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※2020年に発行済の愛執Uに掲載した書き下ろし短編になります



生命が芽吹くあたたかな春。太陽も大地も空も眩く輝く夏。涼しさを纏わせながらどこか予感を感じさせる秋。新雪の下で時節に芽吹く生命達が静かに眠る冬。
どれだけ季節を繰り返しただろう。どれだけ色の無い時間を過ごしてきただろう。
nameがいない世界を生きて、どれだけの時間が経ったのだろう。

微かに感じる朝の気配に、薄っすらと目を開く。
見慣れた天井が広がる視界に入り込む一筋の光。閉じられきっていないカーテンの合わせ目から漏れる朝陽が室内に漏れていた。
一等地に建てられたマンションの最上階は朝陽にたっぷりと照らされる。ほんの一年前まで暮らしていた場所よりも此処は随分と陽当たりがよかった。
ゆっくりと起き上がり瞬きを数度落とす。それから無意識に、先程まで身体を横たえていた場所の隣に視線を向けてしまったことに気が付き、苦笑いが滲んだ。
身に染みた癖のようなものだった。そんなことをしたところで、現実は変わらないというのに。
両の手でカーテンに触れ、開け放つ。途端、視界は白に染まる。その後肌に感じるあたたかさ。静かに目を開ければ輝く太陽と共に何処までも青く澄み渡る快晴の空が広がっていた。

「おはよう、name」

決して届かない言葉を、ノクティスはその名と共に呟き落とす。


ルームシューズを履いた足でぺたりぺたりと廊下を歩く。
高等学校の進学と共に選んだ一人暮らしの際、住居として与えられたこの部屋は城のそれと比べると随分と手狭。
手狭と言うが、生活するには何の問題も無ければ苦にもならない。あるとするならば、片付けられるべき物の数々があちらこちらに散乱していることだろうか。
衣服、鞄、雑誌にクッション。廊下にまで散布するそれらを跨ぎ、踏み越える。
足を運んだリビングには昨晩たいらげたコンビニ弁当やペットボトルがそのまま置いてあり、それらを視界に入れることでようやく片付け忘れていたことを思い出した。
それどころかいつ飲み干したものかも忘れてしまうほどのボトルの山がフローリングの上に立ち並んでいる。
部屋の至る所に大きく膨らんだゴミ袋が置かれており、これらもいつか然るべき日時にゴミ捨て場に運ばねば、とは思う。
思うだけで実際は手につかず、結局部屋を訪れる側付きが見かねて全てひとりで掃除してしまうのだが。
過去の経験から、そうなる未来が確実に訪れると断言できる。よって今日もノクティスはそれらに目をくれることも時間を割くこともしないのだ。

コンビニ弁当の空箱とペットボトルが鎮座するリビングのテーブル。その隣に位置するソファ。
その上に積み重なるものもあれば僅かに零れ落ちている数冊の本のうち、一冊を手にする。
深緑色の表紙の本。昨晩読み進めていたところに挟んだ栞を抜き取り、片手に持つ。
かつての為政者達が国で行なった政策、市井の反応、その評価。所謂歴史書に詰められた知識や知恵は将来、王という名の為政者になる自身にとって実りになるものだ。
事実のみを端的に語る文字へ目を通しながらノクティスはキッチンへと足を運ぶ。
途中、ルームシューズの下で何かを踏み潰す音が聞こえたが、ゴミの類だと判断して気を向けることはない。これも経験則からくるものだ。
冷蔵庫を開くと冷気がノクティスの肌を撫でる。内部を照らす橙色のランプの傍にあるものを手にして手早く扉を閉めた。
側付きが作り置いてくれたおにぎり。レンジで温め直す間も本から視線を逸らさない。
やがてほかほかと熱を纏ったそれを朝食に、ノクティスはソファに身を沈め、食しながらも黙々と活字を追い続けるのだ。


nameがこの世界を去って九年の月日が流れた。あの絶望にもよく似た、いや、絶望そのものを体現したかのような日々からそれだけの時が経ってしまった。
nameを失った当初、ノクティスは呼吸をするただの屍と化していた。
意思も生気も無い。絶対に失いたくない存在を奪われたノクティスは、もはや未来を生きることなど不可能に等しいほどに憔悴していた。
その折りに様々な事情が重なりに重なって訪れたテネブラエのフェネスタラ宮殿。
其処で出会ったルナフレーナという少女から告げられた言葉が、再びノクティスに生気を灯した。

