痛ましい選択



 力なく寄りかかる雪男を恐る恐る呼びかける。しかし返ってきた答えは言葉ではなく荒い息遣いだった。

「っ、雪男!?」

 そこで漸く、異変に気がついた。
 忙しなく繰り返される呼吸には熱が篭り、薄明かりに照らされる頬は普段よりも赤みを帯びていた。

「雪男どうしたの!?」
「っ、だい、じょうぶ。何でもない」
「何でもないわけないでしょう!?」

 肩を掴んで顔を覗き込めば、合わさった瞳は不自然なほど潤んでいて。
 明らかに様子がおかしい。それでもなお気丈に振舞おうとする彼の姿は痛ましくもあり、歯痒くもあった。

「雪男、どういうことか教えて……」

 懇願するように声を絞り出す。すると雪男は言い澱むようにくちびるを擦り合わせた後、おもむろに口を開いた。

「毒草だ」
「毒!?」

 突然飛び出してきた物騒な単語に目を剥く。

「さっき落下した時に毒性のある植物に引っかけたらしい。掠った部分が炎症を起こしている」

 そこで雪男はコートの襟口を掴み首筋を晒した。ランプの光に照らされ顕になったその箇所は、雪男の言うとおり傷口に沿って赤く腫れていて、見るからに痛々しい。

「おそらく神経を麻痺させる系統の毒だ」
「……っ!!」

 ざあ、と血の気が引いた。
 雪男の体内を蝕む物がどの程度の毒性を持つのかは分からないが、放っておけば致命傷にだって成り得るだろう。ただでさえ神経に影響を及ぼす毒は後遺症が残る可能性が高いのだ。
 雪男が危ない。そう認識した瞬間、目の前が真っ白になった。

「どうしよう!? どうすれば……っ!」
「ナマエ落ち着いて。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよっ! 解毒剤も持ってないし、こんな所じゃろくに手当てだって出来ない!」

 どうにかしなきゃ、助けなきゃ。そうやって焦りばかりが先立って軽くパニックに陥る私とは対照的に、雪男は落ち着き払った口調で言い放った。

「解毒剤はある」
「本当に!?」
「うん。この森の奥地に毒を持つ植物の群生地があることは調査済みだったからね」

 そう言いながら、雪男はコートの胸ポケットから小さな瓶状の容器を取り出した。目を凝らしてみると、表面のラベルに「antidote」と書かれている。十中八句、解毒剤だろう。
ランプの明かりを鈍く反射するその小瓶が、今は光輝くダイヤのように映った。

「良かった……! じゃあ、早くそれを」
「ただし」

 言いつのろうと口を開いたら、硬い口調で言葉を遮られた。

「副作用があるんだ」

 その言葉を聞いた途端、嫌な汗が背を伝った。

「副作用って、どんな……?」
「この薬は体内の毒を分解する働きもあるけど、同時に体の機能を一時的に停止させてしまう」
「停止ってつまり仮死状態になるってこと?」

 自分の想像できうる最悪の事態が頭の中を駆けて行く。しかしそんな私の予想を、雪男はあっさりと否定した。

「いや、そこまではいかない。強制的に眠ってしまうぐらいだよ」
「なんだ! それなら問題ないよ」

 もしも雪男がこの場に一人だったならこの副作用は致命的なものとなっただろう。いつ敵が襲ってくるとも分からない深い森の中で眠り込むなど自殺行為に近い。でも、今は私が傍に居る。雪男が身動きを取れなくなっても、私が代わりに悪魔に立ち向かう事ができる。雪男は、助かるんだ。そう分かった瞬間、目前に迫った危機に硬直していた体が解れ、詰まっていた呼吸の通りが良くなった。
 しかし、ほっと息をついたのも束の間、予想外の言葉が斜め上から暴投された。

「解毒剤は飲まない」
「え?」
「今はまだ、解毒剤は飲めない」

 はっきりとした声だった。当然一字一句洩らすことなく聞き取れたが、意味を理解することが出来ずにいると、眼鏡越しの翠色の瞳に射抜かれた。

「どうして!? 早く飲まないと!」
「僕が今ここで解毒剤を飲めば、少なくとも半日は強制的な眠りにつくことになる」
「でもその間は私が雪男を守るから何の問題も……」
「なおさらダメだ。身動きを取れない人間を庇いながら悪魔と戦うなんて無謀だよ。下手したら二人ともやられかねない」
「そんな事言ってる場合じゃないよ!」

 傷口に毒を孕んだ樹液が入ってから相当な時間が経っている。これ以上放っておけば取り返しのつかない事になるかもしれない。一刻を争う事態なのだ。それなのに、そんな悠長な事を言われ頭に血が上っていく。
 しかし雪男は、直も淡々とした口調で言葉を続けた。

「解毒剤を飲むのは、これを撒いた後だ」

 身動き取ることすら辛いのだろう。まるで手足に鉄球を括り付けられているかのような緩慢な仕草で再び胸のポケットを漁ると、小さなアンプルを取り出した。

「それは……」
「これは悪魔の忌避剤だ」
「忌避剤?」

 聞きなれない単語だった。

「忌避剤って、聖水みたいなもの?」
「いや、聖水とは違って攻撃性は無いよ。けど、聖水よりも格段に悪魔避けの効果があるんだ」

 淡々と説明されるが、いまいち話の意図が掴めずぽかんとしていると、雪男は解毒剤と忌避剤のふたつを取り出し眼前に掲げた。

「この忌避剤を撒いた後、解毒剤も飲む。だから、ナマエには此処から出て仲間を呼んできてほしい」
「っ!」

 漸く、雪男が言おうとしている事が理解できると同時に、ハッと息を呑んだ。
 ――つまり雪男は、私に一人のうのうと仲間たちの元へと合流しろと言っているのだ。解毒剤を飲んで無防備になった雪男を置き去りにして。

