嘔吐表現注意
秀徳高校の合宿は厳しい。とても厳しいものである。スタメンともなればその厳しさは一層厳しいものである。
「…」
夕食後、高尾はいつもの明るさとは無縁の表情で民宿の人気のない廊下を歩いていた。顔は真っ青でフラフラしている。廊下の真ん中を歩いていたのだが、結局壁にもたれるようにして歩き始めた。
人通りのない廊下は薄暗くその日この辺りを使う人がいないことを示している。歩きながら高尾はここなら大丈夫だろうと思ってドアを開ける。
高尾が向かっていたのは人気のないトイレだ。厳しい練習によって疲弊した体は無理やり食べさせられたかなり多い食事によってすっかり参ってしまった。むかむかと込み上げる吐き気に高尾は食事が終わって早々人気のない場所にあるトイレを目指した。さすがに人気のあるトイレで吐くのは気が引ける。大勢に弱みをひけらかすみたいであまり良いことだとは思えなかった。周囲が見ているのはいつものおちゃらけた高尾でいいのだ。こんな弱い所なんて見せたくない。
トイレにたどり着いた時には吐き気が全身を支配しているような感覚である。崩れるように便器の前に倒れ込むと一気に胃の中身が逆流してくるのを感じる。
「うっ…、かは。…うぇ」
多めに食べさせられたものが胃の中からなくなっていくのを感じる。一通り吐いて吐き気が少しずつ納まっていく。
「はあ、はあ…」
もう吐けるものは吐きつくしたように思われるが吐き気が完全に収まらない。それでも少し楽にはなったが依然吐き気が付きまとう。トイレの床にペタリと座り込んだまま高尾は荒く息を吐く。少しはましになったとはいえ吐き気は吐き気。しばらく戻れそうになかった。
不意にトイレに明かりがついて高尾は肩を震わせた。こんなところまでは誰も来ないだろうと思っていたので、余裕がなかったのもあるがトイレの個室のドアは開けたままだ。誰が来たのか知らないが、この姿を見せるのは嫌だった。
「高尾…?」
入ってきたのは緑間だった。高尾は安堵を感じながらも苦い思いだった。見られたのが緑間で良かった。否、緑間には見られたくなかった。伏せた顔を上げられなくて、振り返ることも返事をすることもできず高尾はそのまま座り込んでいる。
「大丈夫か高尾」
緑間が心配して高尾の傍に歩み寄る。便器の中にある吐瀉物を見てから高尾の顔を覗き込む。
「まだ吐き気はあるか?」
高尾はゆっくり頷いた。それを見た緑間はそっと高尾の背中をさする。それに触発されたのか再び胃の中に残っていたものが逆流してくるのを高尾は感じた。
「うぇ…、っ」
先程よりは少ないが胃の中身が出ていく。口の中に胃酸の味が広がった。
「…はあ」
今度こそ吐き気が収まりだす。ゆっくり体を起こすとトイレットペーパーで口元を拭った。緑間はまだ心配そうな顔をしながら背中を撫でている。
「真ちゃんありがとう。もう大丈夫」
そう言ってトイレを流して立ち上がろうとするも失敗する。
「まだ休んでおけ」
いまだに高尾の背中を撫でる緑間の手つきは優しくて、こんな風にデレてくれるならたまには吐くのも悪くないかもしれないと思ってしまう。
「マジでサンキューな。真ちゃんが吐くときはオレが介抱するから」
「ふん。オレは吐いたりしないのだよ」
「またまたー。オレにくらい弱いとこ見せてよ」
「…だったらお前も少しはオレに頼るのだな」
誰にも弱みを見せるつもりがなかったことを見抜かれて高尾の軽口は止まる。思いもよらぬ返答に高尾の思考は停止する。だが、緑間も頼って欲しかったのかと思うと嬉しくなった。
「ありがとな、真ちゃん」
それを滑稽だと人は笑うだろうか