神を使い、神を伝い、nameをこの世界に引き摺り戻す。

不可視の門のその先にいるという女神エトロとの接触は、神の言の葉を聴くルナフレーナでも容易でなければ方法すらも曖昧だ。
しかし、ノクティスは違う。
真の王。歴代のルシス王達でさえ宿さなかったその称号。
神に選ばれた証。星に選ばれた証。ルナフレーナはそう言っていたがノクティスは神話に関しての知識が少なく、その大層な名に首を傾げていた。
しかし、それはnameを取り戻すために必要な力を宿しうる者の名である。
神に選ばれ星に選ばれた真の王。その名に見合うだけの力をつけ成長を果たせば、何ものを掌握するだけの神力を手にすることができるかもしれない。
女神エトロがおわす不可視の門。その先。魂の烏合。そこに触れることが、可能になる。
nameを、もう一度、この手に。

けれど真の王の名を戴くには遠く及ばないことを、ノクティス自身が痛感していた。
経験、知識、力。様々な要素が、現国王であるレギスの足下にすら及ばない。
ノクティスには時間が必要だった。経験を、知識を、力を得るための時間が。
それだけではない。nameを取り戻すための力を得ることは何ものよりも優先されるべき事項だが、その後、nameがこの世界で、この国で何不自由無く生きていける環境を整える必要もあった。
ルシス王国は現在、ニフルハイム帝国との争い事が後を絶たない。
およそ四百年前から続いているニフルハイム帝国の侵略戦争。古代文明ソルハイムの遺産を用いての世界制覇を志す指導者により幾度もその矛先を向けられてきた。
約百五十年前、帝国の猛攻に抗うため過去のルシス王は魔法障壁を創り出して籠城体勢を整えた。
それから小さな小競り合いがあるものの、仮初めの平和とでも言うべきだろうか、しばらくは争いの無い時代が続いたそうだ。
しかし、帝国が仕掛けたフェネスタラ宮殿への襲撃。当時nameを失った悲しみに暮れていた幼少のノクティスに付き添っていたレギスを狙っての襲撃を機に、ルシスへの圧力は強まっていった。
度重なる戦火の雨により魔法障壁は今や王都付近を守る為に縮小を余儀なくされてしまった。
その雨は、現在も降り続いている。魔法障壁という安寧に守られた王都の外で、今も尚。

nameが生まれ育った国は小さな戦から大きな戦までをも幾つも経験してきたらしい。
しかしそれは過去の話であり、name自身がその争いを経験したことが無いという話を聞いたことがあった。
武器を手にしたことがない、振るわれる場面を見たことがない、人間同士の命の奪い合いを目にしたこともその空気に触れたこともない。
平和で豊かな国で、時代で、育ったname。そんな彼女がニフルハイム帝国との戦争の最中にあるルシス王国で安心して生きてゆけるのだろうか。
nameの命が危険に晒されることなど決して許すはずもないが、name自身は不安を抱えて生きてゆくことだろう。
いつ侵略されるのか、いつ争い事に巻き込まれるのか。

そのような憂いを抱かせはしない。そのような必要の無い感情を抱くよりも、nameにはもっと他の感情を自分に向けて欲しい。笑って、ずっと、傍で、生きていて欲しい。

いずれノクティスはレギスの後を継ぎ、王となる。
しかし王の座に就くだけでは足りるはずがない。真の王。神に選ばれた者たる力を宿さねばならない。
おそらく、容易ではない。どれだけ時間がかかるかもわからない。けれど、必ず、成し遂げる。
それは近いようで遠い未来。目先にあるにも拘わらずまだ掴めもしなければ掠りもしない。
きっと、時間が、経験が答えをくれる。だからそれまでは、nameが笑って生きていける国を創ることを目標に掲げた。
nameに会いたい、声を聴きたい、触れたい、あたたかさを感じたい。
けれどやっと掴んだnameの手が争い事のせいですり抜けてしまうことは、何よりも失意に呑まれることだから。

