いないいらない


「ごめん雪男。もう大丈夫。」

 こみあげる嗚咽がようやく治まってきて、私が落ち着くまでずっと待っていてくれた雪男に謝った。

「いいよ。それよりも、いったい何があったの?」
「うっ……」
 
 返事に窮する私を見て、雪男は頭を撫でてくれた。

「言いたくないなら無理しなくていいよ」

 雪男はふわりと微笑んだ。殺伐とした空気に荒らされた私の心が癒されていく。

「でも、もしまた辛い事があったなら僕のところにおいで」
「雪男……」
「何もしてあげられないかもしれないけど……一緒にいることは出来るから」

 そう言いながら、また私の頭を撫でる。その感触に、優しさに、また涙が滲みそうになった。
 目尻をごしごしと擦って顔を上げると、雪男と目が合った。そこにはさっきまで帯びていた冷酷な色は消え去っていて。穏かな新緑の瞳に射抜かれ、喉の奥で言葉にならない思いが渦巻いた。

「僕はナマエの味方だよ」

 ――どうして、こんなに優しい言葉をかけてくれるの?
 雪男がくれる言葉が、微笑みが、優しさすべてが私の胸をきつく絞めあげる。それは罪の意識だった。

(こんなに優しい彼に、私は嘘を吐いている)

 ずっと騙されていた事を知ったら、雪男は私を軽蔑するだろうか。その瞬間を想像して、心にズンとした圧力がのしかかった。

「……私には、雪男にそんなこと言ってもらえる価値なんて無いよ」
 
 卑屈に聞こえるだろう。でも、本当のことだ。
 だけど雪男は私の言葉を軽く一蹴した。

「価値なんて求めてない。僕がそうしたいから言ってるんだ」

 きつい口調では無いが、はっきりとした物言いだった。じっとまっすぐに見詰められ、またしても胸がぎゅうと締め付けられる。そんな真剣な顔で言われたら、勘違いしそうになる。

「……ありがとう。でも、そういう事は彼女とかに言ってあげなよ!私に言ったら勿体無いでしょ!」

 軽い調子で言えば、雪男は少しだけ目を泳がせた。

「……彼女なんて、いないよ」
「うっそ。雪男あんなにモテるのに?」
「いないよ」
「え、意外。私てっきり――」
「ナマエ」

 遮るように名を呼ばれる。どこか切羽詰ったような声の調子に私は面食らった。


(……あれ?雪男、何だか様子がおかしいような……?)

 密度を増した空気が私の喉を塞ぐように感じられた。うろたえる私と目を合わせたまま雪男は控えめに距離を詰めた。そして花を手折るよりも優しく私の手を取った。

「雪男!?」

 急に触れ合った手と手に動揺が増す。振り払う事もできなくて、ただただ高鳴る鼓動を持て余した。

「ナマエ」

 切実な声に息を飲む。

「ナマエ、僕は……」

 僕は?

 その先に続く言葉を待つが、雪男の動きがぴたりと止まってしまった。

「雪男?」

 先を促すために呼びかけるが答えはない。その代わり、ひやりと冷たい感触が首筋にふれた。ついでにそのあたりに突き刺さる視線を感じる。
 わけが分からずされるがままでいると、より響く低音が降ってきた。

「これ、どうしたの」
「え?」

 探るように親指の腹で皮膚の表面を撫でられる。
 顔を上げて真正面から雪男の顔を見れば、翡翠の双眸が獰猛に揺れた気がした。声も仕草も含めてなんだかおっかない。

「誰につけられたの」
「誰って……」

 言われた言葉の意味を掴みあぐねていると、ぐ、とより強く首筋をおさえられた気がした。

(――あ!)

 そこでようやく、雪男の言葉の意味が理解出来た。雪男の手が触れている箇所にあるもの。それに気付くと同時に、ざあ、と全身から血の気が引いていく音が聞こえた。

「こ、これは……!」

 思わず雪男の手から逃れるように後退さった。今さら隠したところで無駄なのに、その箇所を見られていることが堪えられなくて手で首筋を覆い隠す。

(此処はさっきアイツに思い切り噛み付かれて……)

 きっと首筋にはくっきりと歯型が浮かんでいることだろう。
 迂闊だった。気が動転していたとは言え、あんなに強く噛まれたのだから跡がつくことぐらい容易に想像できたはずなのに。

(こんな跡つけて号泣なんてしたら、襲われましたと言っているようなものじゃないか!)

