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 遅くても10分くらいで片付くだろうと思っていた作業だったが、文言ひとつとっても体裁ひとつ見ても、どうも気に入らなかったので手直しをしまくっていたら30分もかけてしまっていた。諦めて明日やればよかったなと今更になって後悔する。通いなれたお店だし、先に始めててと言ってあるので特に連絡もせずにとりあえずお店に向かうのを最優先にすることにした。

「いらっしゃい」

 大将が笑顔で出迎えてくれた。お連れ様がお待ちだよ、といつもの席に通された。カバンを肩からおろしジャケットを脱いで席に着くとすぐさまおしぼりを渡される。月島くんがやや乱暴にお猪口に日本酒を注いでドンッと目の前に置いてきた。

「遅かったな」
「直してたら、どんどん気になってきて、見つけて直してをやっていったらキリがなくて」
「変なところ凝り性だよな。だいたい雑なのに」
「ひどい言い方だなあ」
「洗濯干すときハンガーの向きバラバラだろ」
「別に干せればいいもん」
「取り込むとき一気にいけないだろ」

 一理ある。たしかに結構時間がかかる作業で憂鬱なのだ。なるほどハンガーをかける時点で少し気にしていれば後々の作業が楽になるのか。納得して頷いていると「なんなら俺が洗濯物やってやってもいいぞ」と言い出すので「お願いしたいかも」と何も考えずに口に出してしまった。ちょっと待って、どうして私の洗濯物を月島くんが干したり取り込んだり畳んだりすることになるの。

「ちょ、ちょちょちょ、」
「なんだ」
「話が飛躍しすぎる。なんで月島くんに私が洗濯物お願いする流れなの」
「冗談だ」
「冗談っていうタイミングがおかしいでしょうよ」

 大将がびっくりした顔をして「ついに結婚か!めでたい!」と言い出す始末。何もかもペースを月島くんにもっていかれている気がする。さっきもフロアに私しかいなかったとはいえ社内で、しかも会社の電話だっていうのに『好き』とか『会いたい』とか平気で言ってしまったし、それに対して月島くんも優しい声で『知ってる』とか『俺に会いたいだろ』とか言うんだもんなあ。調子狂うよ。今まで振り向いてくれなかったのがお決まりだったのが、途端に月島くんから猛攻を受けている。防御力すらすべて攻撃力に全振りしていたからなんの対策もとれずに真正面からダメージがくる。こんなことになるなんて思ってもみなかったんだもん。

「どうしよう」
「どうした?」
「どうしようもなく月島くんが好きだ…って思ったらなんかちょっと、むずむず?そわそわ?ざわざわ?してきた」
「恐ろしく抽象的だな」

 だって本当なんだもの。落ち着かない。隣に座っているだけで月島くん側の身体の側面がじわじわ熱くなってくる気がする。彼の立派な筋肉の放射エネルギーのせいもあるとは思うけれど。突然がしっと腕を掴まれる。「ヒエッ」と変な声がでてしまった。「変な声出すなよ」と朗らかに笑っている月島くんに「なに」とびくびくしながら聞いてみると「掴んでみただけ」とアホらしい答えが返ってきた。そんな、いたずら成功!みたいなかわいい顔するなんて。年相応というか、いや不相応なんだけど、少年みたいでかわいい。(とはいえ同い年だし変な感じ)

「ね、あのさ」
「なんだ」
「今日はさ、タクシー一緒に乗って家に帰りたい」
「…ん、いいぞ」
「あ!私の家の前で下ろして自分は自分の家に帰るとかそういうのじゃないからね!!」
「さすがにこの雰囲気で、ここまでしてて、そんなことしない」
「…あ、うん、はは、じょうだん」

