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 気が付いたら自分の家のベッドで寝ていた。スーパー銭湯での出来事からうまく記憶が辿れない。ぼやぼやしていたらいつの間にか帰宅していたらしい。もしかして全裸で、隣で月島くんが寝ていないだろうかと期待したが、普通に一人暮らしの寂しい部屋だった。シャワーかな、と思いつつ覗いてみるも浴室乾燥のために服が大量に干された風呂場があるだけで、逞しい裸体があるわけもなかった。

「ちくしょう、チューまでしたらもうお持ち帰りしろっての……」

 はあ、とため息を吐く。電気ケトルに水を入れてボタンを押す。それにしてもよく家事できたなとまだ少し湿っていた洗濯物を見て自分に感心していた。むしろ、家事をやることによって平常心を取り戻そうとしていたのかもしれない。何気なくスマホを見てみると「なんで普通に帰るんですかね。本当に成人した男女ですか?」という宇佐美くんからの挑発メッセージが来ていた。なんだよもう、私もそう思う。門倉さんからの「始発でちゃんと帰れたようで良かったよ」という返信のメッセージも見る。ああ、無事に帰宅しましたメッセージは送っていたようでよかった。
 酔ったくらいで過ちを犯すわけもない、安心安全な男である。ひとっ風呂浴びていたし、酔いもなにもあったものではないがこれはこれで悲しい。

「え、じゃあ、素面でキスしたの?!」

 思わず一人で叫んでしまう。これは彼にとって人生最大の汚点ではないか。……ん?汚点ではないな。どうして自虐モードに入ってしまうんだろう。良くないなと思いながらお湯が沸けたようなのでマグカップにインスタントコーヒーとブラウンシュガーを入れてお湯を注ぐ。濃い目にしてミルクを足そうと少し淹れたところで冷蔵庫に向かう。

「ん……おはよう」
「ひいっ、いやああ」
「人を化け物みたいに……おい、嫌って言うな」
「……なんで?えっなんで?!ほんとになんで、えっ」

 「え」と「なんで」を繰り返してしまう。起きたら普通に寝間着を着ていたし、家事もしたっぽいし、宇佐美くんからのメッセージは「なんで普通に帰るんですかね」だったし、どうしてだ。ドッペルゲンガーかな?なるほど、昨日のスーパー銭湯に来たのは月島くんのドッペルゲンガーだったのか、そういうことなんだ。だからあんなことしたんだ。月島くん本人じゃなくて月島くんのそっくりさんにキスされたのか。それもそれでなんだかな。
 いつだったか誰かに誘われて行ったフェスの男女兼用XLサイズのTシャツを月島くんが着ている。私が着ると5,6分袖のチュニックみたいになるから下にスキニーを履いたりしていたのに、月島くんが着るとゆったりめのTシャツになる。他の男性社員に比べて身長は小柄な方だと思っていたが、やはり男女の体格差ってすごいなと思う。
そもそも私の賃貸の部屋に月島くんが居るという事実がすでにキャパオーバーだった。うまく脳内で処理できない。ああ、納得した。平常心を取り戻そうとして家事をしたのもあるが、舞い上がって「新婚さんみたい」と家事をしたんだ。私にはわかる、自分のことだから。きっとそうだ、そうに違いない。アホか。

「とりあえず、カフェオレ飲む?」
「砂糖なしで」
「うん」
「『ちゅーまでしたらお持ち帰りしろ』。したな、お前が」
「はあ?」
「お持ち帰り」

 ニヤニヤしながら月島くんが意地悪そうに言う。そのくせ次の瞬間には「まあ俺が追いかけて押しかけたんだけどな」とけろっとして言うので驚く。どういう風の吹き回しだ。これは人生最大のモテ期、いや、待って、ドッペルゲンガー説はまだ濃厚だ。落ち着いて私。

「素面でキスした。あとなんか質問あるか」
「いや、あの、ないデス」

 マグカップを渡すとお礼を言われる。潔すぎてこわい。いつからそんな攻めの体制にシフトチェンジしたのだろう。どきどきしすぎて心臓が飛び出しそうだ。死因、心臓破裂。なんかグロテスクな感じだ。ふうふうと熱いコーヒーに息を吹きかけてちみちみ飲み始める月島くんをみて変な声がでそうになるのを咳払いで誤魔化した。

「あ、やっぱり質問いい?宇佐美くんから別々に帰ったっぽいメッセージきてたのに、どこから月島くんが合流したのかな」

 炊飯器がお米が炊き上がるまであと8分であることを表示していた。ご飯まで炊く準備してたのか私偉いな。お酒と衝撃のキスでぼんやりしながらも食欲にはしっかり対応していた自分が笑えてくる。冷蔵庫を開けるとベーコンとソーセージと卵があったのでフライパンを出して調理することにした。目玉焼きは失敗したくないので炒り卵に出もしてしまおう。ご飯だけどおかずはパン向けでちぐはぐしているが別にいいか。冷凍庫には冷凍のほうれん草とミックスベジタブルが入っているのでソテーにすれば野菜不足もカバー、なんとか『バランスには気を付けてますよ』アピールができそうだ。自分のいつもの朝ごはんよりきちんとしているのは内緒だ。

「スーパー銭湯から歩いて駅についてそれぞれ別れた。そこから2駅くらいは自分の家に向かって電車に乗って帰ってたんだが、やっぱり心配になって戻って、みょうじが行ったホームいったらベンチでお前が寝てるから定期券見て連れて帰った」

