静雄とヴァローナが佇んでいるのは、一ヶ月程前に閉店した雑貨屋の軒下であった。未だ放置されている貼り紙の、ボロボロになった「長らくのご愛顧ありがとうございました。」の文字が何だか物悲しい。
やれやれと憂鬱に溜め息を吐き出して静雄は腕を数回摩る。何も暇だからこうしてぼんやりしているわけではない。雨宿りなのだ。不可抗力なのだ。すっかり冷えた空気の中で、むきだしの腕は少々寒い。
隣のヴァローナといえばTシャツ一枚にも関わらず、平然とした顔で重苦しい空を仰いでいる。ロシア育ちの彼女にとってはこれくらい、痛くも痒くもないのは当然、むしろ生暖かいくらいであった。
しかし、それでも半袖から覗く腕はすっかり冷えきっているらしく、青白くぴかぴかとしていた。整った顔立ちも相俟ってまるで西洋人形のようである。
風邪引かなきゃ良いけどな、と静雄はわずかに眉根を寄せた。
「……先輩。今後の行動の指示を依頼します。駆け足ですか?」
周りを見渡しても人の子一人いない。数分前に空を濃灰色が塗り替えて以来、ずっとこんな様子である。急な雨に誰もが屋内に引っ込んだのだろう。便利なことに池袋はそのための建物に事欠かない。
彼らも少し走れさえすれば良いのだが、それには少々雨が強い。これ以上後輩を濡れさせてしまうのも忍びなかった。
「いや、このまま少し待った方がいいな。通り雨っぽいしそのうち止むだろ」
「待機ですね。了解しました」
ヴァローナは間も置かずに頷く。まったく従順なものだ。仕事中にもそうして欲しいよ、というのはトムの言葉である。静雄は何も言わないが、そんな様子を見ては何だか危なっかしく感じている。
しかし彼は、自身も同じだということに気がつかない。再びトムの言葉を借りるならば、「あいつら、まるで子供なんだよ」。彼らの直情さは拙いとも言えるものであった。
その二人を上手く制御できるのは今のところトムだけで、だからトムは池袋にとっての救世主なのかもしれない。もしかしたら。
閑話休題。
二人は相変わらずぼんやりと薄暗い景観を眺めていた。じとじとと湿った空気が肌に纏わりついている。
すっかりぼやけてしまった色々な物の輪郭を視線でなぞりながら、静雄は「10年も前の話なんだけどよ」とぽつりと呟いた。
ヴァローナはちらりと静雄を見やるが、何も言わずにすぐに正面を向いた。黙って耳を傾ける。
「学校から帰ったら、家に誰もいなかったんだ。後で、弟が怪我して病院に行ってたって知ったんだけどよ。
俺は鍵は持ち歩いてなかったから中に入れなくて、ずっと一人で玄関の前で待ってた。
家があるのに入れねえっていうのは結構辛いもんなんだと思ったよ。
結局一時間かそこらで親父が帰ってきたんだが……何でだろうな、今そのことを思い出した」
つまんねえ話だなと静雄は苦笑した。昔の話をするなんて彼らしくもないことだった。
ヴァローナは特に感情も見せず、時々思い出したように瞬きをしていた。
「それは、その日が雨天だったからですか?」
「んん?ああ、いや、どうだったっけな……。よく晴れてた気がするけど」
「そうですか」
ヴァローナはやはり正面を向いたままであった。
彼女にそのような経験はなかった。いつも一人だったからだ。
けれど、それは本を読んでいるときにふと我に返った瞬間とよく似ているのかもしれないと思う。寂しくはなかった。ただぽっかりと開いた虚無感が彼女に寄り添っていた。
愛されていたとはいえ彼女は一人きりで育ったようなものだったし、静雄も家族に愛されていながら……愛されていたからこそ、自らの衝動を酷く持て余していた。
二人は言葉を交わさない。互いに黙って、それぞれの幼少期に思いを馳せていた。
ばしゃり、ばしゃり。
「……まあ、昔の話だけどな」
「そうですね。同意します」
二人が顔を上げれば、傘を一本携えたトムが呆れながらこちらへと歩いてくる。
ばしゃり、ばしゃり。
道中。
トムは、静雄の昔話を聞きながら曖昧に頷いていた。あまり理解できていない顔である。正確を期すならば、「ああ静雄にもそんな時代があったんだなあ」と言う顔である。へええ、とこれまた曖昧な相槌を打っていた。
静雄は、気まずそうな顔で俯きがちに話していた。昔話をするだけでも性に合わないというのに、二回目というなら尚更だ。話を振ったのはヴァローナで、何だか裏切られた思いで胸中にため息をおとす。
ヴァローナは、いつもの無表情で二人を見つめていた。拙さとも言える直情さをもって、二人を見つめていた。
静謐だった。
「まあ、なんか、よくわかんないんだけどよ……」
話を聞き終えたトムは首を傾げながらそう言った。率直なのは彼の美点である。言うべきでないことはちゃんと胸中に収めるということも知っている。ようするに、三人の中で彼は一番大人なのだった。
トムは難しそうに唸りながら、両脇の二人をぐいと引き寄せる。
「とりあえず今は、俺で良かったら迎えに来てやるけど。それじゃあ駄目か?」
あっけからんとしたその言葉に静雄とヴァローナは顔を見合わせた。
「そうっすねえ……」
そこで足のもつれた静雄は「おっと」と水たまりの中に足を踏み込んだ。ばしゃりと跳ねた水がトムとヴァローナの足元にもかかり、三人の足取りがわやわやと危うくなる。
大の大人が三人、たった一本の傘の下でぎゅうぎゅうと肩を寄せ合っている。
「相合い傘」なんて可愛い言葉は似合うはずもなく、その光景は奇妙で、滑稽で、不格好だった。
それでも、その窮屈さは。
「……迎え、悪くないです。肯定します」
確かに幸福なのだと、そう思うのだ。
素敵企画「全ては笑顔のために」様に提出させて頂きました。ありがとうございました!
ちなみにこの話の主役はトムさん…です…多分。
トムさんなんです。