 以前タクシーに一人押し込められてドアを閉められたこと、恨んでいる。忘れることなどない。「ほんとかなあ」と茶化そうとしたのだけれど未だに私の腕を握っている月島くんの掌が思ったよりも熱くて、こちらを見ている月島くんの顔が思ったよりも真剣だったからびっくりしてしまったのだ。勢いをなくした私の口から乾いた笑い声がこぼれた。
 今までフラれても冷たくあしらわれても、また駄目だったかあと笑ってごまかせていたことが誤魔化せなくなる。関係性が変化するって怖いことでもあるのだと今になって怖くなってきてしまった。

「そんな顔するな」
「ヘラヘラしてた?」
「違う。情けない顔だ。初めて部長以上の人がいる前でプレゼンすることになった日の会議室の前でみた顔」
「よく覚えてるね。あの頃胃炎になって大変だったんだよ」
「見舞いに行くって言ったのに断られた」
「えっ、そうだっけ」
「そうだ」

 思い返してみれば、そうかもしれない。月島くんにすっぴん見られたくないし、プレゼン作るのにいっぱいいっぱいで部屋がとてつもなく散らかっていたのだ。ゴミ出しもしてなかったし、ワイシャツやらストッキングやら何もかもが散乱していて汚かった。へへ、と思い出話に苦笑いしながらも「そんなこともあったっけ」と話を逸らす。なんか思ったよりあんまりうまく話せないしどきどきしてしんどい。
大将が「そろそろ閉店の準備してもいいかい?まだ居ていいけど」と言って外に出て行った。暖簾を片付けたり外の灯りを消したりしてくるのだろう。遅くから始まって閉店間際になるといつもそうだった。時間通りに閉店するのに、駆け込みのお客さんが入ってこないようにするのだ。閉店時間には出ていくし、追加注文はお水くらいなものだから居座っていても良いと言ってくれる。静かになった二人きりの店内でぼそぼそと月島くんが私に話しかける。

「どうした」
「なにが」
「具合悪いのか」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて」

 じゃあどういうわけだというのだろう。うまく言えなくてだんまりを続けていると、私の腕から手を離した。急に熱を失って寂しくなってしまい、月島くんの顔を見る。不安そうな悲しそうな表情を浮かべているのでびっくりして固まってしまう。どうしてそんな顔をするんだろう。私が何か粗相をしてしまったのだろうか。「どうしたの」今度はこちらから声をかける。「なにが」同じやり取り。

「月島くんが悲しそうな顔をしてたから」
「それはお前が」
「私?」
「不安そうな顔をするから」

 人のせいにしてばっかり。ずるい大人なんだな私たち。ゼロか百かしかできない極端で不器用でずるい大人だ。言い方はおかしいけれど、私は月島くんの、月島くんは私の、顔色ばかり窺っていたわけだ。
月島くんにぐいぐい来られて私はどぎまぎしているし、いつもの調子が出せなくなってどうしたらいいのかわからなくなっている。どうしたらいいかわからず立ち止まっている間にも月島くんのことが好きな気持ちは絶えず膨らみ続けていて、自分でも抱えきれなくなっていて落ち着かない。月島くんも私が変に静かだからいつも通りの応酬ができない上に元気のない様子を見て戸惑っている。これは心配してくれている、ということなのだろうか。

「私は、月島くんが好き。ずっと、好き」
「そうか。よかった」

 今度は私の方から月島くんの腕に触れる。すっと引く動きをされて、だめだったのかなと気持ちが落ち込んだが、すぐに舞い上がった。なぜなら月島くんが手をつないでくれたから。

「嫌いになったりしないよ。喧嘩しても、好き」
「自身あるんだな」
「徹夜したり外回りさんざんして汗臭くても嫌いにならなかったし、資料ダメ出しがかなり厳しくても、飲み会の酔った勢いでデリカシーないこと言われても嫌いにならなかったもん」
「悪かったな、デリカシーなくて臭くて厳しくて」