今はニフルハイム帝国との戦争を終結させ、争いの無い世界にしなければならない。
だからノクティスは今日も王たる者としての在り方、戦の戦術から何まで、とうの昔に終えた高等学校の学問を隅に置いて学び進めるのだ。



◇◆◇



通い慣れた校舎へ続く門を通る。
つい七日程前まで夏休みという名の長期休暇により閑散としていた校舎は、今もまだ休みの気分が抜けず気怠に登校する生徒達を迎え入れていた。
眠そうに目を擦りながら歩く者、辞書を片手に歩く者、友人と仲睦まじく登校する者。それらを気にすることもなく、その波に片足を踏み入れる。
快晴の夏空が青く、深い。朝早くだというのにギラギラと地上を焼く太陽がひどく眩しく、瞬きをして小さくため息をついた時だった。

「ノークト!おはよっ」

呼びかけられた後、小さな衝撃。
手の平で背中を小突かれた勢いのまま前のめりに三歩踏み出し、その正体を振り返れば想像通りの人物が青空に負けないくらいの晴れやかな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

「はよ、プロンプト。朝から元気だな」
「えー?ノクトが元気なさすぎなんだよ」

にひひ、とからかうように笑う少年、プロンプト。その邪気の無い笑顔の彼に、お返し代わりに肩を小突けばまた笑い声が上がる。
それからどちらからともなく歩調を合わせるように校舎へと足を向けるのだ。

癖のある金色の髪に青い空の中に咲く紫色の紫陽花の瞳。ノクティスの友人であるプロンプト・アージェンタムはまさに夏の空のように明るい男である。
友人になったのは高等学校へ入学した頃ではあるが、彼とノクティスとの親交は実のところ、小学生時代まで遡る。
nameを失い、それでもその存在を取り戻すために前向いて進み出した八歳の時分。いつもルナフレーナとの文のやり取りを頼んでいる二十四使、プライナが繋いだ縁により彼との交友が築かれた。
何でも、足を負傷したプライナをプロンプトが看病したらしく、それを知ったルナフレーナが感謝の文をしたためたのだとか。
ノクティス様の良き御友人となってくださいますよう、お願い申し上げます。
そんなルナフレーナの願いに応えるかのように、プロンプトはノクティスとの接触を試みていた。
――視線はいつも感じていた。王子だから、特別だから、と敬遠するかのような鬱陶しい視線の中に混じるやけに熱い視線。
時折感じることもあれば四六時中感じることだってあった。気に掛かってそちらに目を向けるといつもそこに丸い金色の紫陽花があって。それは視線が絡むなり慌てたように姿を消すのだ。
不審に思えどこの時のノクティスは、彼のことは危害を加えてこない存在だと妙に自信を持っていた。
敬遠する視線や物好きな人間よりも、真っ直ぐな感情を向けられている気がしたから。

目を見れば、そのひとの大体の人柄がわかるんだよ。

かつてnameが言っていたことだ。
目は口ほどにものを言う。いくら口で嘘を吐いても瞳は雄弁に本心を語るのだと。
彼の目は周りのそれとは違う。王子とお近づきになりたいだとか、王子としてのノクティスを求める奴らとは全く本質が違うように思えた。
すぐに声を掛けてくるのかと思えばそのような急いた様子もなく。じわじわと送られる視線と同時に月日は流れることになったが、ノクティスは自ら声を掛けることはしなかった。
彼の中で、何か大きな決意がひとつの芯として備わっている気がしたから。
nameの言葉のお陰で気がつくことができた。その教えがなければ彼のことを気にも留めず存在も認めることもなく、今こうして笑い合うことなどなかったのだから。
そうして月日が流れて高等学校に入学した折、プロンプトは陽気な挨拶と共に接触してきた。
初めまして。そう言った彼の瞳の奥に、燻る感情を見た。覚えていてくれるかな。そんな、淡い期待を。
初めてじゃねぇよ。王子としてではない、有りの儘の自分の言葉をぶつければ、プロンプトは呆気にとられた後、柔らかく破顔した。
それだけで充分だった。友人という絆を築くには、充分。

