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「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -
※愛執36話前。星の病が猛威を奮う前。
※謎時空。
※ありがちな夢女子がもしも愛執の世界にトリップしてきたらどうなるか。
※ベタ展開・おそらくギャグ。







人生というものは何が起こるかわからない。
自分が自分として生きられる一度きりの生。経験則など通用しない一回の人生の道筋を、何度も読み返した物語のように覚えているほうが可笑しな話なのだ。
イオスという異世界で生きること十一年。
何が起こるかわからない、の状況を今尚現在進行形で身を以て経験しているnameは窓の外に広がる青空を眺めて小さなため息をついた。

いつ地球に帰れるかわからない。そもそも帰れるのかすらわからない。
懐かしい故郷、風景を思い描けばそれらは色褪せずにnameの瞼の裏に浮かび上がる。
恋しい気持ちはある。けれど最初の頃よりも随分と落ち着いた気持ちになることができたのは、この世界で生きる目的があるから。それを見つけたから。


「どうしたの、name」


こつり、と側頭部を窓硝子に擦り付けるnameを覆う影。
自室にいるのは椅子に座る自分と、それから己を高い位置から見下ろす美丈夫だけ。
警戒する必要など有りもしない。
ゆっくりとそちらを見上げれば伺うような視線を投げかける金茶色と視線が絡んだ。

「何でもないよ。アーデン君こそどうかした?まだ目を通し終わっていないでしょう?」
「nameのため息が聞こえたから」

nameの視線はアーデン越しに室内の奥を覗く。
nameに与えられたこの自室に乗り込んできたアーデンが持ち寄った本や資料が、遠くの机の上で静かに開かれたままだ。
窓際とそことでは距離がある。先程ついた小さなため息が届いてしまうような距離ではない。
それなのに耳聡く聞きつけてきたのだろうか。
そこから声を掛ければ応じられるのに、わざわざ席を立ってまで。

「気を散らせてごめんね、なんでもないの」

nameのいる空間で読書がしたい。
そう言いながらアーデンが此処に乗り込んできたのは数時間前のことだった。
アーデンは次期国王となるルシス国の王子。
そのために必要な知識を身につける学習を此処で行ってよいものかどうか、nameとしては答えが出せるわけでもないのだが、アーデンがそうしたいというのならnameは快く彼を招き入れるだけだった。

アーデンは王になる。それから国を豊かにして、人々をしあわせにする。
約束された未来。それを目にしたい。近くで見届けてやりたい。
それがnameがイオスで生きる目的。叶えたい未来だった。

「でもため息をついたのは事実でしょ」
「それは、そうなんだけど。意味とかなくて。ほら、よくあるでしょう、無意識につくため息」
「それにしては随分と物憂げだった」

耳聡いうえに目聡いとは。
てっきり勉強に集中してこちらのことなど気にもしていないと思っていたのに見られていたとは。
アーデンはこの部屋でこちらを観察するために来たとでもいうのだろうか。そんな筈はない。
苦笑いの浮かぶnameの顔を怪訝な表情で見つめたアーデンに、ふいに手を取られた。
引かれ、立ち上がらせるかのような動作に流されるがままnameはアーデンの目の前に立つ。
近い距離で柔らかく微笑むアーデン。穏やかな金茶色。
一拍置くと、随分と心地の良い声でアーデンは囁いた。

「気分転換、しよう」

nameの肩を抱き、まるでエスコートするかのように扉まで脚を進めるアーデン。
その動きに連れられるようにわけもわからずついて行くnameの視界の隅に、机の上に置かれた書物類が映り込む。
それはアーデンが持ち込んだもの。王となるアーデンのための勉学に必要なもの達。
アーデンは何をするために此処に来た?そう、勉学のためだ。

慌ててアーデンの腕を引く。
しなやかな筋肉のついた腕を引いたところで大した足止めにもならないと思われたのだが、思いの外僅かな力でアーデンはぴたりと立ち止まってくれた。
こてん、と首を傾げるその仕草が可愛らしくてその頭を撫でそうになったが、堪えたnameはその指先をアーデンが座っていた場所へと向けた。

「勉強、終わってないんじゃないの?」
「いいの、休憩」
「でも」
「勉強の内容は今日も明日も変わらないよ。でもnameの気持ちは変わるだろう?だったら俺はnameを優先したい」

まあ、俺はいつでもnameが最優先なんだけど。
なんておどけて微笑むアーデンの優しさに、nameは胸が締め付けられる思いだった。
苦しさから来るものではない。その優しさがどうしようもなく嬉しかったのだ。

王になるための大切な勉学と、ため息をついただけのnameとではその比較をするための判断材料や状況、何から何まで異なる。
ただ、アーデンがどちらを優先すべきか、という観点で二択を迫るならば、その二択に含まれるname自身でさえ勉学の時間を選び取る。
けれども選択者であるアーデンは後者のnameを選び取った。
自分を選んでくれた。そんな傲慢で勘違いも甚だしい思いではない。
アーデンのひとの気持ちを汲む優しさに触れられたことが嬉しかった。

実際nameは何と無しにため息をついただけ。アーデンがそれに過剰反応している節はあるのだが、それでもこちらを気遣ってくれているのは確かだ。
昔から優しい子だった。優しさに溢れる子だった。
そんな子がこうして立派に育ってくれた。それだけでnameの涙腺は緩んでしまうほどなのだ。

