小説 | ナノ

新しい季節が巡ってきたことを桜色の立て看板が教えてくれる。寒さが引けば春は、一年はあっという間だ。立看板の横を過ぎてカフェのドアを開くと、嗅ぎ慣れたコーヒーの香りがした。最近入ったらしい店員さんのスマイルも見える。

「ブレンド、小さいサイズでお願いします」
「期間限定の桜ドリンクはいかがですか?」
「いえ結構です」
「もしかして甘いものはお嫌いですか?」
「そういうわけじゃないですけど、コーヒーを」
「では、ご一緒にケーキなどいかがですか?」
「結構です」
「オススメですよ、特にこのガトーショコラ。甘過ぎず、ベリーのソースが格別です。頼まれたブレンドのコーヒーとよく合いますよ〜是非ともどうぞ」

するする口がまわるこの陽気な新人店員さんに絡まれるのが、このところのお約束となりつつある。正直ちょっと面倒くさいと思いはじめている。おまけに毎度空気を読まないので、接客業に向いていないのではと余計な心配までしてしまっている。

「もしもーしお客さま?ケーキお付けしてよろしいですか?」
「いつも思うんですが、」
「はい?」
「強引よりの接客でお客さんに注意されたりしませんか?」

今日は後ろに他のお客さんがいなかったので、ずっと思っていたことをストレートかつ嫌みっぽく聞いてみることにした。
店員さんは大きな目をじっと私に合わせ、ニコッとまばゆいばかりの営業スマイルをして「嫌ですね、僕はお客さま全員にこんな調子じゃありませんよ。」と整った顔で言い放った。
その言い草に呆れてものも言えずにいると「じゃあケーキは僕の奢りです」と意味不明なことを言いはじめたので「えっいらないです」と即座に返した。返したはずが、聞く気がないのか手早くお皿に盛り付けられていくガトーショコラ。

「あのー店員さん、会話通じてます?」
「言い忘れていましたが僕は池田三郎次といいます。以後お見知りおきを」
「いやいやだから」
「はいどうぞ。じゃ、お会計コーヒー分でいいので」

訳がわからないまま差し出された美味しそうなガトーショコラ。その横のブレンドコーヒー。いい香り。艶やかな色のソース。う。…そうだ、ケーキに罪はない。

「…それなら不本意ですが、そのケーキ頂くのでお金は払います」
「はい、ブレンドコーヒーひとつで432円でーす」
「あの、何回も言ってますけどきちんと会話してくれます?」
「僕の奢りと伝えましたよね?」

結局次のお客さんが来たことで支払いを急かされ、払ったのは432円。負けじと食い下がったら「そこまで言うなら後で回収に行くので」と無理やり列を流された。その対応は店員として色々どうなんですか?など言いたいことは沢山あるけれど、ひとまずはお金の問題が先決だ。謎の借りは作りたくない。気を落ち着かせようと窓際の席に腰を下ろしてコーヒーを口に含む。
未だ会計の済んでいない目の前のケーキを食べるのも憚られて、ガトーショコラは見つめるだけ。なんて拷問だろう。

謎の新人カフェ店員もとい池田さんが来たのは15分後くらいだった。
その間にいい感じに怒りが煮詰まっていたので、考えていた文句を言ってやろうと手始めに睨み付ける。しかし池田さんはそんな私のことなど気にもとめずに向かいのテーブルに腰かけた。

「仕事中になに座ってるんですか?」
「もう俺上がったから、ゆっくり話そうと思って」
「えっ」
「約束通りケーキ半分回収に来たよ。お金は払わなくていいから一緒に食べよう。俺今日誕生日なんだよね」

突然フランクになった言葉が息を吐くようにぽんぽんと繋がれ、ぷすりと刺さったフォークがショコラを縦断する。

「…そうなんですか」
「嘘だけど」
「そうですか」
「…怒ってる?」
「怒ってましたがだんだん怒る気がなくなってきました」

今のところ怖いくらい意味不明な池田さんだけど、ここまで必死だと今ここで私とケーキを食べたい理由があるんだろうと思えてくる。例えば…お客さんである私に一目惚れ?もしくは生き別れの妹に似てる?とか…ハハハありえんな。

「では誕生日のお祝いをしましょうか」
「だから嘘だって」

浮かぶのは現実感のない理由ばかりだった。…馬鹿馬鹿しい。だいたい他人の考えなんて最初から理解できるわけないんだった。もう考えるのもやめて、求められる通り振る舞うことにしようか。

「ハッピバースデートゥーユーハッピバースデートゥーユー」
「え、なに歌ってんの」
「ハッピバースデーディア池田さーん、ハァッピバースデートゥーユー。はい、おめでとうございます池田三郎次さん。」

その瞬間、池田さんが唇を噛み締めて下を向いた。抑揚もない雑なバースデーソングで感極まった様子にものすごく驚いたし、正直少しだけ引いた。けれどそっとしておいてあげようと思った。むり&つら、な出来事があってむしゃくしゃしていたのかもしれない。そんな時は客でもなんでも誰かと話をしながら甘いものを食べたいかもしれない。理由の落とし所としては、さっきの考えよりそれが無難で良いだろう。私は絶対そんなことしないけどね。はい、私の心の広さに私が感動〜

「突然俯いて、どうかしましたか。優しさいっぱいのバースデーソングが心に染みましたか」
「いや名前、呼んでもらえたのが嬉しくて」
「はぁ」

どうやらよほどの傷心らしい。憂いを含んだ整った顔だちの池田さんを前に不覚にもどきりとした。まあまあこれは眼福だ、と思うことにする。しかし何となく悔しいので、遠慮なくガトーショコラのひとつにフォークを突き刺した。


*


踵を返した後の、じゃりじゃりと擦れる自分の足音と地面の感触を妙にはっきりと覚えている。振り向いたらいけないと思って我慢した。必死に我慢していた。本当はお前と一緒にずっと笑っていたかった。その未来を手放したのは他でもない自分自身だというのに。
泣き笑いして受け入れてくれたことを寂しく思ってしまった。好きだと言って叶えられもしない夢を見せた。やさしく触ってしまった。たくさんのひどい行いを、最後に謝ることもしなかった。どうか、このひどい男を忘れないでいて欲しい。そしてどうか来世では忘れていて欲しい。たくさんの欲と、それに対する自己嫌悪はずっと抱いたままだ。
迷うこともなく入った彼女の行きつけのカフェのアルバイト。こんな未練がましい男と関わり合いになる方がおかしいだろう。それでも何も知らずに、どうしようもなく鬱陶しい男の名前を呼んでくれた君に、どうしようもないいとおしさが溢れて言葉にならない。

「呼んでくれて、ありがとう」

搾りだした声でそう言えば、あの頃のように、仕方がないと言うように。僕を見て君は笑う。
そうしてまた欲ばかりが首をもたげてくる。また、君のどこかに居座っていたい。


(2019池田の日326)
めぐりの春

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