「そういえばさ、今日の放課後、ノクトの家行っていいんでしょ」

教室の席に座り、本日使用する教科書や筆記具類を机に並べていると、前の席の主が不在なのをよいことにプロンプトがそこに腰掛けてこちらを覗き込んできた。
友人であるプロンプトとは放課後にゲームセンターで遊んだり、ノクティスの家でテレビゲームをすることが多くある。
けれどそれは約束として取り付けるようなものではなく、どちらかが気軽に誘うようなものであった。
プロンプトにしては珍しい。決定事項を確認するかのような言い方も。首を縦に振るが、ノクティスはその真意が気に掛かった。

「別に構わねぇけど、何?あのゲームならトロコンしただろ」
「もー何ってことはないでしょ!今日!ノクトの誕生日じゃん!」

言われてから教室の壁に掛けられているカレンダーに焦点を合わせる。
八月三十日。それは自身の誕生日を示す日付だった。

「え、なにその顔。もしかして自分の誕生日忘れてたとか言わないよね」
「いやそのまさかだわ。すっかり忘れてた」
「うっそでしょ。痴呆症にはまだ早いって」

そういえば今朝、携帯端末にイグニスからメッセージが届いていたような気がしたことを思い出した。
気がした、というだけで気のせいかもしれないし見間違いの可能性もある。
あの側付きは連絡事に関しては事細かく小煩い。ノクティスの無事を確認するためでもあるのだろうが、それでも頻繁に様子を見に家を訪れに来るのだからそこまで気にしなくとも、とは思っている。
が、後々の説教が面倒くさい。そう手間をとることでもないため、ノクティスは自身の携帯端末を慣れた手つきで操作し、届いたメッセージに目を通す。
新着であることを告げる赤いマーク。その差出人はイグニスで、その内容は今日の夕方、ノクトが住むマンションで誕生日会をする旨が書かれていた。

「イグニスから連絡きてたでしょ?俺にも連絡くれてさ。ちゃんと逐一確認してあげなよ、心労でイグニスがぶっ倒れたらどうすんの」
「大丈夫だろ、無敵眼鏡だし」
「なにそれウケる」

小煩く過保護。イグニスの世話焼きは今に始まったことではない。
何時何処で何をしているか。常にノクティスのことを気に掛ける姿は親のそれとも見紛うが、側付きとして、それからノクティスを想うひとりの人間としての態度なのだということは十二分に理解している。
ずっと、そうだった。nameがいなくなってから、その穴を埋めるように寄り添ってくれている。
当然、イグニスはnameの代わりになどならない。それは本人が一番よく理解していることだ。
けれど己の理解者が、……腹に一癖も二癖もある獣のような衝動を飼っていることを知る唯一の人間が傍に控えているということは安心にも似た何かを得られるのだ。

「っつーわけで、放課後、ノクトの家ね」

ガラリ、と教室の扉が開き、担任の教師が教室へと足を踏み入れる。
談笑していた他の生徒達と同じく、自分の席へ戻るため腰を上げたプロンプトがひらひらと手を振りながらノクティスの席を後にした。
それにひとつ、頷きを返せば後はもう口を開くことはない。
ホームルーム、そしてノクティスにとって何の意味も成さない授業時間の始まり。
一限目の数学の授業で使用する教科書の上に堂々と広げる紙の束。
教室内の最後尾の席かつ窓際であることをよいことに、ノクティスは頬杖をつきながら王都内の民意を纏めた書類に目を通し始めたのだった。