 月島くんが拗ねたような声で言うので、だからそれでも嫌いになるようなことには値しなかったんだと補足しようとしたが、中断する。ガラガラっとお店の引き戸が開いて大将が店内に戻ってきたのだ。戻ってきたのを見るとパッと手を離された。「今日は俺が払います」とだいたいいつも出す金額を大将に渡した。私の順番だったような気がするけど、まあいいか。次に払えばいいのだから。

「結婚式の二次会は任せとけよ」
「だから結婚までいってませんってば」
「考えておきます」
「は?えっ?!」
「冗談」
「なにが?どこまでが冗談?なに!?」

 ははは、と乾いた笑みを浮かべながら月島くんがぐいぐい背中を押してくる。大将が「お幸せに」とにこにこしながら送り出してくれた。釈然としないが手をつかまれてずんずん進んでいく月島くんに引っ張られながら歩く。

「俺がぐずぐずしてたから」
「なんの話?」
「返事」

 何の返事だろうか。このまま歩き続けていたらタクシーなんて拾う必要もなく電車で帰ることが出来てしまう。なんでも手際がいいしさっさと片付けてしまえという、どちらかといえばせっかちな気質の月島くんがぐずぐずする事なんてあるんだろうか。そういえばせっかちそうなのに落ち着いて待機していたり時期をみてじっくり時間をかけてから案件に臨むこともあるから、一概にせっかちとも言えないのかもしれないな。

「飽きもせず好きだ好きだって言ってただろ」
「ああ…返事なんていらないんだ。私が勝手に言ってただけだから」
「そういうスタンスなんだってわかってはいたんだがな。それでも今回俺からそういうこと言ったら突然引いたから、嫌われたかと思って」
「いやいや、だから私の自己満足だったから返事もらえなくてもよくて、でも私の気持ちは知っててほしいっていうわがままで…」
「本当にわがままだ」
「そうだよ。あと誤解してるけど、私はどんな月島くんでも月島くんなら好きだよ。嫌いになったりしない」
「そうだ。だからみょうじから確固たる返事がもらえて俺はいまはしゃいでるところだ」

 酔って、いるんだろうか。この男がはしゃいだりこうして自分自身の感情をぺらぺらと話すところを私はこれまでに見たことがない。そしてちょっとだけ会話が支離滅裂だった。

「だからつまり」
「つまり?」
「おれがなさけない顔をみせてしまったのにはりゆーがあってだな」
「…月島くん若干呂律まわってなくない?」
「うるさいぞ。なまえが俺に飽きて後悔したかとおもって、後悔したってことだ」
「なになに?ちょっと、どういうこと。もう」

 やっぱり不器用だ。私が来るまでどれくらい飲んだんだろうか、時間が経ってから結構酔いが回ってきたのだろう。照れ隠しなのかなんだか遠回りしながらもだもだ言い訳をして真っ赤になった耳と首が丸見えなのに顔は背けて表情を見せてはくれないのだ。私も私でもっともっと嬉しい言葉を、核心の言葉を欲しがってわからないふりをしている。茶化す事しかできないけれど、もっと私だってはしゃぎたい。

「俺に必死になるなまえが見たくて泳がせ過ぎた」
「ひどい男だなあ、本当に、月島くんは悪い」
「なまえが悪い。俺をこんな風にしたのはお前だろ」

 私のせいなの、と抗議しようと月島くんの方に顔を向けたら人の往来もあるだろうに所かまわずキスをしてきた。「タクシー、拾って帰るか」と耳元でぼそりとささやかれたので熱に浮かされた月島くんの瞳を見つめながら「うん」と返事をした。「俺ん家でいいな。家の近くのコンビニでおろしてもらおう」とやけに手慣れた段取りだったのでほかにも女を連れ込んだことがあるのでは?と場違いにも女の勘が冴えわたってしまう。「店に着くのを待ってる間、どうやって帰るか考えてた」とあっさりカミングアウトがあって女の勘はあてにならないと思った。