応えたいと思っていた。私の存在がほんの一瞬でも気晴らしになるなら、と。

(なんて、柄にもないか)

 胸の内でつぶやき、自嘲する。
 私はそんなに綺麗な人間じゃない。マイキーのそばにいるのも単なるエゴに過ぎない。ある意味、利用していると言ってもいい。
 それでも、彼の身を案じる気持ちは嘘じゃない。今のマイキーからは今にもフッと消えてしまいそうな危うさがあった。うまく言えないけど、もう後戻りできない場所に向かっているような気がして不安でたまらない。焦燥と、悲しみと、諦念。様々な負の感情が巡って胸の中を重くさせる。

 私はしばらくの間、ソファにもたれかかってぼんやりとした。時刻はもうすぐ日付を跨ごうとしている。もう終電には間に合わないし、今夜は泊まらせてもらおう。こんな時間に呼び出した迷惑料代わりだ。そう勝手に決めて、気分転換にコーヒーでも飲もうかと立ち上がったときだった。

 ガチャ、とドアノブが回される音がして、はっと目を開く。玄関からだ。
 インターホンも鳴らさずに入ってきたということは幹部の人間だろうと、瞬きの間思案する。
 玄関へと続く長い廊下を凝視する。足早に近づいてくる気配。半ば闇に沈んだそこから現れた人物を見て、私は息をのんだ。

「は……」

 はる。うっかり、昔の子供っぽい呼び方を口にしかけて、下唇を噛んだ。顔を合わせるのは数ヶ月ぶりだろうか。心臓がドクドクと音を立てて鼓動を打ち始める。
 リビングに入ってきた男――三途春千夜は、ソファから数歩離れた場所にたちどまった。

「……あぁ、名前さんもいたんですね」
 
 透けるような色彩の瞳を細め、春千夜がにこやかに話しかけてくる。だけど、こちらの姿を目にとめた瞬間、頬がピクリと痙攣したのを私は見逃さなかった。
 春千夜は私の横をすり抜け、まっすぐにマイキーのところまで歩み寄る。見ると、いつのまにか目を覚ましていたマイキーが上体を起こしていた。寝起きで焦点の定まらない目が私と春千夜の顔を交互に見て、怪訝そうに眇められる。なんでいるんだとでも言いたげな目だ。

(ちょっと待ってよ。それじゃまるで私が勝手に部屋に上がり込んだみたいじゃない)

 よりにもよってこのタイミングで勘弁して欲しい。
 慌てて弁解しようとしたけど、眠気の残る声に遮られた。

「三途、報告しろ」

 水を向けられた春千夜が、身を屈めて何かを耳打ちする。部外者の私には聞かせられない話なんだろうけど、それにしても何だかわざとらしく見えるのは気のせいだろうか。……いや、たぶん気のせいじゃない。
 ひとり蚊帳の外の私は、二人の様子をぼんやりと眺めていた。そうしているうちに報告は終わったらしく、マイキーの視線がこちらに向けられた。

「で、どうして名前がいるんだ」
「いやいや、そっちから呼び出しておいてそりゃないでしょ」

 すかさずツッコミを入れる。マイキーは数度瞬きしたあと、ようやく思い出したのか「あ」とだけこぼした。反応したのはそれだけで、あとは素知らぬ顔だ。まったく悪びれた様子はない。
 この野郎、と思わなくもないけど今この場で文句を言う勇気はなかった。さっきから突き刺さる視線が痛い。
 しばらく沈黙した後、マイキーが立ち上がった。

「今から出る。名前は今日は泊まれ」

 最初からそのつもりだったから素直に頷いた。そのままリビングを出ようとするマイキーの背を見送る。
 こんな夜中にどこへ行くんだろう。気になったけど、やっぱり何も聞けなかった。春千夜の前だと尚更。ただの一般人に過ぎない私と彼らの間には大きな隔たりがある。私はどこまでいっても蚊帳の外だ。
 胸に侘しさが蔓延るのを感じながら、せめて玄関まで見送ろうと思い直して春千夜が動くのを待つ。……ところが、マイキーの後を追うのだとばかり思っていたその人は、なぜかその場を動かなかった。どうしたんだろう。
 不審に思ったのはマイキーも同じだったらしく、振り返って「おい、三途」と声をかけた。それに対し春千夜は、にっこりと付け入る隙のない完璧な笑顔で応じた。