◇◆◇



青の中に混じる橙色。遠くの空が薄らと茜射す頃合いに、淡い影を伸ばしながらノクティスとプロンプトは帰路を共にしていた。
堤防を通り公園を横目に進む。信号を三つ渡って商店街を抜ければ住宅街が見えてきた。
真新しい住宅から築年数の経つ家まで。けれども古さや寂れた雰囲気を感じないのは、此処が一等地であるが故。
そんな地に建てられたマンションはどの家屋よりも階数があり、その外観も抜きん出て高級感を醸し出していた。
これが正にノクティスが現在一人暮らしをしているマンションだ。監視カメラも警備員も有り余る程に配置され、他の住居人もルシスの重鎮に縁のある人物ばかりの、特別なもの。

「いつ見てもほんとご立派。入るの気が引けるんだよね」

ごく一般家庭で育ってきたプロンプトは、かの王子が住まうマンションから放たれる見えない圧のような何かにいつも足踏みをする。
そのようなことをせずともノクティスの友人なのだから胸を張っていればよいものを。
萎縮するその背中を小突いて先を行く。続いてパタパタと後を追いかけてくる足音が隣に並ぶことを確認してからエレベーターに乗り込み、最上階を目指した。
大型デパートの階数を軽く三つ分越すほどのボタンが点滅する。静かな振動に揺られること数秒、エレベーターを降りて自分の部屋を目指して歩く。
部屋の鍵を取り出して鍵穴へ。左へ捻ればそれは小さな音を立てて解錠を告げた。

「おっじゃまっしまー……あれ?」

開けた玄関の扉へプロンプトを招き入れる際、そこに並ぶ二組の靴にプロンプトは首を傾げた。
此処の家主はノクティスである。ノクティスが外に出ていたとなると此処に靴が置かれているのは少々引っ掛かることなのだろう。ノクティスが自身の靴を乱雑させている場合は置いておく。
黒い革靴に硬い生地のスニーカー。およそノクティスが履かなそうな二足の靴を見てから、これは?と訊ねる指先と視線にノクティスは自分の靴を整えてプロンプトへ室内用のルームシューズを差し出しながら答えてやった。

「イグニスとグラディオだろ。先に来てたんだな」
「なるほどねぇ、んじゃ、おじゃましますよー」

納得したように頷いてからプロンプトはそのルームシューズへ足を入れる。
プロンプトとイグニス、グラディオラスは既に顔見知りだ。ノクティスと友人関係になった時から既に紹介は済んである。
元より、イグニスは小学校の時からその存在に目を光らせてはいたが、無害かつノクティスが信頼を置いていることを知ると自身も快くその存在を受け入れていた。
プロンプトは最初、王子と親しい仲であるふたりに対して恐縮した様子ではあったが、会う回数を重ね、言葉を交わす度に随分と親しい関係を築けるようになっていった。
昔はあんなにもひととの接触に対して後ろ向きだったのに。自分の事を棚に上げ、ノクティスは友人の成長を喜ばしく感じたものだ。

リビングへ続く廊下を歩く。そこでノクティスは気がついた。
今朝踏み越えたゴミの山が無いことに。
それから思い出す。今朝方の室内の惨状を。およそ人を、友人を招けるような様相ではなかったことを。
側付きが全て片付けてくれるだろうという無二の信頼からくる怠惰。それが全てではないが、nameがいなくなってから自分の生活に気を回さず知識を詰め込むことに意識を持っていくことは常々あった。
これではいけない、nameが戻ってきたときのために自分の身の回りのことは自分で出来るようにならなければ、呆れられてしまう。
ノクティス君はもう大人なんだから、イグニス君に頼りっぱなしじゃなくてちゃんと掃除できるようにならなきゃ駄目だよ。
眉を下げながら愛のある小言を吐くnameを思い浮かべて笑みが零れる。その顔も、声も、はっきりと覚えている、忘れるはずもない。
リビングの扉をゆっくりと開く。と同時にこちらを振り向いたふたつの顔。

「おかえり、ノクト。先に邪魔していたぞ」
「おう」
「やっほー、イグニス、グラディオ。お邪魔しまーす」
「ああ、よく来てくれた」

持っていた通学鞄をソファへ放り投げる。丁度そこに座って我が物顔でいたグラディオラスを狙ったわけではない。
おいこら、危ねぇだろ。そんな悪態を吐きながらも上手いこと鞄を受け止め、根の生えた腰を上げながら部屋の隅に移動してくれる。
そこまでさせるつもりは全くなかった。本当に、なんだかんだ言いながらこの男も世話焼きなのだと思う。

