夜挽く
まるで不透明な膜に覆われたような日々が続いていた。
「うわっ!」
大木の根っこを踏み締めようとした右足が、ズルッと横ずれする。自然のままを長く過ごした森は大地さえも苔生していてひどく滑りやすくなっていた。そんなきむずかしい地面に足をとられるのはこれで何度目になるだろう。よろけた身体を持ち直すために足を踏みしめると、湿った落ち葉のじゅうたんに足首まで沈み込んだ。
軽く息を弾ませながら、立ち枯れた古木に手をつく。そのまま何気なく後ろを振り返ると、後ろを一定の距離でついて来ていた祓魔師たちも疲労の色を滲ませているのが分かった。
私たちが今居る場所は、学園から離れた郊外の森林だった。
未開の地帯とも言えるその森の奥深くで、黒衣を纏った人間が揃いも揃って列を成しているのは当然ながら任務のためであった。任務内容は人の領域にまで侵食しつつある悪魔たちの沈静化をはかること。悪魔たちの根城として名高いその森での任務はかなり大規模になることが想定され、上級祓魔師を含む三十人ほどの編成が組まれた。その一員として今回の任務に参加した私は、祓魔師だらけのこの列の丁度真ん中辺りを歩いていた。
(飽きた……)
見渡す限りの緑、緑、緑。深く息を吸うと、うんざりするほどの緑の匂いでいっぱいになった。
気分を紛らわすためにも視線を彷徨わせてみるが、途切れ目のない緑がどこまでも鬱蒼と茂っているだけで、目新しいものは見当たらない。森林観察をする気にもなれず何気なく前を見ると、列の前方に見慣れた後頭部を発見した。
(雪男だ)
ついていくのでせいいっぱいな私に対し、雪男は深い森のなかを慣れた足どりで進んでいた。
流石だな、なんて思いながらそのままなんとなく視線で追った。雪男が振り返ることはない。こちらの視線など気付かれる筈が無いのだけれど、その後姿に身勝手な感傷を抱いてしまう。同時に、思考はなぜかどんどん重く暗い方向に降りていった。
――メフィストさんの予想通り、アイツは姿を現さなくなっていた。
今日でちょうど三週間。つまり、三週間も平穏な日々が続いていたということ。本来なら喜ぶべきことなのだろう。だけど私の心はいまいち晴れずにいた。
だってそれは、雪男の態度が変化してからも三週間経ったことを意味しているから。
「はぁ……」
雪男から視線を外し、溜息を洩らす。
メフィストさんとの一件があって以来、雪男はどこかよそよそしくなった。
避けられている……というわけではない、と思う。会えば話すし、いつものように笑いかけてくれる。傍から見れば依然と何も変わらないだろう。
だけど前とは確実に違う。向けられる視線も、笑顔も、声もどこか他人行儀でひどくもどかしい。踏み込むことを許さない曖昧な笑みを向けられる度、もやもやした気持ちはいっそう濃度を増していった。
「何だかなぁ……」
怒っているのなら、まだ対処しようがあるけれど。こんな対応をされると、正直どうしたらいいか分からない。
(多分、私がまた何かやっちゃったんだろうなぁ)
だけど、それが分からない。そんな自分の察しの悪さに苛立ち、足元にあった大木の根っこを蹴り上げた。
「なーに不貞腐れてんだぁ?」
「っ、シュラさん!?」
遥か前方を歩いていた筈のシュラさんが、いつのまにか目の前に立っていた。その瞳は、絶好の暇つぶしを見つけたとばかりに爛々と輝いている。
(嫌な予感しかしない)
シュラさんは艶のある唇をにい、と釣り上げて揚々と笑ってみせた。
「お前、あのメガネのこと見てただろう」
す、鋭い……!
