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 修学旅行も二日目が終わろうとしていた。初日は移動からクラスごとに史蹟名勝を巡った。今日と明日は5、6人ほどの班で回る。男女別れた班もあれば、合同の班もある。あれ以来本当にみょうじからアプローチを受けることがなくなった。学校でもそうだったし、今回の修学旅行でもそうだった。何かと俺に報告をしにくることがあり、それで二人きりになったとしても以前のような会話はなく、ただただ世間話というかクラスの生徒(彼女にとっては同級生)の話をするにとどまっていた。
 大浴場の使用はクラスごとに時間が区切られている。入り口の前で待ち、でてくる生徒に「あと何人くらい残ってる」と声をかけながら、時間が迫ってくるのがわかると急かしてくるように言う。何もしないというのも暇なので卓球台ではしゃぐ男子生徒を眺めながらマッサージチェアに座って小銭を入れる。

「先生、うちのクラスが最後です。みんなでました」
「あ〜、わかった」
「男子の方も終わったか聞いてきます」

 卓球をしている男子生徒に話しかけに行った。びっくりしながらもみょうじに話しかけられてそわそわする男子生徒たち。ほらみろ。ガキども、みょうじはいい女だからな、頑張れ。心の中で謎の応援をしながらも、話しかけられた生徒が男子風呂に入って行った。戻って来てみょうじに報告する。いや、そこは俺に言えばいいんじゃないのか。お礼を言われたのか嬉しそうにしていた。

「先生がマッサージチェアから離れたくなさそうだったので聞いてきましたよ」
「はいはい、どうも」
「お風呂からはみんな上がっていて、着替えているのが5人だそうです」
「ありがとう」

 さっきの男子生徒か、と思ってしまうくらい嬉しそうな顔をするみょうじを見てつい笑ってしまった。これでは大人に褒められたと嬉しそうに笑う子供だ。無邪気なものだ。以前よりも素直になってくれていると受け取っていいのだろうか。

「何笑ってるんですか」
「いや。コーヒー牛乳でも飲むか」
「え、あ、いいです」
「一本くらい買ってやるよ。俺も飲む」

 妙に遠慮するんだよな。マッサージチェアの動きが止まったので椅子から立ち上がり自販機の前まで来るとフルーツ牛乳、コーヒー牛乳、イチゴ牛乳が売っていた。コーヒー牛乳がいいということだったので2本買って近くの長椅子に腰掛けた。「いただきます」と頭を下げられた。礼儀正しいな。育ちがいいのだろう。
「クラスの全員分はさすがに奢れないから、黙っててくれよ」
「はい。内緒ですね」
「頼むぞ」
「先生の隣でコーヒー牛乳が飲めて、いい思い出になりました」
「大げさだな」

 大事そうにコーヒー牛乳の瓶を両手で包んでちびちびと飲んでいた。そんなことしなくても学校の自販機でパックの飲料くらい買ってやるのに。「先生、ご馳走さまです」と先ほどと同じように心の底から嬉しそうに笑った。こんな無邪気な表情を向けられても心が痛むだけだということをわからないんだろうな。きっと俺のことを立派な大人だと信じてやまないのだ、この子は。まっすぐに好意を向けてくる、くすぐったい愛情が、笑顔がこんなにも眩しいなんて俺は知りたくなかった。

「先生、ありがとうございます」
「どうした、たったコーヒー牛乳1本100円ちょっとだ」
「先生から買ってもらったっていうのが重要なんです」
「だから、大げさだ」
「だって本当に嬉しかったんです」
「安いなぁ」

 空き瓶も大事そうに持って眺めている。もうだいぶ夜も更けてきた。教員は特に大浴場の使用時間などは決まっていないが、消灯時間に各部屋を回らなければいけない。みょうじも部屋に戻した方がいいだろう。もうとっくに飲み終わった自分の分の空き瓶と一緒に空き瓶回収箱へ戻そうと取り上げると心底残念そうにこちらを見上げて来る。大事なおもちゃを取り上げられた子供のような。

「もう飲み終わったんだろう」
「……はい」
「そろそろ部屋に戻りなさい」

 あまりに悲しそうにするものだから、耐えきれずにみょうじの顔を見ないようにしてその場を後にした。部屋に戻ってタオルと下着を持ち、旅館で用意してくれた浴衣に着替えて再び大浴場へ向かった。同僚の先生方が風呂から上がっていく中、久々の広い風呂を堪能する。やはり風呂はいいものだ。
 ぼんやりとみょうじの悲しげな表情を思い出す。あんなにも表情のよく変わる生徒だっただろうか。修学旅行ではしゃいでいるのかもしれない。いつもきりっとした真面目な様子か、少しからかって楽しそうに冗談を言うような様子しか思い浮かばない。もしかして今までよく見ていなかったのかもしれない。注意しなくてもこちらに来てくれていたから。それでは今は十分に気にかけているようじゃないか。ハッとした。