「誕生日おめでとう、と言いたいところだがまず俺が何を言うのかわかっているな」
「はいはいさんきゅー。掃除ありがとさん」
「ありがとさんで済むかよ。俺がいなかったらイグニス一人でこのゴミ部屋を片付けることになってたんだぞ」
「ゴミ部屋って……どんだけ酷かったのさ」
「足の踏み場が無かったな」
「いやあるし。踏み越えろよ。俺は今朝余裕で歩けたね」
「何威張ってんだよそこじゃねぇだろ」

グラディオラスとイグニスの叱責の視線を受けながらも涼しい顔と足取りでリビングテーブルへと向かう。
先程から気になっていた。鼻腔を擽る温かい料理の香りと視界に入る彩色が。
覗き込むそこに並べられているのは毎年見る光景で。
無意識に上がる口角と零れる笑顔をそのままに、シンクにて洗い物をしているイグニスを見上げればその翡翠とかち合った。

「毎年ありがとう、イグニス」
「どういたしまして」

ゴミの山を掃除してくれたことに対する礼よりも、真摯に、素直に。
その礼に込められた思いを理解しているイグニスだからこそ、その思いと言葉をそのまま受け止めるのだ。

nameが残してくれたものは、あたたかくてきらきらした思い出と温もり。それから手紙だった。
ノクティスへの別れを綴った手紙。直接本人から手渡されることはなく、イグニス伝いであり、そのことに対する悔恨と憤慨をイグニス自身にぶつけてしまったことは遠き日の出来事だ。
nameは身近な人々にも別れの手紙を用意していた。父にも、コルにも、それから勿論、イグニスにも。
他者への手紙全てに目を通したわけではない。nameの言葉の一欠片でも目に入れたかったが、それこそnameに嫌われてしまっては意味が無かったから。
けれどイグニスは、ノクティスの為だから、とその手紙を差し出してきたことがあった。
複数の紙の束。ノクティス宛てのそれよりも随分と多く、少しばかり面白くなかったことを思い出す。
一枚はイグニス宛ての手紙。その他の紙は、料理のレシピや催しものを行なう際の事細かな指示書だった。

八歳の夏。叶わなかったnameとの蛍観賞。
お弁当を作るという約束を果たせないことを悟ったnameが託したそれらは、当時幼かったイグニスによって叶えられた。
その他は、ノクティスの誕生日会に関することだった。
誕生日の時、来年もこうして共に祝うこと、ケーキを作ること、歌を歌って貰うことを約束した。その約束も本人によって果たされることはなかったが、託されたイグニスが遂行してくれた。
少しばかり遅れてしまったノクティスの九歳の誕生日会。あの時のことは今でもよく覚えている。

自室の隅から隅まで色鮮やかな色紙で作られた輪の飾りが掛かっていて、柔らかい生地の色紙で作られた花飾りがテーブルの上を彩っていた。
それから並べられた料理の数々。本当にイグニスひとりで全て作ったのかと疑わざるを得ないものは、本当はnameが作ってくれるはずのもので。
nameの世界でいうところのお好み焼きやチキンライス、焼きそばに大中小のハンバーグ、マッシュポテトや唐揚げに加えて小さなピザパン等々が行儀よく並べられていた。
それらの中心にあるのは丸い円状のケーキ。白い生クリームで作られ、ちょこん、と乗った赤い苺。
nameの国では年齢分のろうそくをケーキに立てるのだそうで、それに肖って九本分、しっかりとケーキの外周に刺さっていた。
極めつけは、ノクティスが座る席に添えられたメッセージカード。
いつ用意していたのだろうか、見間違うはずも無いその文字はnameのもので。
お誕生日おめでとう、ノクティス君。
その言葉を目にしたときにどうしようもないほど嬉しくて、悲しくて、虚しくて。誕生日だというのにほろほろと止まらない涙を流し続けてイグニスを困らせたことがあった。