「じゃあ、優先されちゃおうかな。アーデン君の気分転換も含めてね」

アーデンの言う気分転換はこちらを気遣って言ってくれたことだ。
さり気なくこちらからもアーデンを巻き添えにすれば、アーデンは微笑みながらnameの手を引いた。



◇◆◇


「外行く?」

目的地を決めずに部屋を出たふたりは手を繋ぎながら城内の廊下を歩いていた。
アーデンの大きな手の平に引かれながら歩くnameはゆるりと首を横に振る。

「中庭行こう。今日はとても天気がいいから、お日様が降り注いできっと気持ちが良いよ」
「わかった。nameの膝枕で昼寝だね」
「そこまで言ってないんだけどなぁ」

飛躍した要求に小さく微笑めば、アーデンからも笑い声が返ってくる。
けれどその後に続く言葉はなく、雰囲気が物語る。あ、これは昼寝コースなのだ、と。
己の膝が使われることは構わないのだが、気分転換が気分転換では無くなってしまう。
それからアーデンの勉学の時間も削られることになる。どうしたものだろうか。
うんうんと悩むname。
そんなnameの足取りは遅れ、そのうえ前方不注意で歩いていたとなると、徐に足を止めたアーデンの広い背に額をぶつけるのは当然とも言えることだった。

「ふぎゃ」
「あっ、ごめんname。大丈夫?」
「うん、だいじょぶ……」

額と鼻を押さえ込むnameの頬を包み込み、アーデンが覗き込んでくる。
過剰な心配に笑いながらひらひらと手を振れば、アーデンはぶつけたところを数度指先で撫でてもう一度ごめん、と謝ってきた。
これでは埒が明かない。いっそ意識を逸らしてしまえ、とnameはアーデンが立ち止まった理由を尋ねた。

「何か見つけでもしたの?」
「え?ああ、うん、えっと、……あれ」

nameの額を撫でていた指先が中庭を指す。
いつもの中庭だ。豊かな緑と色鮮やかな花が静かに太陽の光を浴びている。
だがその"いつも"の光景の中に違うものが見える。
ようく目を凝らす。
緑の絨毯の中を泳ぐ栗色の束。
それはひとの髪の毛のようにも見えた。というよりも。

「ひとが倒れてる」

ひとだ。
言葉にすれば現実味を帯びてくる。
どうして此処に、こんなところに。
疑問を挙げれば尽きないが、それでもひとが倒れているということに違いはない。
慌ててアーデンの横を通り過ぎ、倒れ伏すひとのもとへ走り寄る。
アーデンの引き止める声と腕が視界を過ぎったが、寸でのところでこちらには触れられず空を掻く。

中庭に足を踏み入れ、緑を踏む。
倒れる栗色のひとの傍に膝を着こうとしたところで後に続いていたアーデンに腕を取られ、その胸の中に掻き抱かれてしまった。

「name、不用心すぎ。何かあったらどうするのさ」
「何かあってるのはこのひとだよ。倒れてるんだよ、確かめなくちゃ」
「いやだからそれがまず怪しいんだってば」

腰を抱くアーデンの腕をぺしぺしと叩きながら解放を促す。
それでもアーデンはこちらのことを離そうとはせず、心なしか栗色のひとから物理的に距離を取っているような気がする。
何をそんなに怪しむことがある。ここはインソムニアの城内だ。不審者が入ろうとしたところで門前払いになるほどに強固な警備が施されている城なのだ。
だからここで倒れているのは城の関係者である可能性が高い。いやむしろそれしか考えられない。

「いつもの慎重なnameはどうしたのさ。まず怪しむでしょ」
「君は怪しまなかった」
「え?」

アーデンの腕をぎゅう、と握り、後ろを見上げる。
瞬く金茶色が呆けてnameを見つめていた。


「アーデン君は、私を助けてくれたよね」


十一年前。このイオスを訪れたあのとき。
自分はこの中庭に倒れていた。目が覚めてすぐ傍にいたのは子供のアーデンだった。
あのときと今とでは状況が違うかもしれない。けれど、今目の前で倒れているひとがあのときの自分と重なって見えてしまったのだ。

「きっと、すっごく怪しかったと思う。でもアーデン君は心配してくれて、私が起きるまで傍にいてくれたんだよね?」
「そう、だけど。あれはnameだったし、子供の俺と今の俺とじゃ用心の仕方が違うよ」
「わかってる。わかってるつもり、だよ。でも放っておくなんてできないの」

ただ昼寝をしていただけかもしれない。陽差しが心地よくてうたた寝をしているだけなのかもしれない。
本当は具合が悪くて倒れているのかもしれない。今すぐにでも助けが必要なのかもしれない。
緊急性は異なるものの、倒れている、という事実を目にしてしまった以上放っておくなんてできない。

「怪我してるかどうかだけでも確認させて」

頑なに離そうとしないアーデンをじっと見つめていれば、その形の良い眉をぎゅう、と顰めたアーデンは小さなため息をついた。
僅かに拘束が緩む。肯定の意思が感じ取れてnameはアーデンの腕を抜け出し、向き合った。

「もし急に起き上がって襲いかかってきたら」
「大丈夫、アーデン君に怪我はさせない。私がなんとかするよ」
「いやそれこっちの台詞なんだけど」

はああぁ、と深いため息をついて項垂れたアーデン。
それからやれやれ、とでも言うかのように首をゆるゆると横に振ったアーデンは、大股で栗色の髪の人物の所まで歩き出した。
先陣を切るかのような唐突さ。
慌ててアーデンの後を追う。これでは先程と立場が逆だ。

nameが追いつく頃にはアーデンはその傍らに片膝を着いていた。
アーデンの横に位置を落ち着けようとしたのだが、彼の手がそれを阻む。

「二歩、三歩離れてて」
「え、でも」
「中庭から出るほど離れてくれてもいいんだよ」

それはもはやこの人物を確認できない位置になってしまう。
渋々とアーデンの背後に回り、栗色の人物を覗き込むことにした。

緑の草を泳ぐ波がかった栗色の長い髪。
一本一本が絹のように滑らかで、触れればさぞかし指通りのよいことであろう。
後頭部には結び目が二つ。現代で言うところのハーフツイン、というものであろうか。
日本にいたときは女子学生がこの髪型で歩いていたような気がする。若い女子に多く見られたのだが、きっとブームのようなものだったのだろう。