「すみません、ちょっと名前さんに用事があるんで先に車乗っててください。すぐに行きます」

 耳に飛び込んで来た台詞にぎょっとする。
 春千夜の言葉にマイキーは訝しげに眉を顰めたが、ちらりとこちらに視線を寄越すと、何も言わずに部屋を出ていった。
 玄関が閉まる音がしたあと、沈黙が訪れる。
 しんと静まり返った部屋で、自分の心臓の音がやけに響いて聞こえた。二人きりになったことで緊張の度合いが増していく。心を落ち着かせるために深く息を吸い込んだときだった。

「――おい、クソアマ」

 その声は夜中の静けさの中で存外大きく響いた。
 ついさっきまでの明るい声と、この声を発する人物は果たして同じなのだろか。そう疑うほど冷え切った声だった。

(……きた。はじまった)

 萎縮しそうになる心を奮い立たせて、春千夜と目を合わせる。

「なに?」
「お前本気で泊まる気じゃねぇだろうな」
「そのつもりだけど」
「あ? ふざけてんのかテメェ」

 さっきまでの穏やかな態度とはうって変わり、まるで喧嘩腰だ。こちらを見下ろす目には嫌悪の色がありありと浮かんでいる。
 ――あぁ、本当に私は毛嫌いされている。その事実を改めて痛感する。
 この男はいつもこうだ。マイキーの前では愛想よく接してくるくせに、ふたりきりになった途端に態度を一変させる。
 この豹変っぷりには慣れたつもりでいたけど、間が空いたせいか怖気付いてしまい、なかなか次の言葉を切り出せなかった。何も言わない私に、春千夜は苛立ちを覚えた様子でにじり寄ってきた。

「ここはテメェみたいな奴が居ていい場所じゃねぇんだよ」

 威圧感を覚えて思わず後ずさりしたが、すぐに壁際まで追い詰められてしまう。

「分かったらさっさと失せろ」

 ドアに向かって顎をしゃくりながら吐き捨てられる。
 素直に出て行けば済む話だと分かっている。でも、そしたらそれで終わってしまう。
 ぐっと感情を押し殺し、できるだけ平然を装って口を開いた。

「マイキーに、今日は泊まれって言われたから」

 春千夜は「はっ」と完全に馬鹿にした笑い声をこぼした。

「だから? お前、マイキーに言われたからって何でも従うのかよ」
「そういうわけじゃ……」
「前も言ったよなァ? いいかげん身の程をわきまえろって。何を勘違いしてるか知らねぇけど、お前なんかガキの頃から知り合いってだけで他に何の価値もねーからな」

 嘲りに満ちた声で捲し立てられる。
 随分な言い様だけど、春千夜が言っていることもあながち間違いじゃない。私がマイキーのそばに居ることを許されているのは幼馴染だからだ。ただそれだけの理由で彼のそばにいる私を疎ましく思う梵天の人間は多い。その最たる者が春千夜だった。
 この男も曲がりなりにも幼馴染だと言うのに、私に対する当たりには一切容赦がない。昔から何かと突っかかってこられてたけど、お互いの立場が変わっていくにつれてそれは顕著になり、今やここまで関係が拗れてしまった。
 心底気に食わないって顔で睨んでくる春千夜を見返す。長年ネチネチと嫌味を言われ続けたせいで耐性がついているとはいえ、こうもあからさまに侮蔑されると腹が立つのも事実だ。これがいい大人のやることか。そんな心情が顔に出ていたらしく、春千夜は眉間に寄っていた皺をさらに深くさせた。

「んだよそのツラ。文句があるなら言ってみろよ」
「私のことが気に食わないならもう放っておいて」
「お前さぁ、部屋に害虫が湧いても無視できんの?」

 一瞬あっけにとられる。ついに害虫呼ばわりか。これにはさすがにムカッとして思い切り顔をしかめてしまった。
 私の表情を崩したことに気を良くしたらしい春千夜は唇の端を歪めて笑った。

「マイキーも物好きだよなァ。こんな女のなにが良いんだか」

 蔑んで、せせら嗤う。そして、私の体を上から下までまるで検分するように眺めていった。

「その貧相なカラダで悦ばせられてんのかァ?」

 下卑た笑みを浮かべながらことさら侮蔑的な口調で言われた言葉に、鳩尾がぐっと軋んだ。
 私とマイキーの間に肉体関係は無い。そのことは春千夜も分かっている。その上で、抱いてもらえず置物にされるだけの哀れな女だと揶揄している。私がマイキーに片思いしていると思い込んで、そんな言葉で私を傷つけられると本気で思っている幼稚な男。