それから毎年、同じようにイグニスは誕生日会を開いてくれる。
色紙での飾り付けはなんだか恥ずかしくもあって中学生半ばで遠慮しようともしたのだが、nameが残してくれたもの、しようとしてくれたことはいつまでも続けていきたかった。
料理のレパートリーはずっと変わらない。変わったところあるとすれば、イグニスの料理スキルが上がって調理時間が短くなったことだろうか。
味は変わらずnameのレシピに忠実に従っているところを見るに、本当はイグニス自身もnameの味が恋しいのではないかと考えたりもする。というより本人が清々しく肯定していた。
何歳になっても、何年経ってもnameの思い出はここにある、意志は続いてゆく。その先に、本人を手に入れる未来がある。
いつかこの誕生日会がname本人によって開かれること、それはノクティスの願いのひとつでもあった。

「さあ、席についてくれ。ノクト、皿を。料理を取り分けよう」
「いーって、自分でできる」
「しかしだな」
「なんでもママにやってもらわなきゃいけねぇほど餓鬼じゃないだろ」
「違うグラディオ。目を離すとノクトは炭水化物ばかり摂取するから野菜も摂らせなければいけないんだ」
「餓鬼じゃねぇか」
「俺これもーらいっ、一番大きい唐揚げ〜」
「おいプロンプト!それ俺が狙ってたやつ!」

四人で一つのテーブルを囲み、料理に手をつける。プロンプトが加わった去年よりも、打ち解けた分賑やかで騒がしい。
けれどその騒がしさは嫌じゃない。面倒だとも思わない。
心を許せる友人達。いつかnameに紹介したい。こいつらに支えられてここまでやってこれたのだと。
nameのいない世界でも、生きてこられたのだと。

「いやーしっかし、こんなに美味しいレシピをイグニスに教えるnameさんって何者?本当に城お抱えの料理人じゃないの?」
「違うって。それ去年も言ってたかんな。nameはname、それだけ」

はむはむとハンバーグを食べるプロンプトは、幾度も説明したにも拘わらずnameを料理人か何かだと疑い続けている。
その度に違うと否定すればその場は理解を示せど、またこうしてnameの味に触れる度思い起こしたように同じ事を訊ねてくるのだ。

「イグニスの料理のお師匠様みたいなものなんでしょ?」
「ああ、そうだな」
「忠実に再現するイグニスもすごいんだけど、nameさんのことを知らない分なんだかすごいひとって想像が膨らんじゃうよ」

イグニスが料理を始めたのはnameと出会った頃だった。
それまでは食事に関する業務といえば配膳くらいなものだったのに、nameが菓子を作る場に遭遇してから彼の中でそれが契機となったのか、積極的にnameに料理を習い、共に調理場に立つことがあった。
元からイグニスは器用なほうだった。一を教えれば十を学び取ることが出来る人種であり、それは料理という分野にも遺憾なく発揮されている。その技量は今もなお向上しているものだからいっそ料理人を目指せばよいのではないかとも思う。
まあ、それはそれで困ってしまうのだが。

「いつか食べてみたいなぁ、nameさんの料理」

程よく火が通ったチキンライスを食べながら、プロンプトがにこにこと笑う。
プロンプトにはnameのことを話してある。異世界人だとかは伏せてはいるが、彼女の経歴から為人は一通り。
今は遠くに行ってしまっているが、いつか必ず戻ってくること。それから必ず紹介してやることも。友人であるプロンプトと交わした約束だ。

「いつか、な。リクエストでも考えておけよ」

こうして囲む四人の食卓にnameが加わる未来。いつか必ず訪れる未来。
それがとても待ち遠しくて、でもすぐには叶わなくて。それでも来たる未来がとても、とても愛しくて眩しくて、ノクティスは静かに微笑んだ。
その隣ではイグニスも口の端を上げて目を伏せ、頷く。
ただひとり。グラディオラスだけが難しい顔をしながらノクティスとイグニスを見ていたことを、彼らは知らない。


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