届かない激情
久しぶりに現れたもうひとつの人格。その人格が突きつけた真実と、持ちかけた取引。そして、重ねた嘘。
そんな数々の問題を抱えたまま数日が経ち、到底自分の手には負えないことを悟った私はメフィストさんに助けを求めていた。
「なるほど。私と貴女が付き合っているですか……」
嫌がられるか、呆れられるか。どちらにせよ何かしらの叱責は受けるだろうと覚悟した上で事のあらましをぽつぽつと説明していったが、意外にもメフィストさんは感心したように頷くだけだった。
「それはまた随分と大胆な嘘を吐きましたね」
「うっ。すんません……」
自分の知らないところで勝手に恋人に仕立て上げられるなんてほとほと迷惑な話だろう。しかしメフィストさんは意に介した様子もなく、むしろどこか楽しげに顎鬚を撫でていた。
「構いませんよ。それにしても面白いことになりましたな」
「なっ、何も面白くないよっ! 私、また雪男に嘘を……」
私はまた雪男を裏切る行為を犯してしまった。
ここ数日で何度も自分の失態を悔いたが、結局のところ一番後悔しているのはそのことだった。 募る罪悪感がまるで石でも飲まされたかのように胸の内を圧迫し続けている。
しかしそんな弱気な発言は、にべもなく一蹴されてしまう。
「何を今更なことを」
メフィストさんは退廃的な面差しを澱ませて、呆れ返ったような一瞥をくれた。
「そんなことで思い悩む暇はありませんよ。今はもうひとりの人格が奥村先生自身の記憶を掌握している事の方が問題です」
「そうだよね……」
そうだ。今一番考えなくてはならないのは、アイツの事だ。
雪男の意識が表に出ている時の記憶さえも握っているということは、私が雪男についた嘘も、アイツには知られている。きっと、首筋の噛み跡について必死に言い繕う私の姿をアイツは嘲笑いながら見ていたのだろう。そう考えると悔しさと同時にどうしようもない恐怖心が這い上がってきた。
「どうしたらいいんだろう……」
このままではすべてをバラされてしまう。例えそれを阻止できたとしても、この先ずっとアイツに脅され続けるのかと思うと、途方も無い恐怖が足元からせり上がった。
「今のままの状態の奥村先生と接触するのは危険ですな。いつ襲われるか分かりません」
「じゃあ、もう雪男とは会わない方がいいってこと…?」
「そうは言っていませんよ。貴女と奥村先生を引き離したところで逆効果でしょうしね。……私にひとつ良いアイディアがあります」
「なになに!?」
そこでメフィストさんはからかうような人をくった微笑を浮かべた。
「奥村先生の前で、私と貴女が恋人同士になったということを改めて証明するのです」
「はっ!?」
突拍子もない発言に、頓狂な声を上げてしまう。
「なんでわざわざそんなこと……雪男にはメフィストさんと付き合ってるってちゃんと言ったよ?」
「ですが決定的な場面を見た訳ではありません。奥村先生もきっとまだ半信半疑な筈ですよ」
「だからって雪男を納得させたところでアイツには嘘だってバレちゃってるんだから意味なくない?」
「何も分かっていませんね〜、ナマエは」
メフィストさんはこれ見よがしに呆れた表情を見せたまま、言葉を続けた。
「いいですか。私と貴女が付き合っていると証明することで奥村先生のもうひとり人格の表出を抑えることだって出来るんですよ」
「え、どうして?」
「ですから、私と付き合っていると分かれば奥村先生も諦めがつくでしょう。そうすれば自然にもうひとつの人格も消える筈です」
「……はい?」
自信たっぷりに告げられるが、いまいち意味が理解できず首を傾げた。
「えっと……諦めるってどういうこと?」
「貴女に対して抱いている感情を昇華できるということです」
「私への……って、え? んん?」
「前にも言いましたよね? 奥村先生の感情の起伏がもうひとりの人格を表出させる要因となっていると」
「うん、それは聞いたけど……」
「つまり奥村先生が貴女に対して抱いている感情こそがもうひとりの人格の要となっているという訳です」
「???」
益々訳が分からない。
メフィストさんは、書かれた文を読み上げるような流暢さで説明してくれたけど、その口ぶりは決定的な何かを覆い隠しているようにも感じられた。そんな判然としない話を聞かされて、頭の中に立て続けに浮かび上がる疑問符がぐるぐると旋廻を続けていた。
「えと、正直よく分からないんだけど……」
「ここまで言っても分かりませんか。本当に鈍いですね」
「に、鈍いって……」
呆れたとばかりに両腕を掲げられたが、その表情には僅かな安堵が滲んでいるように見えた。
「まあ今は分からなくても構いません。理解されるのも正直癪ですしね」
「そうなの?」
「とにかく今は奥村先生の前で我々が恋人同士であることをハッキリ証明するのです」
「……本当に、そんなことでアイツを抑えられるの?」
どうにも懐疑的になってしまう。しかし、これ以上の良策は無いのだと言わんばかりに強く頷かれてしまえば、観念するしかない。
「分かった。メフィストさんの言う通りにするよ」
ひとつの真実を隠す為には、幾つもの嘘で塗り固める必要がある。そのためには感情など切り捨てなければならないのだ。
「でも証明するって言っても具体的にはどうすればいいの?」
「簡単ですよ。まあ見ててください」
「見ててくださいって……それって」
―――ドンドンドン!
