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 頑張ろうと思った矢先に残業である。ついてない。宇佐美くんと尾形くんは定時を過ぎて30分くらいしてからさっさと「お先でーす」「意気込んでたのに残業ですかあ?」と煽るだけ煽って帰っていった。彼らは残業なんてする必要もないのだが周りから心象が悪いからと言って「せいぜい30分くらい残っとけば文句もいわれないしちょうどいいんですよ」と加減して残業している。本当に性格の悪い優秀な社員だ。だったらいつもオロオロしながら残業している谷垣くんを手伝っていってあげればいいのにと思う。かわいそうに。

「お疲れっす」
「お疲れ様で……野間くん、珍しいね」

 野間くんが帰り支度を整えた状態で私の横に立っていた。うん、帰っていいよ?キーボードに手を乗せたまま顔だけ野間くんの方を向けると「みょうじさんも珍しいっすね」とデスクに半分お尻を乗り上げさせてくつろぎ始める。おしゃべりするつもりなのだろうか。帰っていいよ。

「野間くん、なに残業?」
「外回りしてから戻って来て、ちょっと報告書まとめてました」
「なるほど」
「今日の月島さんはいつも通り隙が無い感じでした」
「そうなんだ」
「報告でした。それじゃ、お先です」

 今日は野間くんと月島くんのペアで外回りだったのだろう。それにしても、なぜその報告を私にするんだろう。「月島さんとうまくいったんですよね」と無表情で言われる。疑問形ではなく確信をもってそう言う。尾形くんか宇佐美くんから聞いたんだろうか。手も早いし情報を漏らすのも早いな。さいあく。私がむっとしているのを野間くんが「何怒ってんすか」と聞いてくるので、「宇佐美くん?尾形くん?」と情報を漏らしたのはどちらなのか聞き返す。

「月島さんが、移動中に教えてくれましたよ」

 びっくりしてしまった。一緒に外回りに行ってなんでそんな話になるんだ。もしかして月島くんって恋バナ好きなのかなとか、月島野間ペアは乙女だったのかなとかぶっとんだことを考えてしまう。

「俺がカラオケでみょうじさんに戦力外通告まではいってないって言ったのを月島さんに一応報告したんですよ」
「ん?ああ、そっか野間くん。終電あるからって帰ったんだっけ」
「そうです。そしたら月島さんに悪いなって言われて」
「何を?」
「みょうじさんは『俺の』っていうから」

 俺の、何?坊主二人の会話には主語とか述語とかもう何もかもいらないんだろうか。どうせ真顔でしょ、よくそれで通じるなあ。それともあれか、男同士でしゃべるときは二人して結構表情豊かなタイプなんだろうか。
 それにしても報告・連絡・相談は大切だっていうけど野間くんもそういう他愛のないというか恋バナを上司とするんだなと思ったらなんだか可愛く思えてしまった。『俺の』というだけで先に抜けたカラオケのあと、私と月島くんがうまくいったということを察知した野間くんはすごい。もしかして確信もって聞いてきたと感じたのは私だけで、実はカマかけにきてたのかもしれない。

「残念ですけど、戦力外通告しにきました」
「改めてフラれたんだ私……うん、でも、ちゃんと言いに来てくれてありがとう」
「お礼言えるみょうじさんは偉いと思います」
「褒められてる、んだよ、ね?」
「褒めてます。このまま突っ走っていきましょう」

 何だそのドヤ顔。何度も言うけど月島チームの男性諸君私に対して超失礼だよね!両手をグッと握って『がんばれよ!』のポーズを真顔でした野間くんは颯爽と「腹減ったので帰ります」と言って去っていった。
 
 各人と相談会と戦力外通告をしたのはほんの15分くらいの出来事だ。今日はその他にも急な来客やら月島くんに用事のある人の対応、それから問題児の尻ぬぐいをして意外に忙しかった。ひとつひとつはたいして厄介な出来事ではなかったのだが、どうも立て続けに舞い込んできて自分の仕事が進まなかった。明日はプロジェクトの中間報告会があるし、それで一日つぶれるから今日の内に片付けておきたい案件がいくつかあった。

〜♪

 会社の電話が鳴る。こんな時間に掛けてくるのは社外からの緊急の連絡だろう。慌てて受話器をとる。「はい、営業7課みょうじです」と電話に出ると、ざわざわした音と一緒に「お疲れ様です、月島です」という返答。外にいるんだなと思いつつ「お疲れ様です」と言うと「他に誰が残ってますか」と尋ねられる。周りを見回すと私しかいなかった。

「私だけです」
「そう、ですか」
「そうデス」
「お疲れ」

 周りに人がいないことがわかったからか、仕事の用件では敬語を使う月島くんがくだけた口調になる。緊急性はなさそうだと受話器を持って椅子に腰を落ち着けた。なんだか、『お疲れ』の一言がいつもより柔らかい印象で、受話器越しだから当たり前なのだけれど耳元で月島くんの声が聞こえるとほっとする気持ちとどきどきする気持ちが同時にわいてくる。
 どうやら用件としてはこれから直帰するけど何か用事がある人はいないかという確認の様だった。私の他には誰もいないので「そのまま帰って大丈夫だよ。お疲れ様」と返事をした。「今日一日で何かあったか」と念押しで聞かれたので来客対応と彼宛ての他部署からの資料を私が預かっている旨を伝える。机の上に置きっぱなしにしておくべき書類ではなさそうだったし、書類をもってきてくれた担当者が明日お休みだというから。