アーデンの指先が栗色の髪の束を払い退ける。
現れたその顔貌に、nameは無意識に息を呑んだ。

きめ細かい白い肌に、薄らと色づく桜色の頬。唇は小さく、桃のように瑞々しく可愛らしい色をしている。
閉じられた双眸を縁取る長い睫。僅かに影が落ちる鼻の筋は通っていて、小さな顔にバランスよく収まっている。
顔の横で握られた手も白く、また、爪は桜貝のように美しい。
緑の上に伏す肢体もよく見れば悩ましい。
桜色の丈の短いワンピース。細く、美しい生足が生地から覗いており、少し身じろぎするだけでその全貌が露わになってしまうほど。

「……ケバい」

いけない、そこまで見る必要はなかった。
目の前に倒れているのが年若い女の子、それも美少女だと認識した途端、変な汗が出てきてしまう。
女優やアイドルだと言われるとすんなりと納得できてしまうほどに容姿の整った少女。
年は女子高生あたりだろうか。
同性とはいえじろじろと見ていては訴えられるかもしれない。けれどこれは必要なことなのだ。

脳内でひとり弁解をしているnameには、アーデンの少女の第一印象の呟きなど耳に届かなかった。

ぐ、っと意識を持ち直したnameはアーデン越しに少女を観察する。
顔色は悪くない。呼吸も正常。それから外傷もなければ発汗の様子もない。
寝ているだけ。そんな診断結果がでそうだ。

「意識が無いだけで辛そうにしているようには見えないね。よし、衛兵を呼んで対処させようそれがいい」
「え、ちょ、この子置いて行くの?」
「そうなるね。近くに衛兵はいないから暇そうなの見繕おう。行こ、name」
「待って待って決断が早すぎる」

若干早口で捲し立てるアーデン。
立ち上がり、nameの腕を引いて今にもこの場を去りそうなアーデンを、踏ん張ることで此処に留める。
アーデンからしてみれば大した抵抗にもなっていないのだが、それでも足を止めてくれるだけ有り難い。

「怪我してるかどうかだけでも確認したい、って言ったのはnameだよ。そしてその目的は達成された。はい、もう用はないね」
「だからって放置はないよ。ねえ、お城のひとなの?アーデン君の知っているひとじゃないの?」
「全く見覚えがないね。見覚えがあったとしても使用人の顔をひとつひとつ正確に覚えているわけじゃない。もういいだろ、さあ行こう」
「どうしてそんなに急ぐの、何か気になることでもあるの?」

アーデンはとても心優しい青年だ。少年時代から他者を思いやれる心根を持つ、優しい子。
そんなアーデンが倒れているひとを見つけて駆け出さないはずがない、助けないわけがない。
そう勝手に決めつけていた。そうであるはずだと信じて疑わなかった。
けれどこの少女を見つけてからアーデンはこの件に深く関わることを避ける言動と行動をとる。
この少女とアーデンが知り合いで、nameに知られるとまずい関係なのかと考えたりもしたのだが、アーデンの口からそれは無いと否定された。
となると、アーデンが本能的に関わるべきではないと判断したのか、それともnameをこの件に関わらせたくないのか。

腕を引くnameの真剣な眼差しを受け止めたアーデンは眉を下げ、nameの手をそっと取った。

「nameが面倒事や危ない事に巻き込まれる必要はないんだ。ただ俺の傍にいてくれればそれでいい」
「面倒事って……、ひとが倒れているのにそう言うの?」
「言うよ。でも誰が倒れててもそう言うわけじゃない。状況と場所と、あと俺の直感がこの子はなんか違うってそう言ってる」

前者でもあり、後者でもあった。
本能的に少女を避けるアーデン。そしてnameを関わらせたくないという思い。
アーデンの口ぶりからすると直感に頼る面のほうが大きいようだが、彼女の何がそうさせるのだろうか。
見た目はただの年若い少女だ。しかも大層な美少女である。
女性であるnameでさえ見惚れてしまうのだから、男性ならば誰しもが少女に手を差し伸べそうなもの。
けれどアーデンは頑なに少女を避けようとする。本当に不思議なことなのだ。

押し問答は平行線だ。
いいや、若干アーデンに押されつつある。
nameは医療の知識に浅く、また、アーデンも深くはない。
出来てせいぜい脈拍を測ることや意識の有無の確認程度だろう。
これ以上尽くせる手は無い。とすればあとは衛兵に引き渡し、医療班の手により少女の容態を確かめてもらうことしか出来ないわけで。

「わかった、兵士のひとに預けよう。だけど私は一応此処に残るよ」

結論が出た。少女を衛兵に預けるべきだと。
けれど衛兵を探しに行っている間に少女が目を覚ましたとしたら。
勝手な行動を取られないように見張っておく必要がある。
その理由もあるが、nameとしてはただ単に彼女が心配なだけだ。
目を覚ましたとき、自分が倒れていたと知ったら混乱に襲われることだろう。
そもそも倒れたという事が少女の意思によるものなのかすらわからないのだが、状況を説明できるひとが傍に控えていたほうがいい。
そう判断したnameの提案に、アーデンは首を横に振るだけだった。