固まる私を見て、シュラさんはケラケラと笑った。
「なんだぁ? そんなにビビリメガネが気になるのかぁ?」
「ちょっ、妙な言い方しないでくださいって!」
思わず声を荒げると、前を歩いていた中二級の先輩に睨まれてしまった。
「あ、すみません」
「ニャハハー、怒られてやんの」
「誰のせいだと思ってんですか……」
脱力しながら答える。
完全に面白がられているのが分かって身を引きかけるが、どうやら私は完全にロックオンされてしまったらしく、シュラさんはさらに畳み掛けた。
「で、メガネと何かあったのか」
「何かって、何もないですよ」
「うそつけ。吐けコンニャロ」
「え、ちょっ、ぐっ、ぐるしっ……!」
「吐くか? 吐くな?」
首根っこを思い切り摘み上げられ、喉を圧迫される。
「もう、わっ、わかりましたからっ! は、離しっ」
「よーし、話してみろ」
「はぁっ、はぁ……! か、完全に脅しですからねこれ……!」
息苦しさで涙が溜まった目でシュラさんを睨み上げるが、まったく効果はない。それどころか「早く吐け」と言わんばかりの迫力で凄まれてしまった。
「……大したことじゃないですよ。ただ、最近の雪男がちょっとだけ他人行儀な感じがするってだけで……」
「あぁ? なんだお前ら喧嘩でもしたのか」
「いえ、そういうことはまったく。ただなんとなく気まずいといいますか……」
「あ゛ぁ〜〜?」
私の煮え切らなさにじれったくなってきたのか、面倒くささ丸出しの声を上げられる。実際に「めんどくせぇ」とも零されてしまった。
自分から無理矢理吐かせておいてその反応はあんまりだ!
「まー要するに、あのメガネの態度がおかしいって事だな?」
「まあ、そういうことになります……」
「チッ、アイツもまどろっこしいヤツだな」
「はい?」
言われた意味が分からず首を傾げると「こっちの話だ」とはぐらかされた。
「よし分かった。ここは私が人肌脱いじゃる」
「えっ!? いいですよそんな!」
「遠慮すんな」
「遠慮してるわけじゃなくて……」
(嫌な予感しかしないから断ってるんだってば!)
流石にその言葉は呑み込んだが、万感の思いを込めて視線を送る。しかしそんな視線は何の意味も持たなかった。
「まあ、任せとけって」
そういい残し、ニャハハと独特な笑い声をあげながら前方へと合流していく姿を見て、言い様のない不安が胸を過ぎった。
「じゃあ、僕らはこの辺りを探そうか」
「うん……」
「僕が前を歩くから、ナマエは後方を見てもらえるかな」
「分かった」
「暗くなってきたから、あまり離れないようにしよう」
手持ちのランプに火を灯しながら話しかけてくる雪男に、いつもの調子で返事をかえす。しかし内心は、未だに動揺が抜け切らないままだった。
(任せとけって、こういう事!?)
先程まで鬱陶しいほどに群れをなして行進していたというのに、今は雪男と二人きりになっていた。
あらかじめ二人組になることは言われていたが、あれだけ大勢の中で雪男とペアだなんて明らかな作為の臭いを感じる。
「ナマエと二人で組むのって凄い久しぶりだよね」
「そういえばそうだね……」
なんでもないことのように雪男は言う。
しかし私とペアになると分かった時、雪男はその瞳に僅かな動揺を走らせた。それを悟らせないよう極めて自然に応じていたけれど、私はその一瞬の変化を見逃さなかった。
意識してしまえば益々違和感を覚える雪男の態度に、また胸の内が粟立った。
「じゃあ、行こうか」
準備が整ったらしい。同意を求めるようなまなざしを向けられ、頷きながら視線を交わす。
だけど、私とちゃんと目が合う前に、すいと視線は逸らされた。そのあとは黙ったまま、苔生したでこぼこの道へと進んでいく。
雪男に倣って私も歩き出すが、気付けば自然ときつく胸元を握りしめていた。
互いの息遣いが感じられるくらい近くにいるのに、こんなにも遠く感じる。
(やっぱり、嫌われちゃったのかな)
十分ありえる。私、雪男に迷惑しか掛けてないし。