再度問いかけようとした時、扉を叩きつける音が場に響いた。乱暴なノック音の後に、遠慮など微塵も感じられない大声が扉越しから聞こえてくる。
『メフィストー、居んのかー!? 入るぞー!』
「燐?」
突然の燐の出現に目を白黒させていると、空間を裂くような大声に重なるようにして押し殺した怒声が聞こえてきた。
『兄さんっ! そんな大声出すなよ!』
『別にいいだろメフィストなんだし』
『あれでも一応理事長なんだからちゃんとしなきゃダメだろ!』
『アイツに気ィ遣う必要なんてねーだろよー』
「この、声は……」
(雪男だ!)
バッ、とメフィストさんの方を振り仰げば、少しばかり不機嫌そうに「丸聞こえなんですがね」とぼやいていた。
「もしかしてメフィストさんが呼んだの?」
「ええ。なるべく早いうちに事を済ましておこうかと思いましてね」
「だからって急すぎるよっ! まだ心の準備が……」
「私に任せておけばいいのです。――どうぞ、入ってください!」
メフィストさんは軽く指を鳴らして燐と雪男を招き入れた。
「うーす。……って、あれ? ナマエ?」
燐は私の姿を見るなり目を丸くさせる。それに続いて、燐の数歩後ろから会釈をしながら入ってきた雪男も、眼鏡の奥の瞳を見開かせた。
「なんでナマエがここに居るんだ?」
「あ〜……えーっと、それは……」
「恋人との逢瀬を楽しんでいただけですよ、燐くん」
「ハァ? 恋人って?」
「ちょ、ちょっとメフィストさんっ!」
(まさかこのタイミングで言うの!?)
制止の意味も込めてメフィストさんの裾を引っ張るが、全く取り合ってもらえない。
「恋人ってなんの話だ?」
「私とナマエのことですよ」
「はあああ!?」
燐は今にも尻尾を飛び出さんばかりに驚きを露わにした。
「は!? 冗談だろ!? 何でお前とナマエが!?」
「冗談ではありませんよ〜」
「いや、嘘つけ! 有り得ないだろ!」
電光石火で交わされる会話を聞きながら緊張に身を硬くしていると、腰に腕を回された。
「めっ、メフィストさん!?」
強引に身を寄せてくる長身を反射的に押しのけようとするが、それよりも強い力で引き寄せられてしまう。益々身を強張らせる私の耳元に「ここは私に合わせてください」と笑いまじりの声が流れ込んできた。
「ナマエ、マジなのか……?」
燐から疑わしげな目線を送られ、誤魔化しようの無い硬さを滲ませながらも必死に頷く。すると、半歩ほど後退されてしまった。
「お前、趣味わっる! なんでよりにもよってメフィストなんだよ!」
「あ、あははー……」
これには苦笑を返すほかない。
「失礼ですね。この上無いカップルだと思いますが?」
「うげっ! カップルとか言うな気色悪ィ!」
「本当に失礼極まりないですな貴方は」
燐とメフィストさんの応酬を聞き流しながら、 そろそろと視線を彷徨わせ雪男の方を盗み見てみると、静かに事の成り行きを眺めているようだった。その無関心な佇まいを見て、ざわりとした不安が煽られる。
「……っ、ゆき」
「失礼しました」
反応を見せない雪男に声を掛けようとするが、突如響いた硬い声によって遮られてしまった。
「邪魔してしまったなら申し訳ありません。日を改めて伺います。」
一瞬、誰の声か分からなかった。それほど冷たい声だったから。
雪男の言葉にそれまで言い合っていた燐とメフィストさんも自然と口を閉ざした。
「成功のようですな」
こちらにしか聞こえない程の声量で満足気に呟かれる。しかし私はその言葉に反応を返すどころかまともに呼吸することすらできなくなっていた。
「失礼します」
棘の孕んだ挨拶を残し、雪男は踵を返す。歩き方がこころなしかいつもより乱暴に見えるのは気のせいでは無いだろう。
(怒らせた? ……いや、傷つけた?)