「はっ……」

 失笑をもらすと「何笑ってんだ」と春千夜が気色ばむ。

「物好きはどっちよ」
「あ?」

 口にした反撃に、春千夜は容易く食いついてきた。

(こんなの茶番だ)

 相手を睨み据えながら、心の中で思った。くだらない。ひどい言葉を投げつけてくるこの男も、分かっていて挑発する私も。

「その害虫相手に飽きもせず構ってくるあんたの方がよっぽど物好きだって言ってんの」

 挑発的に言い放つと、目の前の顔が露骨にゆがんだ。ギリッと歯軋りする音が聞こえてくる。

「てめぇ、調子に乗んなよ」

 鼻先が触れそうな距離で凄まれ、知らず身が震えた。春千夜の影が私に落ちて来る。立ちすくむ足が、思わず後ろに下がる。彼はそれを逃げるつもりだと勘違いしたらしい。逃げ道を奪うように壁に両手をつかれた。

「マイキーに気に入られてるからって手出されねぇとでも思ってんのか?」
「……」
「黙ってんじゃねーよ」

 答えない私に、彼はますます怒りを募らせたようだった。壁についていた手が離れたかと思うと、強い力で肩を掴まれた。

「っつ……」

 痛みに顔をしかめたが、春千夜は止まる様子は全くなかった。両肩を掴まれ、壁に背中を押し付けられる。

「はる、やめっ……」

 無意識に発した言葉だった。
 次の瞬間、壁を殴りつける大きな音が部屋に響いた。

「……その呼び方すんな。虫酸が走る」

 春千夜はひどく不愉快そうに眉を顰めると、私の顔など見ていたくないというように、ふいっと視線をそらした。

(あぁ、もう名前を呼ぶことすら許されないんだ)

 何重にも分厚くなった殻で覆われた心に痛みが走る。でも、それを表に出すのは絶対に嫌だった。ここで傷ついた顔なんて見せたらそれこそ相手の思うつぼだ。
 挫けそうになる自分を叱咤し、ぐっと奥歯を噛み締める。春千夜の横顔を見つめながら、さらに傷つけられる覚悟で口を開いたときだった。

「三途」

 突如介入してきた声に、私の体はびくんと跳ねた。声のした方へ視線を向けると、リビングの入り口にマイキーが立っていた。
 私たちの間に流れる剣呑な空気など物ともせず、マイキーは淡々とした口調で続けた。

「何してんだ。早く来い」
「……すんません、今行きます」

 春千夜は私にだけ聞こえるように舌打ちすると、次の瞬間には笑顔を張り付けて振り返った。そのままクモの巣でも払うような荒々しさで部屋を出ていく。口では丁寧さを装いながらも、所作から苛立っているのが丸分かりだった。
 ひとまず解放されたことにほうっと息を吐き出していると、こちらを見据えるマイキーの眉がかすかに歪んだ。あたかも痛々しいものを見るように。

「お前、大概にしないとそろそろ本気でキレられるぞ」

 それだけ言い残して、マイキーは部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら苦笑する。
 今の自分はそんなに痛々しいだろうか? そうなのかもしれない。昔も今も、痛いくらいに春千夜を想っている。

「はぁ……」

 やり切れなさを吐き出してから、ソファに腰を下ろす。

(やっぱり、好きだなぁ)

 あれほど嫌悪感を示されてもなお、そんな感情が湧き上がってくることに呆れを通り越して笑えてくる。自分はもう、どこかがおかしくなってしまっているんだろうと思う。
 彼の顔を見たい。声を聞きたい。嫌われていると分かっていてもどうしても会いたかった。そのためなら身を持ち崩したり、なんだってやってしまいそうになる。まるで薬物中毒者だ。
 この恋に望みがないことなどとっくの昔に分かっている。今さら春千夜に好かれようだなんて思っていない。それよりも、彼との繋がりが途絶えてしまうことが何よりも怖かった。
 顔を合わせる機会がなくなれば、私の存在などきっと忘れ去られてしまう。それだけは嫌だった。忘れられるくらいなら、嫌われる方がいい。それぐらいしか春千夜の関心を得られる方法がなかった。

「ほんと、どうしようもない」

 途方に暮れたつぶやきがもれる。
 春千夜と会うためにマイキーのそばにいると言ったら、彼は一体どんな顔をするだろうか。嫌悪感丸出しで口汚く罵られる様が目に浮かぶ。それこそ一発や二発殴られるかもしれない。それでも構わなかった。
 いっそのこと、彼の手で息の根を止めてほしいとすら思ってしまうのだから、本当に心底救いようがない。


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