沈黙と明滅
頬を掠める乾いた感触に、意識が浮上した。
「ん……」
なんだろう。薄く目を開いてみるが、閉じているときと変わらない闇が広がるだけで正体までは分からない。そのまま呆然と暗闇を見つめていると、風音に混じって虫の鳴く声が届いた。湿った土と植物の匂いもする。どうやら森の中にいるらしい。じゃあ、さっきからかさかさと耳元で騒ぎ立てているのは落ち葉が擦れる音か。
ようやく自分の状況を理解し、深く息を吸い込めば、湿った空気が肺の奥に沈みこんだ。同時に軋むような痛みが背中に走る。その痛みに、途切れていた記憶が思い起こされた。
(そういえば私、落ちたんだっけ)
右も左も分からないような濃密な闇の中。突如足元の地面が消えたかと思えば、そのまま引き摺られるように転落したのだ。落下する刹那、これはただじゃ済まないだろうなと頭に過ぎったものだけど、どうやら命は助かったらしい。
深く息を吸って、ゆっくり吐いて、また吸う。
そうしてタイミングを見計いながら、一気に上半身を起こした。途端に全身に鈍い痛みが走るが、動けないほどじゃない。
「早く雪男と合流しなきゃ」
しかし辺りを見回してみても、そこにあるはずの景観は闇に塗り潰されていて、自分がどれくらいの高さから落ちたのかさっぱり分からなかった。身体の具合からいって切り立った崖という訳ではないようだけど、なにしろ視界が悪すぎる。
「どうしよう……」
情けない声がもれる。
そのまま暫し途方に暮れていると、暗闇の片隅で小さな光が瞬いたような気がした。
(あれは……)
――目を凝らしてみるとそれは、祓魔師たちに配給されたランプだった。
「……っ!」
弾かれるように起き上がり、駆け出す。身体の痛みなど構っていられない。何度も転びそうになりながら、必死で這っていった。
「雪男!!」
ランプの微かな灯りの元で倒れ伏していたのは雪男だった。
「雪男、起きて! 雪男!」
うつ伏せになっている雪男の傍で、必死に名を呼び続ける。言い様の無い焦燥にせきたてられ泣きそうになりながら。何度も、何度も。
すると、雪男が微かに身じろいだ。
「雪男っ!?」
「……っ、ナマエ?」
雪男はひどく億劫そうに顔を上げ、こちらを見かえす。そして尋常じゃない私の様子に何度か瞬きを繰り返したあと、臥していた地面から身を起こした。
「雪男、怪我無い!?」
雪男はすぐさま理解が追いついたらしく、肩を回したり腰を捻らせたりした後、力強く頷いた。
「ほっ、本当に?」
「大丈夫。軽く背中を打ったのと、擦り傷だけだ」
「っ、よかった……っ!」
これで、私だけ助かったなんてことになったら本当に死んでも償い切れない。自分の痛みならいくらだって我慢できるけど、雪男に傷を負わせてしまうのだけは我慢ができない。
ほっとしたら、今度は腹の底から罪悪感がもたげてきた。
「雪男、ごめん……」
激しい自責に念に駆り立てられる。いくら責められたって仕方がない筈なのに、雪男は一言だってそんな言葉を口にしなかった。
「ナマエは悪くないよ。飛び込んだのは僕の意思だし。それより、ナマエこそ怪我はない?」
なだめるような優しい口調に泣きそうになりながら頷くと、雪男は心底安堵した顔で「良かった」と笑みをこぼした。その笑み責められるよりもずっと胸が締め付けられる。
雪男は膝をついていた地面から立ち上がり、探るような視線を周囲に巡らせた。
「とにかくここから離れよう。このままじゃ二人とも襲われかねない」
「でもこの暗闇の中じゃ……」
ランプは落下の衝撃で一部破損したらしく弱々しい光が明滅する程度で、この暗闇の中を歩き回るにはかなり心許ない。せめて、外が明るくなるまでどこかに隠れられたら……。
「あ」
(そうだ。確かここに……)
コートの内ポケットを探れば、かさりと乾いた感触が指先にふれた。
「それって、魔法円の略図?」
取り出したメモ用紙のような紙を見て、雪男は目を丸くした。
「そう。この紙で私の使い魔を呼んで安全な場所まで案内してもらおうと思って」
「使い魔? ナマエって手騎士の資格は持ってなかった筈じゃ……」
「うん、称号は持ってないよ。だから低級の悪魔しか召喚できないし、そもそも召喚できる可能性自体かなり低いんだけどね」
でも、やってみる価値はある。
一縷の望みをかけ、自分の親指の腹を歯で噛み千切った。浮かび上がった血液を紙に押し付け、適当な呼びかけを唱える。が、反応はない。傷跡を強く押してもう一度血を滴らせるが、うんともすんとも言わなかった。
血が足りないのかもしれない。そう思ってもう一度傷跡に歯を立てようとしたとき、手首を掴まれた。
「っ、雪男?」
「それ以上はいい」
「えっ、でも……」
「いいから」
