臨也は下らないことが好きだ。

 どんなに下らないことでも、暇に比べたら何だってマシと思っているらしい。まったくそれこそ下らない。本末転倒もいいところである。
 本当は雇い主がなにを考えていようがサッパリ関わりのないことだったけれど、大体被害を被るのは波江だったから、止めてほしいと思っている。けれど臨也は下らないこと、それと他人の期待を裏切ることが好きなのだった。
 だから彼は今日も今日とて、彼女に下らない遊びを提案するのである。

「ねえ波江、俺と付き合ってみない?」

 波江は床にぶちまけられた吐瀉物を見るような目で、臨也のにやにやとした顔を振り返った。
 「嫌よ」と何の感情も込められていない言葉で切って捨てる。カタカタと再びキーボードを打ち始めた波江を、臨也はやはりにやにやとしながら眺めていた。

「君の大好きな弟くんの為かい?そんな大切に処女まで取っといて、ほんと君って馬鹿だなあ。無駄なのにさ」
「……刺し殺されたいのかしら」
「やってご覧よ」

 大仰に手を広げてみせる臨也の傲慢さは、波江にとってはいちいち目くじらをたてる程のことでもない。多かれ少なかれ誰だってこんなものだ。マトモに取り合った方が馬鹿を見る。
 今日の話題だって、誠二の存在さえ仄めかされなければ、彼女は徹底的に無言を貫いていたはずだ。(当然臨也は、それを分かってちくちくと波江をつついているのだが)
 キーボードを叩いていた手を止め、波江はつまらなそうに吐き捨てた。

「少なくとも、あなたに捧げるのだけは願い下げね」
「へえ、同感だよ。重いもん」
「じゃあ何だってそんなつまらない事を言っているの?今までの遊びの中でもダントツで最低だわ」
「わからない?わからないかあ」

 波江の旋毛から爪先までをじっとりと眺める。鉄のような女だ。隙なんて欠片もありはしない。例え愛を囁いても浮かぶのは歓喜ではなく嫌悪だろう。不快感かもしれない。
 彼女がうっとりと陶酔するのは血の繋がった実の弟ただ一人だけなのだ。
 まったく、なんて女だろう!

「俺は人間が好きだ。愛してる。どんな表情だって見てみたいんだよ」
「だから?」
「命よりも大切な物を奪われた人間の顔とかさあ、最高だと思わない?」

 今や臨也のにやにやは顔一面を覆ってしまいそうだった。チェシャ猫みたいだ。それならいっそ消えてくれと心底願ったが、やはり彼はふでぶてしく部屋の王者を気取ったままだ。
 波江は「ふうん」と笑った。嘲笑だった。

「それは私から誠二を奪うってことなのかしら?さっきの話とどう繋がるんだか知らないけど、もし誠二に何かしたら……」
「ああ違う違う!違うよ波江!」

 臨也は演技じみた仕草で首を振った。非常に愉快そうだった。

「だって奪われるっていうのは所有していたってことだろう?君は弟くんを所有していないじゃないか!」

 彼を所有しているのは『張間美香』だろう?
 その名を聞いた瞬間だけ、波江の顔が憎々しげに歪んだ。ぶわりと内側の真っ黒い感情が滲み出たようだった。生命の危険すら感じさせる。
 しかし次に瞬きをしたときには、波江は再びいつもの表情に戻っていた。いつも以上に冷静と言っても良い。
 波江の冷たさは、流れる水のような心地よいものではない。喉に押し当てられた刃のような冷たさだ。どうやら彼女は声まで鉄で出来ているらしい。

「まあ、良いわ」

 波江はそう言った。

「じゃあ一体あなたは何を奪うのかしらね。私に誠二以外に大切なものなんて無いもの」
「わからない?わからないかあ」

 臨也は波江の豹変を見ても何も変わらないようだった。冷や汗一つすらかいていない。
 鬼気迫る表情は良いと思う。素晴らしいとまで思う。
 波江ってほんと面白いよ、ほんと。

「俺は君の愛を奪うのさ。君の弟に向ける愛情を、根こそぎ俺に向けさせてやるよ」

 臨也はふらりと立ち上がり、波江の背後に回った。肩に両手を置き、後ろから彼女の顔を覗き込む。とても興味のなさそうな顔だった。最高だ。それだから愉しいんだ。

「たっぷり遊んだら捨ててあげるからさ。ねえ、波江さん、俺と付き合ってみない?」

 ぱしりと彼女は臨也の、女のように白い手を払った。それから「ふうん」と笑った。やはりそれは嘲笑だった。

「勝手にしたらいいわ」

 その答えに臨也はにこりと笑った。黒幕には珍しい、子供のように無邪気な笑みだった。
 それから彼女の耳元に顔を寄せてひっそりと囁いてみせた。

「愛してるよ、波江」

 全てを奪いたいくらいには、君のこと好きだと思うんだよね。





悦楽論




素敵企画「とめどなく溢れる涙に愛を抱く」様に提出させていただきました。ありがとうございました!
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