群青に溺没


「なっ、ななななっ、何を…っ!」

 口の端に残る濡れた感触にとんでもない早さで動揺が身体を駆け巡る。動転して後ろにひっくり返りそうになったが、腕を掴まれて引き戻された。

「何って、キス」

 何でもないことのように返され、言葉を失う。

「何をそんなに狼狽えてるんだよ」
「だ、だって……」
「ああ、もしかして初めてだった?」
「な……っ!」

 嘲るように鼻で笑われて目の前が真っ赤に染まる。一瞬にして、頬も同じように熱を帯びた。茹蛸みたいになってるのが分かる。
 混乱の極致にある私を、雪男は意地の悪い笑みを浮かべて眺めていた。

「へえ、そうだったんだ」
「!」

 伸ばされた手が私の頬に触れる。反射的に振り払おうとするが、さっき言われた言葉を思い出してかろうじて留まった。

『ナマエには僕の願いを聞いてもらう』

 願いなんて言い方をしているけれど、結局のところこれは脅しだ。今ここで下手に反抗したら、雪男にバラされるかもしれない。それだけは、絶対にダメだ。
 私は奥歯を強く噛み締めて、右頬に添えられた掌を黙って受け入れた。

「ごめんね、ナマエ」

 親指を滑らせるようにして執拗に頬を撫でられる。繰り返される指の動きに背筋が粟立った。
 噛んで含めるような優しげな口調が、今は何よりも恐ろしい。

「どうして、あんな事を……」

 声を絞り出して問う。すると雪男は頬に触れていた指先を目尻に当てて、低い声で笑った。

「さっきも言っただろ?ナマエの泣き顔が見たかったんだ」
「泣き顔って……」
「でもあんまり泣いてくれなかったな」
 
 目の端に爪を立てられ、痛みに顔が引き攣った。

「もっと泣いてくれるかと思ったのに」

 いつになく饒舌な彼の言葉が、まるで異国の言葉のように聞こえてしまう。まったく意味が分からない。そうありのままを表情に出すと、指先に力を篭めたまま目の縁を擦られた。
 目元の敏感な部分を相手に触られているというのは、心臓を直接握り込まれているような感覚に近い。自分の命を握られている圧倒的な恐怖。今までこいつとは何度も対峙してきて、死ぬような思いを何度も味わってきたけど、こんな気分になるのは初めてだった。まるで、蛇に睨まれた蛙だ。

「ナマエ」

 名を呼びながら、雪男はうっすらと笑った。不安をさらに掻き立てるような、不穏さばかりが伝わってくる笑みだった。

「そんなに怯えなくたっていいのに」

 身を引いていた事を咎めるように強く顎を掴まれる。その瞬間、大袈裟なほどびくりと身体を揺らしてしまった。

「怯えてなんか……」
「ふーん?」

 精一杯な虚勢など相手を喜ばせるだけだった。
 顎を捉えられたままぐっと近付かれ、視界いっぱいに雪男の顔が映り込む。先ほど容赦なく重ねられた唇とも距離が近付いて、慌てて顔を逸らした。

「へえ、避けるんだ」
「!」
「それでもいいよ。僕は構わない」

 その代わり、雪男に隠していることを暴く。言外に含まれた悪意を感じ取って、目の前が真っ暗になった。ダメだ。それだけは、絶対。

「それ、だけは……」
「ん?」
「それだけはやめて、お願いだから……っ!」

 情けなく懇願する姿をどう思ったのか、雪男から笑みが消えた。途端に表れる無防備な表情。それがいつもの雪男と重なって、今目の前にいる人物が誰なのか一瞬分からなくなった。
 違う。こいつは雪男じゃない。雪男とは全くの別人。でも、身体は雪男のままだ。

(私は、雪男とキスしちゃったんだ……)

 そう改めて思い知らされて羞恥が襲ってくる。同時に、強い罪悪感に苛まれた。
 もしかしたら、雪男には想いを寄せている人がいるかもしれない。それなのに私が彼の知らないところでキスをしているなんて、雪男のそういう気持ちを踏みにじる行為だ。雪男に対する裏切りと同じ。
 でも、逆らったらバラされてしまう。暴かれる真実はきっと雪男に途方も無い負担を背負わせてしまうだろう。彼を追い詰めるような事だけはしたくない。

「何を考えているの?」

 ふたたび強く顎を引かれ、彷徨わせていた思考が引き戻された。
 吐息がかかるほどの距離に雪男の顔が迫る。迂闊に呼吸さえ出来ないような緊張が全身に走った。

「他のことを考えている余裕があるんだね」

 笑っている気配が伝わる。それは私の葛藤など何の意味も無いと一笑されているように感じた。

「私、やっぱり」
「もう黙って」

 きつい口調で制され、言葉に詰まる。
 焦点を結べないほど近い距離にある瞳は、見たことが無いほど冷たい色を湛えていた。

「ナマエには選ぶ権利なんて無いんだよ」

 逆らうことを許さない、服従だけを強いる声でそう告げられる。そしてそのまま、色素の薄い唇がゆっくりと降りて来る気配が伝わった。
 また、あの何もかもを奪うような口付けをされる。そう感じ取った瞬間、行き止まりにぶち当たっていた思考がパンッ、と弾け飛んだ。