もしそうだとしたら、優しい雪男のことだ。さっきの反応は、そう悟らせないように配慮してくれたのだと納得がいく。
仕方ない。こんな不義理で迷惑なヤツ、疎ましく思って当然だろう。むしろこうして今まで通りに接してくれている方が有難いと思うべきだ。
――なのに、どうして。こんなにもショックを受けているんだろう。
こんな、傷つけられたような気持ちを抱くこと事態、筋違いなのに。
仕方ない、しょうがないんだと必死に理性で押さえつけようとしても、無性に目頭が熱くなった。込み上げてくる感情の波に呑まれそうになる自分に、また辟易する。
(いや、ダメだ。今は任務に集中しないと……)
意識を切り替えるためにも、首を振る。
暗くてよかった。こんな、情けない顔見られないで済むから。
「……っ」
「……ナマエ?」
無意識に鼻を啜っていたらしい。雪男が前を向いたまま、心配そうに声を掛けてくれた。
その呼びかけに答えようと口を開きかけたとき、足元で何かが蠢いた。
「っ!」
思いがけない感触に、ぎくりと身体が跳ねる。同時に飛び退こうとするが、力を込めた右足に何かが一気に絡みついてきて、動けなくなった。
締め上げるように蠢くそれは、木の幹だった。
「なっ! 木が動いてる!?」
「ナマエ!」
暗闇の中、雪男の声と銃声が響く。右足を拘束していた木に向かって撃ったのだろう。そう瞬間的に察知して、また足をとられないよう思い切り駆け出した。
「雪男っ、大丈夫!?」
「ナマエこそ怪我は無い?」
「平気!」
後ろに雪男がいることを確認しながら、深い森の中を全力で走り抜ける。
しかし、地面を盛り上げてうねうねと張りめぐらされていた大木が、まるで意志を持ったかのように足首に絡み付いてきた。それを何度も足で払いながら進むが、執拗に巻きついてくるせいで思うように進めない。
「なにこれ悪魔!?」
「おそらく大木に憑依した山魅が凶暴化したものだ」
「山魅!? それってこんなに大きくなるものなの!?」
「いや、おそらく単体じゃない。どうやら僕たちは広範囲に取り憑いていた悪魔の巣に足を踏み入れていたらしい」
まずい。この状況はまずい。
もう十分に走ったというのに、未だに足元の木は蛇のように蠢いている。それはつまり、それだけこの悪魔が広範囲に力を及ぼしているということだ。強大な敵とこの暗闇の中で戦うなんて分が悪すぎる。
そして更にまずいことは、私たちが本当に敵から離れているのか分からないことだ。奥へ奥へと進むほど、暗闇に抱き込まれていくような錯覚に襲われた。
「こっちで大丈夫かな!?」
「分からない。だけど今は逃げるしかないっ!」
地面の敵をバキバキと踏み潰しながら、闇雲に走り続ける。その間も執拗にへばりついてくる悪魔の片鱗を蹴り飛ばしていった。
「このまま距離を取って体勢を立て直そう!」
「あんなの私たち二人で倒せるの!?」
「援軍の合図はもう出してある。それまでの間、僕たちだけで食い止めるんだ!」
こんな緊迫した状況でも雪男は冷静で、自分のすべき事を見極め最善の行動をとっている。……それなのに私は、ただ情けなく動揺するだけで、何も出来ていない。
(いや、反省するのは後だ! 今は、目の前の敵を倒すことだけ考えろ!)
自分を叱咤する意味も込めて、思い切り声を張り上げた。
「分かった! 雪男の言う通りにしよ―――」
「う」の形に開いた口は、音を成すことは出来なかった。
踏み出した右足の着陸点が、無かったからだ。
「え……」
一瞬のことだった。
足元から地面が消え、身体が落下していた。
「うっ、うわああっ!!」
「ナマエっ!!」
自分の叫びと風を切る音に混じって、ひどく焦ったような雪男の声が聞こえてきた。
落ちている、と分かった時には視界のすべてが闇で埋め尽くされていた。落ちる。速度が増し、自分はこのまま地面にぶつかり、ぺしゃんこになる。そんな恐怖が過ぎる。
「雪男っ……!」
そうして強烈な落下感に意識を奪われる寸前、縋るように伸ばされた自分の腕を誰かに掴まれたような気がした。