「そんなの出来ないよ!!」

 叫びに近い怒鳴り声をあげる。それでも雪男は一片の乱れも見せなかった。

「僕は大丈夫だから。この忌避剤があればまず悪魔は寄ってこない」
「そんな状態の雪男を一人にできない!」
「もう少し経てばじきに外も明るくなる。そうしたら悪魔の活動だって沈静化するだろうし、心配はいらないよ」

 雪男は不自然なくらい冷静だった。まるで、こうなる事が分かっていたみたいに。

「まさか、気付いてたの……?」
「……」

 雪男は肯定も否定もしなかったが、気まずそうに逸らされた視線が全てを物語っていた。

(雪男は、初めから自分が毒に冒されているって分かってたんだ)

 そうだ。よく考えれば薬学に精通している雪男がこんな酷い状態になるまで毒の存在に気付かない訳が無い。おそらく雪男は、目が覚めた時から自分の身を脅かす毒に気付いていたんだ。それなのに、何も言わなかった。……何も、言ってくれなかったんだ。
 ぎしり、と胸が痛むと同時に、激しい衝動が腹の底から突き上げてきた。

「どうして……!」

 膝の上で丸めた拳に力を込める。こうしていないと今にも雪男に掴みかかってしまいそうだった。

「どうして早く言ってくれなかったの。そんな状態になるまで、どうして放っておいたの!」
「……」

 強い語調で問い詰めるが、本当は分かっていた。
 雪男は私を危険な目に遭わせない為にずっと黙っていたんだ。私のために、毒の脅威に晒されながらも堪えていた。分かっている。頭では分かっているけれど、どうしても怒りがおさまらなかった。
 ――だって、自分が傷つくよりも雪男が苦しむことの方が、ずっとずっと辛い。

「早く飲んで」

 ぐいっ、と距離を詰めて、凄むように迫る。しかし、雪男は首を横に振るだけだった。

「ナマエがここから離れない限り解毒剤は飲まない」
「雪男を置いて自分だけ逃げるなんて、そんなこと出来る訳ない!」
「ダメだ。ナマエを危険な目に遭わせられない……」
「私よりも雪男の方が危ないでしょう!!」

 ヒューヒューと苦しそうな吐息混じりの声と、怒声が交互に飛び交う。

「私は退かない。雪男が解毒剤を飲まないって言うなら無理矢理飲ませるだけだよ」

 勢いのあまり立ち上がりかけていたのを、今度はしっかりと地面に腰を据えて座り込む。絶対退くもんか。意地でも雪男のそばにいてやる!

「はぁ……」
  
 強固な姿勢を崩さない私を見て、雪男は困惑したように眉間を寄せて息を吐く。その仕草はまるで、駄々を捏ねる子供の言い分を聞き入れる親のように、私の目には映った。
 しかし、雪男は手に持っていたアンプルを地面に落とした。

「っ!?」

 パリン、という硝子が割れる音が聞こえた途端。とんでもない激臭が襲い掛かってきた。

「な、何こっ……ゲホッ!」

 なんだ。なんだこれは。臭いなんてもんじゃない!
 下手をすれば卒倒してもおかしくない程の臭いに、頭がクラクラとしてきた。猛然と牙を剥く激臭が咽喉を締め付けるようにすら感じられる。

「この忌避剤がどれだけ強力か分かった?」
「……ぅ、ぐっ」
「大丈夫。身体に害は無いから安心して」

 まともに呼吸が出来ず、新鮮な酸素を求めて口を開けば突き刺さるような臭いにまた噎せ込む。雪男が何やら喋っているが、自分の咳のせいで禄に聞き取れなかった。
 息ができない。苦しい。涙が止まらない。
 忌避剤の猛威がこれほどだとは思わなかった。半分しか悪魔の血が流れていない私にもこれだけ効くのだから、生粋の悪魔からすれば耐えられないほどの苦痛が伴うだろう。確かにこれほどの威力があるなら悪魔が襲ってくることはまず無い。雪男は、その事を分からせる為にあんな行動を取ったんだ。

「本当はこんなもの使いたくなかったんだけど……」
「……ゆっ、きっ!」
「ごめんね、ナマエ」

 霞んだ視界の向こう側で、雪男が小さな瓶の中身を呷る様子が見てとれた。きっと解毒剤だ。私の様子を見て、これ以上この場所にいるのは不可能だと判断したのだろう。
 たしかに今すぐ此処から抜け出して、匂いが届かない遠い場所へと逃げてしまいたくなる。それほど、この空間に充満する臭いは耐え難いものだった。

「はぁ、はぁ……」

 止め処なく浮かぶ涙を拭い、目を凝らせば、事切れたように地面に突っ伏す雪男の姿が見えた。その様子に不安が煽られるが、確かに胸が上下に動いているのが見て取れた。
 解毒剤が効いているのだろう。安堵の息を漏らすが、口を開いた瞬間に、再び忌避剤の臭いが情け容赦なく襲いかかっていた。

 攻撃性は無いと言っていたけれど、ずっとこの場所に居れば嗅覚だっておかしくなるだろう。何よりも、この臭いに耐えられそうにない。
 ――雪男はその事を狙って、私をこの場所から遠ざけ、仲間の元へと行かせようとしているんだ。

「……ゆき、お」

ぼやける視界の中で、もう一度雪男の姿を確認してから、私は踵を返した。


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