「やっぱり無理いいいいっ!!」

 ほぼ無意識だった。
 反射的に振り上げていた右手の拳が、鈍い音を上げて雪男の米神にクリーンヒットした。

「がっ……!」
「あ」

 相手も完全に意表を突かれたのだろう。無防備な状態で攻撃を喰らい、そのまま机に倒れ込んでしまった。

「………」
「ゆ、雪男……?」
「………」

 返事が無い。恐る恐る軽く揺すってみても、反応を見せなかった。

「やっちゃった……」

 完全に意識を飛ばしてしまったらしい。机に倒れこんだままピクリとも動かない雪男を見て、呆然とする。
 ていうか、コレやばくないか?次目を覚ましたら、とんでもない報復されるんじゃ?

「ど、どうしよう」

 今の内に逃げるか。いや、こんな状態の雪男を放って置く訳にはいかない。でも目を覚ました時、もしもアイツが表に出ていたら?
 足りない頭をフル回転させて答えを導き出そうとしている間に、雪男が微かに身じろいだ。

「……っ、く」

 呻く様な声を洩らし、雪男が顔を上げる。こめかみを抑えるその顔は苦悶に満ちていた。
 覚醒しかけている雪男を前にして、まるで靴底を縫い付けられたように身動きが出来なくなった。

「……っ、いて……」

 結局何の答えも出せず、固唾を飲んで目の前の光景を見守った。
 さっきまでの冷ややかさに満ちていた瞳は、未だ閉ざされたまま。目を見ればどちらの雪男なのか分かる。
 ぎゅっと指先を握り込んで見守っていると、雪男はゆっくりと瞼を開いた。

「………っ、い……」
「ゆき、お?」
「……え?何?って、ナマエ?」

 名を呼ばれ、硬直していた体が一気に解れていく。

(良かった……いつもの雪男だ)

 ほっと胸をなでおろす私を見て、雪男は目をぱちぱちと瞬かせた。

「……もしかして僕、寝てた?」
「え?あ、うん、そう」
「し、信じられない。仕事中なのに……って痛っ!な、なんか痛い」

 覚えの無い痛みに首を傾げている雪男の姿に、はっと顔を上げた。
 さっき殴ったところが瘤になっているかもしれない。早く冷やさないと。そう思って立ち上がろうとしたのに、足に力が入らなくてその場にへたり込んだ。


「ナマエ!?」

 頭上から焦ったような声が降ってくる。その声には冷酷さなど微塵も無く、ただこちらを案じている事だけが伝わってきて、無性に胸が締め付けられた。

「ゆき、お……」

 ごめん、大丈夫。ちょっとこけただけ。今、立ち上がるから。そう言おうとしてもうまく声にならない。
 気づけば涙がぽろぽろとこぼれていた。滲んだ視界の中で、雪男がぎょっと目を見開くのが分かる。

「ナマエ!?どうしたの!?」

 雪男がしゃがみこんで目線を合わせてくれる。
 
(私の馬鹿。どうして泣いてるんだ。怪我をしているのは雪男なのに、こっちが心配かけてどうする。泣き止め。泣き止め!)

 そう強く念じれは念じるほど、涙が止め処なく溢れてきた。

「ナマエ……?」
「ご、ごめっ」

 子供のように泣きじゃくる私を雪男が困惑し切った表情で見ている。居た堪れなくなって謝ろうとしたけど、嗚咽に邪魔されて上手くいかなかった。
 雪男にしてみれば本当に訳が分からないだろう。それでも、自分じゃどうしようも出来ないほど、私は安心してしまったのだ。

(怖かった……!)

 冷徹な瞳も。無慈悲な微笑も。何より、強いられた行為が恐ろしくて堪らなかった。何か、自分の全く知らない場所へと強引に引き摺り込まれるような得体の知れない恐怖だった。
 そんな恐怖を植えつけた相手は今こそ成りを潜めているが、雪男を通してこちらの様子を窺っているのだろう。こんな風に泣き崩れている姿だって、アイツには見られてしまっている。そう分かっていても、一度堰を切ったものはそうそう止められず。心配するように顔を覗き込まれてしまったら、余計に。

「ナマエ、どうしたの……?」
「っ、うっ、うぅ……」
「ごめんね。僕が何かしたなら謝るから……」
「ちっ、違、雪男は何も……っ!」

 雪男は何も悪くない。それなのに慰めるように頭を撫でられて、私はさらに醜態を晒し続けることになった。


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