「駄目だ。nameも一緒に行こう」
「その間にこの子が目を覚ましていたらどうするの」
「どうもしない。nameがひとりで残って危険に晒されなければそれでいいよ」
「……じゃあ私が兵士のひとを探してくる。だからアーデン君が」

nameの言葉がか細いうめき声によって遮られる。
その音の発生源は下方から。
言い合いをしているふたりの位置より下にあるものといえば倒れ伏す少女だけ。
瞳を瞬かせたnameは慌てて少女を見た。


「ん、んー……?あれ、あたし……」


上体を起こし、ぼんやりとした表情で目元を擦る少女がそこにいた。
寝てても美少女、起きても美少女。
美しい声を鈴を転がすような声、と形容することがあるが少女の声音はまさにそれで。
瞬かせる大きな瞳も声も何もかもが可憐で、見惚れていたnameは僅かに挙動を止めていたが、はっとして少女の目の前に膝をついた。

「大丈夫?具合の悪いところ、ない?」
「は?いきなりなに……」

未だ寝ぼけている様子の少女を伺うようにそっと覗き込む。
少女の大きな瞳と視線が合い、改めてその恵まれた容姿を直視することになる。
可愛らしい。けれど見惚れて目的を見失うわけにはいかない。

体調を問いかけるnameの質問に少女は怪訝な様子で眉を少しばかり顰める。
それもそうだろう。目が覚めたときに見も知らぬ赤の他人が傍にいたとなれば警戒して当然だ。
少女を安心させようとなるべく朗らかに頬笑んでみせる。

「あのね、あなたは此処に倒れていて」
「……うっそぉ」
「嘘じゃなくて、ええと」

少女の先程までの現状を簡潔に伝えると呆気にとられたかのような返答が向けられる。
決して嘘ではなく真実なのだということを説明しようと少女に目を向けるのだが、少女はこちらを少したりとも見てはいなかった。
膝をつくnameの背中越しを見上げる少女。
その瞳はまん丸に見開かれていて、小さな口はぽかん、と開いていた。
背後に何があるというのだろう。いるのはアーデンだけだ。
アーデンを見て何をそんなに驚くことがあるというのだろうか。
小首を傾げたnameはなんとか少女の気を引くことができるよう、さり気なく彼女の視界に入る努力をした。


「あの」
「アーデンさん!?本物!?」


が、少女の細腕に突き飛ばされて体勢を崩してしまった。
あまりにも突然な出来事にnameは為す術無く跳ね飛ばされ、ぺしょり、と芝生に腕をつく。
怪我をするほどの強さではない。ただ急だったため受け身も何もとれなかった。

「若い!?なんで!?おじさんじゃないの!?」
「ねぇ、ちょっと君さ」

きゃあきゃあとはしゃぐ少女にまとわりつかれるアーデンの不機嫌な声が背後から聞こえてきた。
そちらを振り返れば案の定、アーデンは酷く眉を顰めて少女を睨み付けるようにして見ていた。
不機嫌なアーデンを見たことがないわけではない。けれどこの表情は今まで見てきたアーデンのそれよりもずっと怖い顔をしている。
初対面とはいえ女の子に対してその顔はないだろう。
少女はアーデンの鋭い眼光に怯むかと思われたがそんな様子は微塵もなく、アーデンに近づきその顔、それから身体を頭の天辺からつま先までなめ回すように見てはしゃいでいた。
なるほど、自分の身体をじろじろと見られればそれは不機嫌にもなるだろう。

さて、これはどういう状況なのか。
どのようにしてこの場を収めるか思案するnameの耳に草を踏む音が届いた。


「え、nameさん?何故倒れているのです、大丈夫ですか?」
「ソムヌス君」


顔を上げればぎょっ、としたように目を見開いたソムヌスが早足でこちらに駆け寄って来ていた。
そして滑り込むようにしてnameの傍らに膝をつき、その手を差し出す。
ありがとう、と言いながらその手を借りて上体を起こせば、ソムヌスは怪我がないかどうか確かめるためにnameの手を取ったまま腕から肩、それから膝元まで観察し始めた。
手早く済まされたそれに大丈夫だから、それよりも、という意味を込めて視線を背後に促すと、ソムヌスは繰り広げられる一方的な会話に僅かに首を傾げた。

「髭の無いアーデンさんも素敵!っていうか格好良すぎる!若くてもおじさんでも格好良いってすごい!」
「いい加減にしなよ、君、何したかわかってるの」
「やだ!声もそのまま!渋くないけど格好良い!」
「……あの、状況がよく呑み込めないので教えて頂いても?」
「いやぁ、うん、私も説明できるほどじゃなくて」

目の前の賑やかな声を聞きながら手短に経緯を説明する。
中庭に少女が倒れていた。起きたと思ったら元気だった。
ただそれだけしか持ち得ない情報をソムヌスに伝えればやはり彼は怪訝な表情をしていた。
この様子だとソムヌスも少女について知るところがないのだろう。
元気そうではあるが、やはり衛兵に引き渡して身元を特定してもらったほうがよいのだろうか。

「とりあえず場所を移して彼女の話を聞いてみましょうか」
「うん、そうだね。そうしたいんだけど、彼女の、その、なんていうか熱量が。アーデン君が困るほどって相当だね」
「困るというより、何したんですか彼女。兄上お怒りじゃないですか」
「一方的に言い寄られるのが嫌なのかもしれないね。彼女のこと知らないみたいだし、それもあるのかも」
「いえ、兄上があんなにもわかりやすく怒りを露わにするのはnameさん関連がほとんどで……、ああ、nameさんが倒れていたのはそういうことか、だから、なるほど」
「ソムヌス君?」