直感的にそう感じ取るが、理由までは分からない。ただ、雪男の冷徹な反応を目の当たりにして、縫い付けられたようにその場から動けなくなっていた。
だけど、去り際に一瞬だけ。雪男が偏頭痛を我慢するようにこめかみを押さえているのが見えた途端、居ても立ってもいられなくなった。
「ナマエ!?」
背後から燐の驚きに満ちた声が聞こえてきたが、振り返ることはせずそのまま駆け出した。
きっとメフィストさんに至っては呆れ果てて溜息を吐いていることだろう。それでも、走り出した足を止めることはできなかった。
「雪男っ!」
足早に廊下を歩く雪男を呼びかけるが、その背は黙々と前へ突き進んでいた。
「ゆ、雪男! 待って!」
立ち止まろうとしない雪男の真横まで走り、その裾を掴んで引き止める。やっと足を止めてくれたが、雪男からは人を寄せ付けないピリピリとした空気が漂っていた。その排他的な横顔を前にして言葉に詰まったけれど、必死に声を絞り出した。
「雪男、もしかして頭の怪我痛む……?」
そう言いながら恐る恐る雪男の様子を窺うと、ピクッ、とこめかみの辺りが反応しているのが見えた。
「言いそびれてたんだけど……その怪我、実は私のせいなの! ごめんっ!」
メフィストさんと恋人のふりをする事とか、アイツの存在の事とか、色んな事に悩まされていた筈なのに雪男が苦しそうにしている姿を見た瞬間に全てが吹き飛んでしまった。
「私、雪男に怪我させちゃったのに自分のことばっかりで……迷惑かけて本当にごめん」
「……」
「あの、もしあんまり痛むようだったら病院に」
「……いや、大丈夫。もう全然痛くないよ」
雪男はやっとこちらに顔を向けてくれた。そうして安心させるように笑みを浮かべてくれたけど、その笑顔はどこか痛みを堪えているように見えた。
「でも雪男辛そうだよ……? 本当に平気なの?」
「……平気、ではないけど。でもそれはナマエの所為じゃないよ。僕が勝手に……」
「雪男?」
最後の方はよく聞き取れず首を傾げてみるが、曖昧な笑みに濁されてしまう。
「心配かけてごめん。ちょっと寝不足で気分が悪いだけだよ。ナマエは悪くない」
「え、でも……」
「大丈夫だから」
憂いのある苦笑を浮かべたまま「大丈夫」と繰り返す雪男は、明らかに大丈夫そうではない。しかし、雪男自身がそう言っている以上、私にはどうすることもできなかった。
「そ、か……」
とうとう何も言えなくなって、雪男の裾を掴んでいた手を放した。
私がアイツに襲われかけて泣き崩れた時。雪男は何も聞かずに傍にいてくれた。辛いことがあったら一緒にいてくれると、そう言って頭を撫でてくれた。そのことが、どれほど強みになったことか。
でも私には、同じものを雪男に返すことはできないんだ。悲しんでいても、何もしてあげることが出来ない。私じゃ雪男の力にはなれない。
「じゃあ、僕はそろそろ行くね」
「……うん。ゆっくり休んでね」
「ありがとう。それじゃあ」
去って行く後ろ姿を見送りながら、翻るコートの裾を掴んで引き留めたくなる衝動をぐっと堪える。押し寄せる無力感に苛まれまま、しばらくその場に立ち尽くした。