小説 | ナノ

花子が、実家の経済状況の悪化の末に学園を退学し下働きに出るだとか、金のためにどこかの商家に嫁ぐとか。
食堂で味噌汁をすすっている時にそんな話が耳に入り、思わずむせてしまったのは仕方がなかったと思う。まったく寝耳に水の話であった。
具を飲み込むのもそこそこに、なかば衝動でその場にいたくのたまに詳細を詰め寄れば、忍たまが三郎次が何の用だと、と揃いも揃って眉をひそめてくるのだからまったく酷い話である。結局それ以上は情報を得られず終い。苛立つ気持ちを抑えきれず舌打ちをしてその場を後にする。

花子とは昨日の夕刻、地を這う蟻を眺めながら話をしたばかりなのだ。

「つやつやしていじらしい、なんて健康的でかわいらしいのか」
「小さくて黒いから何もわからんだろあほか」

今改めて思い出してもしょうもない会話だったが、ちゃんとあいつは笑っていただろうか。
ツギハギの収納袋を下げる姿を見かけては「どんな洒落っ気だよ」と軽口を叩き笑っていた過去の自分を思い出すと、握った拳に力が入った。
とにかく本人に噂の真実を確かめるのが先だと当たりをつけて探せば、なんのことはなしにすぐ井戸付近で見つかった。鼻歌が聞こえてきそうなごきげんな姿である。それを見ただけでも少しざわざわした気持ちがやわらいだ。どうやら桶に水を汲んでいるらしい。

「おい、」
「ああ、三郎次くん」
「お前退学するのか?」

きょとん、と俺を見つめる瞳に悲壮感は見られない。やはり噂は噂だったかと、安堵しかけたところで、「うん」の声と同時に花子の視線が下がる。

「くのたまの誰かに聞いた?勘違いしないでね、私が希望したことなの。家にお金がないのわかってるのに通い続けられないからさ、今月で退学することにした。良いところが見つかればすぐにでもどこかの屋敷に奉公に行くつもり。友達や先生や、三郎次と離れるのはさみしいけど」

そうして困ったように僕に視線を向けてくる。
さみしい。そうだ、それだ。僕もさみしさがずっと胸を重たくしてる。急にそんなこと聞かされて困惑してる。噂が本当になって、自分の足場が揺れてるみたいに頼りない。僕はお前をからかう時間が好きだったんだよ。そりゃ、伝えたことはなかったけど。素直に伝える子供でもないし素直を差し出せる大人でもない。
でも今は。急に僕からお前との時間を取り上げないでくれって子供みたいに喚いて文句を言いたいよ。

「そうか」

頭の中は想いと言葉でごちゃごちゃなのに、それ以外何もうまい言葉が出てこない自分に呆れながら。せめてもと水の張った桶を花子から取り上げるように持ち上げる。

「持ってくれるの、ありがとう」
「別に」
「三郎次くんと喋れなくなるのもさみしいな」
「僕も」

喉の奥がチリチリと痛むのを抑えるように、恥ずかしさを押し込むように、さみしいと声を吐いた。素直をすりつぶしたような潰れた声になった。

「わ、三郎次くんから、そんな言葉が聞けるとは」
「からかうな」
「ごめんからかってない、本当に驚いただけ。だってこの話聞く前なら、きっとそんなこと言ってくれなかったじゃない?」

それは図星である。言わないと後悔することがわかっているから、こんな状況でなければ憤死しそうな素直さを絞り出している。だけどわざわざそれを指摘するなと言いたい。話題を逸らすため、視線を桶に落とす。

「…この水はどうするんだ」
「入口のお花に水をあげたいの。さっき見かけたら地面が乾いていたから。一緒に行ってくれるの?」
「ああ」
「ふふ。三郎次くんって、優しいの、いつもわざと隠してない?」
「さあ」

たまたま気が向いただけの優しさということにしておきたい。それでも少し優しいと思われたいのもある。それから少しお前と喋る時間を稼ぎたいだけ。これからもずっと続いていくと思っていた時間を今更慌てて惜しむように手繰り寄せてるだけ。

「嬉しい。世の中知らないことばっかりね。学園も色々なこと教えてもらって楽しかったし、来てよかったわ。新しい環境でも、楽しめるといいな」
「意外と前向きなんだな」
「楽しんだもん勝ちですから」
「どうにか、ここには残れないのか?」

素直になりすぎたのか自分の勝手な願望が言葉に滲み出た後、しまったと思い「仕事が見つかるまでとかさ」と慌てて付け足して花子を見る。まっすぐ僕を見つめる彼女は強がりのない笑みで「残らない」と宣言した。

「私ね、境目、というか区切り?かな。そういう線がどこにでもあるってちゃんとわかってるつもり。三郎次くんもでしょ?亅

曖昧に頷いた。僕の理解が彼女の理解と繋がっている気はしなかったが、まさにこの瞬間、彼女との解釈意識に区切りがあることを感じているのは確かだから。

「私それでよかった。知らないことは怖いし、言葉で線を引いておかないと、きっと私達受け止めきれないわ。だからその区切りを認識したとて、三郎次くんが不安になることなんて、ましてや罪悪感を必要以上に持つ必要なんて全然なくってさ。持つだけ損だと思う。そういうのはきっと無意味だから忘れるべきだわ。でもね、」

覚悟の重みを感じるわざと突き放したような言葉たち。その冷たさを感じる暇を与えないかのように矢継ぎ早に、明るく彼女は続ける。

「今日の日のこと思い出す。私を理解ろうと、三郎次くんのまっすぐな目が私をみてくれたこと。嬉しくて、絶対、布団の中で思い出すから。ありがとー!」

言い切ったとばかりにぐっ、と水桶をとられる。勢いでこぼれた水に構わず身を半分翻し「もう大丈夫!じゃあね!」と唇が動いた。その笑顔が脳裏に焼き付く。晴れやかな笑みに本当に悲壮感はなかった。言葉通りの感謝が乗っていることを苦く思うのは、僕の勝手な思い上がりのせいだとわかってはいた。

彼女を奉公先から攫う姿を想像をしたかったけど、上手くいかない。
でも区切られた言葉でしか僕は彼女を知らなくて。その想像の枠を出ない彼女がにこやかに幸せそうに笑う表情だけは鮮明で、先程の笑顔と重ねられた。



さよならなんていえないよ

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