ソムヌスが僅かに瞳を細める。
蒼色の奥に秘められた冷たい眼差しが向く先は少女で、わけがわからずnameは首を傾げてソムヌスを覗き込んだ。
途端、冷たさの無いあたたかな眼差しがこちらに向けられる。
スイッチが切り替わったかのようなその差に瞳を瞬かせるが、ソムヌスは静かに微笑むだけだった。
そしてnameの手を取り立ち上がらせる。
ソムヌスはもう一度怪我がないかどうか確かめるかのようにnameの身体を見やり、傷ひとつないことを確認すると安心したように小さく頬笑んでそれからアーデンを呼んだ。

「兄上、一度場所を移しましょう」
「ソムヌス」
「ソム……、兄上って、ええ!?ソムヌスまで!?高校生のノクトそっくりじゃない!」

がばっ、とこちらを勢いよく振り返る少女。
ハーフツインテールの髪の靡きまでもが美しく、ほう、と感嘆の息を漏らすname。
少女が発した"高校生のノクト"というものが何を指すものなのかわからないのだが、とりあえず重要な情報ではなさそうだ。
少女の視線は射貫くかのようにソムヌスに向けられており、傍らに立つnameなど眼中にも無い様子だった。

「すぐそこの空き部屋なら広さも十分ですし、椅子もあります。参りましょう」
「ああ、わかった」
「きゃあああこれって逆ハーになる!?なっちゃう!?なにこれ最高だわ!」

大きなため息をついたアーデンはそそくさと少女の近くから離れ、こちらに早足で歩み寄ってきた。
未だひとりではしゃぎ続ける少女などこの場に存在しないかのように彼女に背を向け、nameを見下ろすアーデン。
行かないの?
そんな意味を込めてアーデンを見上げれば、アーデンはnameの身体をぺたぺたと触りだした。
腕、頬、背。されるがままだったnameがその行動に疑問を浮かべれば、何を納得したのか、アーデンは小さく息をついた。

「ごめんね、name」
「ん?なに、なんで謝るの?」
「守れなかったから」

何を守るというのだろうか。それこそ意味がわからず呆然とアーデンを見上げていたが、少女がソムヌスの周りをぐるぐると回ってはしゃぐ声に場が乱される。
ぐしゃり、とまた表情を歪めたアーデンの眉間をこつこつ、と指先で突けば呆けた表情が向けられた。
好かれて大変だね。言葉なくにっこり微笑めば、アーデンは肩の力が抜けたかのように柔らかく笑い返した。




◇◆◇




「まずはあなたが何者か、それから何故あの場にいたのかをお伺いしてもよろしいでしょうか」

中庭と同じ階層にある空き部屋の一室。
以前はちょっとした会議室の用途で使用されていたそこは今も尚すぐに使うことができるように整えられていた。
机と椅子が部屋の隅に置かれていたが、質の良いソファとローテーブルはそのまま部屋の中央に置いてある。
少女をソファに座らせ、その向かいにはソムヌスが。
それからソムヌスの背後で少女の視界から離れるようにして座らされたnameの隣には、アーデンが長い脚と腕を組んで少しばかり眉を顰めながらふたりの会話を聞いていた。

心なしかアーデンとソムヌスの纏う空気が鋭いような気がする。
見知らぬ少女を警戒しているのだろうか。
けれど少女はふたりの微かな圧をものともせず、その丸い瞳をずっときらきらと輝かせていた。

「あたしは雛野姫乃。十七歳で血液型はAB型。誕生日は三月三日。桃の節句よ、素敵でしょ?」
「訊いてもいないことを教えて下さりありがとうございます。ヒナノさんですね」
「名前で呼んで……、ってああ、そっか、こっちでは外国扱いなんだった。姫乃、姫乃って呼んで」
「はあ、わかりました、ヒメノさんですね」
「ソムヌスに名前を呼ばれた……!夢みたい!」

ソムヌスの声色が聞いたことのないほどに重い。
相手をするのが面倒そうな雰囲気を仄かに感じる。
よくわからないけど私が対応しようか。そう思い自分を指さしながらアーデンを見上げれば静かに首を横に振られるだけだった。

「では次にあなたがあそこにいた理由を。お尋ねしたこと以外は結構です」
「あたしは一万人目のアリスなの!」
「……は?」
「はあ?」

間髪入れずにソムヌスの質問とは掛け離れた答えがヒメノから放たれる。
途端、ソムヌスは大層不快そうな声をあげ、アーデンもまた呆れたようにため息をついた。
ふたりのあんまりな態度に小さく苦笑いを零すnameだが、ヒメノの回答はあまりにも突拍子もなかった。

アリスは外国の童話に出てくる少女の名だ。
日本でも親しまれ、誰もが知るおとぎ話。アリスが白ウサギを追って不思議の世界を旅するというもの。
イオスで童話関連の書物に触れる機会がなかったのだが、この世界にもアリスを模した何かがあったというのだろうか。
結局のところ、ヒメノが自身を指すアリスがなんなのか見当もつかないのだが。

「あたしの大好きな夢サイトのキリ番が、あたしで丁度一万だったの!『おかえり、一万人目のアリス』って文字が映ったときは運命を感じたわ!」
「きりばん……?」
「その日もいい夢を読ませてもらおうと思ってDreamのボタンを押したのよ。そうしたらスマホの画面が真っ暗になって!」
「どり?はあ……?」
「『一万人目のアリス、君の行きたい世界を教えておくれ。僕がアリスの望みを叶えてあげるよ』って文字が出てきたの。今までそんなことなかったのに」