そう言って、たしなめるような表情になった雪男を、とまどいながら見上げる。すると「僕が見ていられないんだ」と苦笑を向けられた。
(こんな小さな傷、雪男が気にすることないのに……)
本当に彼は、こちらが苦しくなるほど誠実で、優しい。
「……あれ?」
その時ふと、手に持っていた紙の中心から、インクを零したようにじわじわと染みが広がっていくことに気が付いた。目を凝らしてみるとそれは、豆粒ほどの大きさの悪魔だった。
「これって……うわっ!」
その小さな悪魔は魔法円から飛び出すと、蚤のように跳ねながら暗闇の中を進んでいった。
「えっと、あれってついて来いってことかな……?」
「そうみたいだね」
どうにも不安は拭えないが、今はその魍魎も小さい自分の使い魔を信じるしかなかった。
連いて行った先には、小さな洞窟があった。山を垂直に切り崩したような岩壁にできたその場所は、洞窟というより洞穴に近い。暗い色調で統べられた狭い道を進むと、奥の方は少し広い空洞になっていた。
「悪魔の住処ってわけじゃないみたいだね」
岩に囲まれたそこは、ぴちょんと時折水が滴る音が聞こえるだけで、悪魔の気配はない。どうやら私の使い魔も役に立ってくれたらしい。肩の力を抜いて雪男の方を見れば、同じように安堵の息をもらしていた。
「日が昇るまで、ここで待機しよう」
雪男は持っていたランプを地面に置くと、剥き出しの岩肌を背に腰を降ろした。それに倣い、少しだけ距離をとって座ろうとしたところで、声をかけられる。
「ナマエはここに座って」
「へっ」
ここ、と言いながら雪男は自分の隣を指差した。
「傷の手当てをしよう」
「いや、私より先に雪男を……」
「僕は大した怪我はしていないから」
だから、ここに座って。
再び同じ言葉を繰り返し、来い来いと手招きまでされてしまえば、素直に従うしかなかった。
「手、出して」
「あ、うん」
おずおずと掌を差し出せば、まるで壊れ物を扱うような手つきで触れられる。次いで、コートの懐から包帯を取り出すとするすると巻きつけていった。
その間、薄暗がりにひかる緑の光がじっと己を見ていることが感じられて、だんだんと動悸が大きくなっていく。視線を向けられているのが怪我をした指先だということは分かっているけれど、なんだか落ち着かなかった。まともに雪男の顔が見られない。
いつもだったら何でもないこの距離が、今は無性に恥ずかしくて、居た堪れない。そんな気持ちを紛らわすために、口火を切った。
「……前は、よくこうやって手当てしてもらったよね」
口をついて出た言葉に、雪男は苦笑をもらした。
「候補生の頃は、ナマエも無茶ばかりしてたからね」
「うっ。……そんなに酷かった?」
「それはもう。見てるこっちはヒヤヒヤしっぱなしだったよ」
手を動かしたまま、雪男は大袈裟に溜息をついてみせた。しかし見つめる瞳は優しい。その眼差しに促されるように、さっきまでの緊張が解れていくのが分かった。
――候補生を卒業したばかりの頃だろうか。その頃の私は、まだ自分の中に在る悪魔としての部分を認めることが出来ずにいた。周囲の自分を畏怖する視線に焦れ、その苛立ちをぶつけるかのように戦いに身を投じる日々。今思えば、周りに認めてもらいたくて必死だったのだろう。随分と自棄になって、傷ばかり負っていた。
(よく雪男に注意されてたっけ)
最初は、同年代の少年など危害を加えるか無視するかだけの生き物だと思っていたから、雪男にだって心を許さなかった。だけど祓魔師になるという同じ目標を抱え、共に過ごすうちにどんどん自分の世界が広がっていくのを感じていた。
そんなことを思い返しているうちに、自然と笑みがこぼれた。
「……でも、雪男がさ」
この想いを全て形容することはきっと出来ない。でも少しでも気持ちを伝えたくて、私は思いの切れ端を口に出した。
「雪男が傍に居てくれたから、私は変われたんだよ」
雪男が捨て身の私に対して「もっと自分の身を大切にしろ」って言ってくれたとき。その時初めて、自分の存在を許されたような気がしたんだ。
流石にこっ恥ずかしいことを言っているのを自覚して苦笑いしてみせたら、なぜか雪男は少しだけ眉をひそめて、こちらをみかえした。薄明かりに照らされた瞳が当惑しているように見えるのは気のせいだろうか。
「……そう」
そう返す声が、びっくりするくらいぶっきらぼうに聞こえて、はっとする。
(私、また……)
背筋が震える。私は、また、雪男に不愉快な思いをさせてしまったのだろうか。
慌てて前言の失敗を取り戻そうと口を開く。しかし、何て言えばいいのかさっぱり分からなくて、結局黙り込んでしまった。
そうして不自然に生まれた沈黙が場を支配する中、ざわざわと渦巻く暗い感情に飲み込まれていった。