 すごいな。ありがとうというべきかすみませんでしたというべきかわからなかったので「そっかあ」と言葉を濁す。なかなかの強行手段にたじたじである。「残念な事に持ち帰ったところで何も起きてない」と言う月島くん。やっぱりドッペルゲンガーなんだ。というか私はきっとまだ目が覚めていないのだ。夢に違いない。というか『残念なことに』ってなんだ。
 カリカリのベーコンとパリッと焼けたソーセージ。炒り卵にはだし醤油を入れた。ほうれん草とミックスベジタブルはバターでソテーした。ご飯を盛ってテーブルに出した。

「一宿一飯でお礼させてください」
「そうさせてもらう」

 いただきますと手を合わせて早速ご飯を食べ始める。「有り合わせにしては普通に美味いな」と失礼ながらも褒めてくれる。褒めて、るんだよね?たしかに気取ってない正真正銘の家庭料理だろう。お母さんも毎朝大変なんだよ、きっと。「インスタントでよければ味噌汁だせるけど」と言ったら「じゃあインスタントでいいから味噌汁くれ」と答えた。

「まさにビジネスホテルの朝食バイキングって感じだな」
「ああ、なるほど!見覚えある並びだなと思った」

 お椀に味噌とかやくをいれてお湯を注ぐ。素直に納得してしまった。なるほどな、朝食バイキングだとだいたいこんな感じだもんね。ビジネスマンジョークだ、わはは。変な緊張感がなくなって少しほっとした。月島くんがじっとこちらを見てくるので「なに?」と尋ねる。

「いや、なんか」
「なんか、なに?」
「言わないのかと思って」
「何を?」

 いや、いつもの、と月島くんにしてはめずらしくもごもごと言葉を濁す。はっきり言ってよ、気になるじゃない。カリカリのベーコンをもそもそかじりながらもう一度「なにを」と問いただす。「『月島くんと朝を迎えられて幸せ』とか『ずっと家にいてくれればいいのに』とか」と月島くんが裏声を出すわけでも真似をするわけでもなく淡々と言うので可笑しくなって笑ったら変なところにご飯が入って咳き込んだ。ようやっと落ち着いてから一言。

「うわ、それ自分で言ってて恥ずかしくないの?!」
「いや、いつもお前が言ってただろ」

 確かに言いそうだし、言うわ。それもそうかと二人して何故か納得して朝食を再開させる。でもそうだな、ふざけて言える状況じゃなくなったのかもしれないなと、昨夜から関係性が確かに変わったことは実感できている自分がいる。だってそうでもなければこうやって優雅に休みの日に私の家で朝ごはんなんて食べたりしないだろう。

「私はいいんだよ、もう、なんていうか……圏外っていうか」
「圏外じゃないだろ」
「何言っても『冗談』ってことにされるから、冗談めかして、言うのは、別に……え?」

 私の耳と脳が都合よく解釈しているのでなければ、今、月島くんは「圏外じゃない」と言ったのではないか。ぽけっとしていると「なんだよ」とインスタントの味噌汁に口を付ける月島くんの、そのマグカップの影に隠れない顔が赤くなっているのが見えてしまう。

「自分、圏内っすか」
「そうじゃないっすか」
「まじっすか」
「自分が一番わかってるんじゃないっすか」
「そっすね」

 また緊張感が戻ってくる。ふざけているような口調だが内心ガッチガチだ。突然(突然でもないが)相手にされると逆に対策ができなくて困る。今まで自分の好きなように自分の思っていることを垂れ流していたのだ。今更恋の駆け引きなんてできない。
 そっすね、なんていったのに自分が一番よく分かっていないのだ。どうしたらいい、これからどう接していったらいいのだ。

「わかってない顔だな」
「うん、わかってないや……全然わかんない。どうしよ」
「今まで通りでいいんじゃないのか」
「月島くんは今まで通りの私が好きなの?」
「ああ、好きだ。今までもこれからも」
「あ、そう、なの。へえ……」

 月島くんの猛攻が、1テンポも2テンポも遅れてくる。ダメだ、言葉もちゃんと考えなきゃ。軽く返事したら駄目だ、きちんと丁寧に、と思えば思うほどに頭の中がごちゃごちゃしてくる。わからない。「どうした。嬉しくないのか?」となぜかドヤ顔の月島くんがこちらをみていた。なんて優しくてやわらかい表情するんだろう。今までの私はどこから自信をわかせていたのか分からなくなってしまった。こんないい歳した大人が、可愛くもなく美人でもなく、仕事も長年の慣れと勘でなんとかこなせていて、スタイルも特別いいわけじゃないし、化粧だっていつも夕方にはボロボロになってる。

「なんか、吐きそう」
「はあ?」
「つわりかな?あはは」
「バカじゃないのか」

 へらへらしながら答えたら月島くんも冗談めかして応えてくれる。これくらいの距離感でよかったのかもしれない。近づき過ぎちゃったのかな。振り向かれたら途端に自身無くした。自分はこんなにもネガティブでどうしようもない意気地なしだったのだ。

「ばかだよ。馬鹿みたいに月島くんのこと一生懸命追いかけてた。好きすぎて気が狂いそう」
「突然失速するなよ。俺の事が好きで好きでしょうがない馬鹿みたいに一生懸命なみょうじが好きだ」
「月島くんって時々残酷なこと言うね。私にずっと月島くんのことばっかり考えて心不全起こしつづけてろっていうの」
「そうだ。お前ならできるだろ。俺が見込んだ女だ」
「できるかな、」
「できる」

 なんで私が応援されてるんだろう。そして私もなぜ「できるかな?」と月島くんに相談してるんだろう。というか心不全についてはなんのツッコミもないんだ、と変なところで現実に立ち返る。でも月島くんも真顔を装っているけど耳と首が赤い。変なところだけ赤くなるね、ちょっとかわいいや。

「なんか不器用だね、私達」
「俺もそう思う」

 冷めてしまったカフェラテが甘くてまろやかだった。