顔が見えずともソムヌスの困惑具合がその背から伝わってくるようだ。
ヒメノの捲し立てるような説明についていけていないのが察せられる。
アーデンはアーデンで話を聞いているのかいないのか、nameの右手を弄ぶように撫で回し始めた。
あ、これはほとんど聞いていないな。
そう察知したnameがアーデンの太ももを小突く。

「キリ番踏んだ特殊演出かなって思ったのよ。トリップなんて出来るわけないけど、せっかくだし大好きなFF15を選んだの」

トリップとはなんのことだろうか。
小旅行的なことを言う時にその言葉を用いることもあるのだろうが、如何せんnameはこれまでの人生でその言葉を使ったことがない。
日本にいたときに古くからの友人が何やらその言葉を使っていた記憶が薄らとあるが、内容までは思い出せなかった。
"えふえふじゅうご"という単語も謎だ。何かの暗号なのだろうか。

「そうしたら一気に眠気が襲ってきたの。目を開けたら此処ってわけ!信じられない!本当にトリップできるなんて!しかも大好きなアーデンさんに早速会えた!やっぱりあたしは選ばれたアリスで、ヒロインなのよ!」

大好きなアーデンさん。
美少女からの唐突かつ熱烈な告白。ヒメノが熱に浮かされたようにうっとりとアーデンを見つめ続ける。
その表情たるや世の中の男を虜にさせてしまえるのではないかと思う程に妖艶だ。
これはアーデンもどきどきせざるを得ないだろう。そう思い横目で見上げたnameの視界に映るのは酷く顔を歪めたアーデンの姿だった。
非常に不機嫌そうである。これを照れている、と解釈するのは難しい。

「すみません、全く話が見えません」
「あたしはあなた達のことを何でも知ってるのよ!本編は百時間越えまでプレイしてるし、それからDLCも全部やったわ!エピソードアーデンは特にやり込んだの!あれ、そういえばアーデンさん三十三歳の姿じゃないってことはエイラは?ねえエイラはいる?」
「……兄上」
「エイラって、ひと?知らない」
「エイラいないの?やったわ!これであたしがヒロインになれる!まあ、いても蹴落とすだけだけど!」

ヒメノの早口が止まることを知らない。
ヒメノの質問に回答を放棄したソムヌスがこちらを振り返り困ったような視線を投げかけてくる。
流石に哀れに感じたのか、簡潔に短く答えるアーデン。
その素っ気なさを気にすること無く、ヒメノはエイラという人物の不在に喜びを露わにした。

「あなたが質問に答えられない方だということはわかりました。ですがこれだけはお訊きしたい。何故僕と兄上のことを知ったように話すのです?」
「僕?ソムヌスの一人称って俺じゃなかった?本編にない年代だから昔はこうだったのかなぁ。あぁえっと、あたしがアーデンさんやソムヌスのことを知っているのは当たり前よ。だってあなた達はゲームの……」

勢いのよかったヒメノの口が何かに縫われたかのように急に閉じられる。
沈黙。久方ぶりの静寂。
小首を傾げたソムヌスにつられるかのようにnameも首を傾げてヒメノの姿を眺めていた。

「いっけない、これ以上は言えないわ。夢から覚めちゃう」
「あの?」
「あたしはあなた達のことならなんでも知ってるし、わかるの。でもその理由は言えないわ」
「はあ、ですが僕達の名前はご存じなのですよね」
「勿論よ!アーデン・ルシス・チェラムにソムヌス・ルシス・チェラム。昔は仲の良い兄弟だったんでしょ、って今が昔扱いなんだったっけ」

ひとりひとり指さしながらフルネームを口にするヒメノ。
ひとを指さしてはいけません、と注意してやりたかったのだが、ふたりを順にさした指がnameに向けられる。
初めて会ったとき以来、視線が交差する。
ようやく存在を認知したかのような怪訝な表情。
ときり、と胸が跳ねたが顔に出すこと無く瞳を瞬かせていれば、ヒメノはnameを指さしたまま首を傾げた。

「あなた誰?」
「あ、私はnameです」



それから呟かれた言葉を、nameは聞き逃さなかった。



「name?こんな地味な日本人顔のキャラなんていなかったけど……」



聞き慣れた言葉。親しみの深い言葉。
この世界に来てから他人の口から一音として聞くことのなかった言葉が、今この場で発せられた。

彼女はもうnameへの興味が失せてしまったのか、視線はアーデンとそれからソムヌスへ向けられる。
けれどnameの見開かれた瞳は今も尚ヒメノを凝視していた。


日本人。


この世界で絶対に聞くことのなかった言葉。それを聞いただけで彼女のこれまでの突拍子も無い話が全て真実であるような錯覚を覚える。
事実、錯覚なのではないのかもしれない。
あの中庭で倒れていたこと。それはname自身がこの世界に初めて来た状況に酷似している。
そしてヒメノの携帯端末が表示した『君が行きたい世界』という文字列。
トリップという言葉が世界を越える意味合いを含んでいるものなのだとしたら。

ヒメノは、いや、姫乃はもしかして。

確証はない。証拠も何もないのだけれど、姫乃が発した『日本人』という言葉はそれだけnameの心を強く揺さぶった。
もっと詳しく姫乃の境遇を聞きたい。
妄言や虚言とも受け取れる彼女の言葉を真実としてもう一度聞き取る必要が、nameにはあった。


「姫乃はこの世界で一番愛される女の子なの。可愛くて、か弱くて、みんなから求められるのよ!」

さあ、あたしを愛しなさい。
そう言わんばかりに大口を叩き、うっとりと頬を染める姫乃。
アーデンもソムヌスも、彼女にかける言葉はなく、もはや興味の一欠片もなさげにうんざりとした様子で姫乃を見ていた。
けれど唯一nameだけは違った。
彼女のことが知りたい。彼女のことを知るべきだ。できることならばふたりで話をさせてもらいたかった。
姫乃への関心が尽きないnameは状況を変えようと口を開く。
けれど寸でのところでソムヌスが言葉を発するほうが早かった。