 振り仰いで雪男の顔を見ると、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。あわてて言い訳を考えるが、気持ちばかりが先立ってうまく思考がまとまらない。

「誰にされたの」

 怒気すら感じる迫力を背負って、雪男は私に詰め寄る。

「違う違う!別にこれは、私が泣いてたのとは関係無いから!」
「関係ないって……そんな訳ないだろ」
「本当だって!別に襲われたとかじゃないから!ただ噛まれただけ!」

 痛みに堪えるような表情で詰め寄っていた雪男が、少しだけ目を見開いた。

「噛まれただけ……?」
「そう!」
「本当に?それ以上されてない?」
「うん」
「じゃあさっき泣いてたのは、暴行されたからって訳じゃないんだね?」
「違うって!そんな奴いたら返り討ちにするに決まってるでしょ!」
「……」
「雪男……?」
「は、はぁぁー……」

 暫しの沈黙の後、雪男は長い息を吐いて項垂れた。

「良かった……」

 雪男は顰めていた眉を解いて、力の抜けた表情を見せた。その顔は心底ほっとしたと訴えていて。また胸がぎゅっと締め付けられた。


「心配かけてごめん……」
「いや、僕が勝手に勘違いしたから。でも、」

 雪男は再び首筋の噛み跡に視線を落とした。

「じゃあ、それって……」

 その先は言われなかったが、雪男が何を言いたいのかは十分に分かった。
 普通だったら、こんなところに傷を許す相手なんて特別な関係にあるに決まっている。雪男もきっとそう考えているのだろう。そう思うと、なんだか無性に恥ずかしくなってきて頬に熱くなるのがわかる。

「付き合ってる人がいるの?」
「つっ!?」

 雪男からの暴投に、盛大に驚いてしまう。
 いや、当然の質問なのかもしれない。だからといって雪男がこんな踏み込んだ質問をしてくると思わなかった。
 付き合ってる人なんてもちろん居ない。だけど、恋人にされた以外に首筋の噛み跡を何て説明すればいいか分からない。
 錯乱している頭の中身をかき集めて整列させようとするが上手くいかず。結局また愚かな嘘を積み重ねた。

「……うん、いる」
「え」

 まさかそんな答えが返ってくると思っていなかったのか、雪男が思わず、といった風に声を洩らす。

「付き合ってる人、いるよ」

 それは暗に首筋に跡を残すような行為をしていることを伝えているのだと自覚して、羞恥に全身が熱くなった。同時に、また雪男に嘘を重ねていることに嫌気が差す。
 嘘つけ、と一蹴されたらどうしようと恐る恐る視線を向けると、雪男は呆けたような顔をしていた。視線の先は遠く、ここではないどこかを見ているようだ。

「雪男……?」
「…………誰」
「へっ?」
「誰と付き合ってるの」
「えっ!あ、あー……」

(しまった。相手とか全然考えて無かった。どうしよう……)

 その時ふと、首筋につけられた傷が思い浮かんだ。雪男があんなに心配するくらいだから、相当強く噛まれたのだろう。だったら、鋭い牙を持つ人を相手に挙げた方がいいのかもしれない。そんな極めて短絡的な思考回路から導き出された名を、勢いで声に出していた。

「メフィストさん」
「はっ!?フェレス卿!?」

 雪男の目がこれ以上無いというほど見開かれる。

(よりにもよってメフィストさんって。嘘が下手にもほどがある!)

 案の定、雪男の真ん丸と開かれた瞳は疑わしげに眇められ、追い立てるように問い詰められた。

「本当にフェレス卿?」
「そ、そうだよ」
「ナマエ、フェレス卿のことは育ての親みたいに思ってるって前に言ってたじゃないか」
「そうだったんだけど、ずっと一緒にいるうちに段々とこう……親愛が別の意味での好きに変わったっていうか……」
「どうして」
「どうしてって……理由なんてないよ」
「………」

(沈黙が痛い……!)

「本当にフェレス卿と付き合ってるの?」
「うん」
「本当なんだね?」
「だから本当だってば!」

 声が震えないようにしながら必死に言葉を継げると、雪男の動きがぴたりと止まった。

「…………そっか」

 長い沈黙の後、雪男は小さな声で一言だけ返した。
 そしてどこか呆然とした状態で、長身をふらふらと揺らしながら立ち上がった。俯いている所為で表情は窺えないが、なんだかしおれた花みたいに意気消沈して見えるのは気のせいだろうか。

「わかった」

 短くそう言って、感情の抜け落ちた顔で雪男は私を見た。途端に、胸の内に覚えの無い感情が広がった。
 何だろうこの感情は。不思議に思って胸に手をあてても、息苦しさが増しただけだった。

「あの、雪男、」
「そろそろ行こうか。昼休み終わっちゃうし」
「あ、うん………」

 雪男はいつもの大人びた笑みを浮かべて、しっかりとした足取りで歩み出した。その姿には先ほどの弱々しさは微塵も残されていなかったが、胸に募る不可解な感情はいつまでも消えなかった。


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