「助かる、明日引き受ける」
「うん、鍵ついてる引出に入れて置くから大丈夫だよ」
「菓子でいっぱいのアレな」

 電話越しで静かに笑われてるのがわかる。机は長い一枚の板のようになっているが自分のデスクゾーンには一人一台オフィスワゴンというのだろうか、キャビネットがあるのだ。私は1段目は文房具、2段目はお菓子、3段目はファイル・バインダー・書類という構成になっている。2段目のお菓子入れには残業や仕事が進まないときに食べるチョコや飴や非常食のカップ麺が隠されている。月島くんは私の2段目事情をよく知る人物だった。

「……今日はまだ食べてないし」
「嘘だろ。もうこの時間だぞ。最後の砦のカップ麺までいってるはずだ」
「食べてないってば。今日はお昼食べるのも遅かったから大丈夫なの」

 もごもご言いながらも『もうこの時間だぞ』と言われてやっと時計を確認した。本当だ、結構遅い時間だ。自覚すると途端にお腹が空いてくる。不思議なものだ。ぐう、とお腹が鳴り始めた。受話器がこの音を拾う訳がないのだけれど恥ずかしくなってくる。

「今日、顔合わせてないな」
「えっ、あ、そうだっけ」

 しらじらしい。故意に顔を合わせなかったのにとぼけて「タイミングあわなかったのかもね」などと言ってみる。顔を合わせていないということを月島くんから指摘されるとは思ってもみなかった。電話だったらこんなにいつも通りに話せるのに、不思議なものだ。顔を見合わせたら、あの時近づいてきてキスをする光景が鮮明にフラッシュバックされてどぎまぎしてしまうのだ。

「飯、行こう」
「いつ?」
「今から」
「今から!?」
「……やっぱりカップ麺食ってたんだろ」
「ち、違うよ」

 飯行こうって、なんだ。「行くか?」とか「行かないか?」とか「どうだ?」ではないんだ。「行こう」って。小さな違いだし、そんなのどっちでも変わらないだろうと宇佐美くんや尾形くんには呆れられるかもしれないけれど、私にとっては大きな違いだった。月島くんの乗り気度が全然ちがう。前のめり感がすごいのだ。

「今日まだ顔合わせてない」
「そ、そうだね」
「俺に会いたいだろ」
「…!な、なにそれ。めちゃくちゃ自信過剰じゃん。面白い。月島くんオラついてて面白い!」

 ははは、なんて乾いた笑いが口から漏れる。冗談かなと思いきや受話器からは笑い声は一切聞こえてこなかった。「ごめん」と一人で大笑いしたことに恥ずかしくなって謝ってしまった。私だけ空元気を装ってて恥ずかしいし痛い。

「会いたくない、」
「……そうか」
「って、朝は思ってた。顔合わせないわけだよ、私が避けてたんだもん」
「だろうと思った」
「月島くんの行動を熟知した女だよ、私は。一日顔合わせないとか楽勝だし」

 会社の最寄り駅に何時着か。電車の路線、駅から会社までのルート。寄り道するコンビニで買うタバコの銘柄。デスクについたらまずPCの電源をいれて、それから手帳をチェックして。いつも見てた。どこで話しかけたら邪魔にならないタイミングなのか。その日の月島くんの業務の予定も把握しておきたい。

「でも駄目だね。やっぱり面と向かっておはようっていわないと朝が始まらない感じがする」
「俺もそうだった」
「お腹もすいたし、声聞いたら、会いたくなっちゃった」

 会いたくないなんて言ったすぐその後に会いたいなんていうのは我儘だ。私は結局どうしたいのだろう。月島くんと想いを通じ合えたらそこでゴールなんだろうか。今現状に満足してしまっていいのだろうか。月島くんに私の気持ちを認めてもらって、月島くんからも色好いお返事がもらえたらいいなあなんて思って、そのことだけを目標にしていた。目標が達成されたら燃え尽き症候群。この先の事は何もプランがなかったことに山頂に到達してから気づいた。
下山する?それとももう一つ上の山に登る?野間くんが帰る前に山岳部からのアドバイスでももらえばよかったのかもなんて今気がついても、もう遅い。

「月島くん」
「なんだ」
「好き」
「知ってる」
「会いたい」

 電話の向こうで月島くんがため息を吐いた。それは身勝手な私に『呆れた』ため息なのか、会いたいと言った私に『ホッとした』ため息なのか。月島くんがお店の名前を言う。いつもの居酒屋だ。

「避けられるのわかって、やっぱり俺のこと好きじゃないって言い出すかと思った」
「好きじゃないなんて言うわけないよ」
「会社に電話してみょうじが出て、柄にもなく緊張してたけどさっきやっと落ち着いた」

 そうか、『緊張から解放された』ため息だったんだ。月島くんプレゼンのときも淡々と進めるし堂々としてるから緊張とかしない人だと思ってた。なんだか急に身近な存在になっている気がした。

「仕事もう終わるからすぐ出る」
「じゃあ、俺は先に店向かってるぞ」
「うん。先始めてていいよ」

 じゃあ、もうひと頑張りしよう。今開いている書類の書式を整えたら終わりだ、10分もしないうちに帰れる。電話を切ろうとしたら月島くんが「待ってる」と言ってくれた。あの時から時間がとまったような気がしていた。いまになってやっと実感がわいてくる。こんな蕩けるような声を出すなんて知らなかった。こんなに追いかけて、月島くんのこと知ってるつもりでいたけど全然そんなことなかった。彼の事まだまだ知れるということがこんなにも嬉しい。