「そうですか、では話は終わりです。どうぞ家までお帰りください。ああ、兵に城の外まで送らせますね」

ソファから腰を上げるソムヌス。
それからアーデンも立ち上がり、同時にnameの腕を引く。
つられるようにして退室を促されるnameは困惑気味にアーデンに問いかけた。

「え、彼女どうするの」
「帰って貰うよ。付き合いきれないし、結局どこの誰か、どうしてあそこに倒れていたかもわからないしね」

ひとり取り残されようとしている現状に気がついたのか、姫乃が慌てたように立ち上がりこちらに詰め寄ってくる。
アーデンとnameへの接近を阻むようにソムヌスがさり気なく立ち塞がれば、姫乃は捲し立てるように詰め寄った。

「なんで?あたしをひとりにしようっての?あたしは物語の主人公なのよ?」
「あなたが何者かわからない、それからどのような経緯であの場にいたのかお答え頂けませんので、これ以上の質問及び話し合いは無駄だと思うのですが、如何ですか」
「あたしはトリップして来たって言ったでしょ!名前だって教えたじゃない!」

確かに姫乃は最低限の身の内を明かした。
それからあの場に、この世界に訪れた経緯も。
けれどそれらは妄言として捉えるに相応しいもので。
彼女の話を最初から信用していないアーデンとソムヌスにとっては無価値にして意味のないものなのだと判断したのだろう。

しかしnameは彼女の言葉を真実として捉えている。
最初こそ疑って掛かっていたものの、親しみ深い言葉を彼女から聞いたことで明確な確信に変わりつつあったから。

「あたしを此処に住まわせてくれるんじゃ無いの?主人公なんだから当然でしょう!」
「何を言っているのかわかりません。図々しいにもほどがありますね。お引き取りください」
「追い出すって言うの!?信じられない!トリップしてきたあたしに行き場なんてあるわけないじゃない!」

縋るようにソムヌスの腕を掴む姫乃の手を、ソムヌスがぞんざいな動作で振り払う。
途端、溌剌としていた姫乃の表情が曇り、形の良い唇をぎゅう、と噛み締め俯いた。
その姿があまりにも可哀想で。


アーデンと出会わなかった自分の姿と重なって見えて。


知らない世界。右も左もわからない世界。
姫乃にとってはよく知る様子の世界だが、nameにとっては正にまっさらな世界だった。
此処が何処であるかもわからない。自分の置かれた状況すらもわからない。
そんななかアーデンに出会い、導かれた。
奇跡のような出会い。あの時あの場所で見つけてくれた運命のような出会い。
それがなかったら、きっとこの城を追い出されていた。
不審者として、侵入者として命を奪われていたかもしれない。

姫乃に行き場など、帰る家などこの世界にあるはずもない。
彼女の言葉を真実とするのなら、姫乃はnameと同じ、異世界の住民なのだから。
日本。同郷の人間。

彼女と同調する気持ちが一気に高まる。
異世界の人間しかいないイオスにおいて、初めて出会えた同じ世界の人間。
たったそれだけで彼女に歩み寄る理由には事足りる。


「name?」


アーデンの服の裾を引く。
姫乃に向けられていた冷ややかな視線がnameに向けられた途端いつもの色に変わる。
なに?と尋ねるような視線の先、ソムヌスもこちらを振り返っていた。


「姫乃ちゃん、此処に居させてあげられないかな」


ふたりが目を見開く。
こんなこと言い出すとは欠片も思っていなかったのだろう。
ふたりの驚きようはそれはそれは大きかった。

「何言ってるの。今までの話の流れ、聞いていたし見てたでしょ」
「うん。でも、このまま追い返すのは、ちょっと。ねえ姫乃ちゃん、あなた帰る家はあるの?」

無いでしょ?だって異世界から来たんだもの。
返ってくる答えはわかっている。けれどそれを見せずに姫乃に問いかければ、彼女は首を横に振った。

「nameさん、彼女は信用に値しません。家が無いことだって怪しいですし虚言だ」
「そう思わせるような言い方をしているのは事実かもしれない。だけど、私は彼女の言っていることを信じたいって思うの」

きっと本当のことだから。
姫乃には聞きたいことがたくさんある。ここで放り出してしまっては次にいつ会えるかわかったものではない。
それに追い出されたところで彼女に行く宛がないのはわかっている。
ならば少しの間だけでも彼女を此処に置いてやって欲しかった。
自分の家ではない。こちらだって居候のような身だ。
図々しい。なんて我が儘なことだろう。
けれどどうしても、此処で姫乃と離されることも、彼女を孤独にさせることもしたくはなかった。

「駄目だよ、彼女は怪しすぎる。いくらnameの頼みでもそれは」
「私もじゅうぶん怪しかったでしょう」

姫乃と同じく中庭に倒れていた。
まだ幼かったアーデンに見つけられて、現国王であるダリスに謁見が叶い、そこで危機に直面しながらもこの世界の神に近しい存在に身元を保証された。

「nameは従使だ。二十四使が証明した」
「でも証明されていなかったら?今のアーデン君があのときの私を見つけたら、同じように導いてくれてた?」

本当は従使でもなんでもない、ただの異世界人だ。
それを偽って、全てを騙してまで図々しくこの城に居座っている。
これは幼いアーデンと出会えたために保証された生活だ。
世界を知らない、疑うことを知らない幼いアーデンだったからこそ、無垢なままnameを導いた。
けれどアーデンが青年だったならば。
きっと姫乃と同じようにnameを扱ったはずだ。
疑わしいと。信用するに値しないと。
ソムヌスだって、きっと。


「nameがnameである限り、俺はあのときのようにnameを導くよ」


しかしアーデンの言葉はnameが想像していたものとは違った。
疑わず、無垢なまま導いてくれるのだと、はっきりと言い放つ。
姫乃と境遇は一致している。それなのにまるっきり対応が違うことにnameは納得がいかなかった。

「だったら姫乃ちゃんも」
「彼女とnameは違う。全く、すべて、何から何まで。俺はnameだからああしたんだよ」

握られる手に力が込められる。
視界の隅でソムヌスが力強く頷く姿が映るが、風向きはよくなかった。

姫乃とnameは全くの別人であり、違う個である。
それは当然であり、nameの理解も十分に及んでいる。
だが求めているのは比較ではなく姫乃の立場をnameに置き換えたときの回答だ。
姫乃の境遇をそっくりnameに置き換えたところでnameに対しての対応も丸々変化することに気がついて欲しかったのだが、彼の、彼らの答えは変わらない。

姫乃と置き換えても、彼らはnameをnameとして見続ける。

nameだから。nameだったから。
このような場でなければそんな特別扱いにも似た優遇が少しは嬉しく感じられたのだろうが、今は唯々居心地が悪かった。

刺さる視線。
姫乃の睨み付けるような眼差し。
それはこの先の展開を不安に思っているからなのだろうか。それとも。

何にせよ彼らには彼女の存在を認めさせなければならない。
name自身のためにも。行き場のない姫乃のためにも。



「アーデン君とソムヌス君が姫乃ちゃんに対しての認識を改めないことはわかった」
「name」
「だったら、彼女は私の客人としてこの城に滞在してもらいます」

アーデンの安堵の表情が一気に曇る。
困惑するソムヌスの視線もひしひしと感じるが、どうしたって後に退くわけにはいかなかった。

「nameそれは」
「従使としての立場がある私の客人なら、ちゃんとした理由になるでしょう」
「認められません。nameさんは彼女のことを理解しておられない」
「それはアーデン君とソムヌス君も同じでしょ。だから話すの、同じ時間を過ごすの。私と君達のように」

短い時間で相手のことを深くまで理解できるのはその分野に秀でた者達くらいだ。
心理学者、カウンセラー。相手の心理を見抜くプロならば、容易にその心の距離を詰められるだろう。
でもnameは違う。アーデンも、それからソムヌスも。
相手のことを知らずゼロから始めなければならないとき、その心の距離を一気に縮めるのは不可能だ。
だから時間をかける。だから言葉を交わす。
積み重ねていく経験が、同じ時を過ごす過程が、自分と他人との相互理解を深める唯一の手段だから。

「彼女のことを信じられないことも、何処の誰かもわからないことも、理解してるよ。それでも、どうかお願い。私は姫乃ちゃんを放っておけない」

偽りの従使である立場を、城の滞在理由以外に振りかざすことはなかった。
それを今こうして盾にすること。後ろめたさは勿論あるのだが、姫乃が滞在する理由のためならばnameは利用することができた。

納得のいかない様子のアーデンが言葉に詰まっている。
それからソムヌスも顎に手を当て、眉間に皺を寄せて思案している。
ふたりを困らせてしまっている事実が申し訳ない。
でも、これはnameにしかできないことなのだ。

「彼女が起こす行動、それから言動は全てnameさんの責任となってしまう」
「わかってる、何か問題があれば私が責任を取るよ。いざとなれば城を出ることだって」
「それはさせない。絶対に、何があっても」

責任の取り方。それが城を出ることで償えることなのかは、今のnameにはわからない。
差し出せるものが何もない以上それしか考えられなかったのだが、アーデンの力強い否定に奪われる。

急にアーデンが強くnameの手を引く。
ぐ、っと近づくアーデンの表情が怒気に満ちていて、一瞬nameは身を引いた。
けれど表情こそ怒りのものだが、こちらの身を案じているかのような瞳の色をしている。
垣間見えるその優しさに小さくありがとう、と呟くと、アーデンは困ったように微笑みながらnameの手を解放した。

「ねえ、君」

君。アーデンの指す人物はこの場でひとりしかいない。
ゆっくりと振り向いた先には姫乃が眉を顰めながらこちらを凝視しており、アーデンが自分を見ていると意識したのか、姫乃の表情は明るさを取り戻した。

「nameに免じて滞在を許可してあげる。ただ、変な行動をしたら、……わかってるよね」

驚くくらいに冷たい声だ。
向けられたことのない声色にnameは息を呑むが、姫乃はものともしていない様子。
それどころか滞在の許可の喜びを隠しもしない。

「兄上、よろしいのですか」

姫乃の様子を呆れたように横目で見るソムヌスが小声でアーデンに話しかける。
アーデンと同じくらいソムヌスも姫乃のことを快く思っていない。
兄とはいえその判断に不満があるのか、その表情は芳しくなかった。

「nameのお願いだし、大目に見るよ。でも許さないし、監視もする」
「心得ました。そのように手配致します」

兄弟の会話が何やら不穏だ。
アーデンの言う「許さない」ことが何を指すのかもわからない。
姫乃に不愉快な感情を抱いている様子とはいえ、何か決定的な悪行をされたのだろうか。
同じ時間だけ姫乃を見ているはずなのに、そんな場面は無かったはずだ。

うんうんと悩むname。
けれどこれから元の世界について姫乃から訊き出すことを思えば、そんな悩みなどすぐに片隅に追いやられてしまうのであった。


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