8 桁外れな方法




その日トウリはゾルディック家の広い庭(という名の山)で駆け回っていた。
ただ駆け回っていた訳ではなく、目的を持って駆け回っていた。



数時間前―――――

動きやすい稽古着に着替えたトウリはシルバに言われるまま、後を追いかけていた。シルバはトウリの前方を移動しており、まだ小さいトウリには速い速度。目で追うだけでも大変であるが嫌でもついて行かねばならない。
必死についていった先に待っていたのは野生の動物たち。そこにシルバの姿がないことに気づき、自分が何をされるのか分かってしまった。

この動物たちから、逃げる。

それ以外に思いつかないトウリは動物たちと目を完全にあわせる前に姿を消そうと、今来た道を引き返すように走り出した。
気配に気付いた動物たちは一瞬でトウリを追うように体制を変える。獲物を逃がすものかというように、乱れた気配を追って四つ足で地を蹴った。



動物に鉢合わせしながらもトウリは走り続けていた。
ゾルディックの庭には一度も足を踏み入れたことがないため、自分が何処へ向かうのか、何処にいるのかさえわからない。森になったり川にでたり、開けた場所へでたりと色々な、道とは言い辛い道を通った。
動物と戦ったことなどないため、どう対処したらいいかわからないが、とりあえず怪我をしないように動物からの攻撃を避けながらどうにか走っている。

ハアハアと息を切らしながら、もっと早く走らなければと。
酸素の足りない身体は幼いトウリの思考能力すら削いでいく。
動物たちが出てきたらこうしようだとか、どこに出たらこうしようなど先程まで考えていたのに忘れてしまった。


こんなに命の危険を感じながら逃げるのは始めてだった。
暗殺を生業とする一家に生まれ、暗殺を生業とする名家に嫁ぐ。いつかは自分も人の死を側に感じ、恨まれながら殺意を向けられながら生きていくのだと言い聞かされていた。
暗殺というのも簡単ではない。自分の死を隣り合わせにしていく。自分がいつ追われる立場に変わるかもわからない、そんな職業。
実家で口では言い聞かされて理解していたものの、実際に命の危険を感じるのはこれが初めてだった。

こわい、と、正直に思う。
だからこそこうして必死に逃げているのだ。


「は、っはあ…はあ、っ」

息も切れ切れ逃げてはいるものの、何時になったら終わるのかわからない追いかけっこは精神的に辛いものがある。体力も疲労も限界近くに達し、足をガクガクさせながらも歩いた。
震えて限界の足でも、止まってしまえばきっともう動きはしない。自分はここから動けぬまま動物たちに襲われる。
それだけは嫌だと力を振り絞ってただ嫌だという気持ちだけで動いている。

「あ、!」

足がうまく上がらず、小さな石ころに躓いてしまった。ああ、私はもう動けないと諦める。これ以上は動けない。
ふと、目をつむると先日別れた母の姿が自然と浮かんだ。自分は逃げてボロボロで、水辺で泥にまみれ、足も震えて動けない。実家で酷く鍛えられた記憶もあるが、こんなにも過酷に鍛えられたのはない。


「…っま、まぁ」

辛くて、逃げても恐怖が追ってくる。怖い思いを閉じ込めてただ走った先刻を思い出し、自然と視界を霞めていく。
熱く流れる涙が抑えきれない。転んだままの体勢で、零れる涙は大地に静かに消えていった。

ふと暗くなった視界に涙でぐちゃぐちゃになりかけていた顔を上げる。逆光ではっきりとは見えなかったが、この現状に仕立て上げたシルバが立っているらしい。
まさか動物が、とも思ったが、知った人間であったためにひどく安心する。



「1時間12分。…よく逃げられたな」


1時間12分も動物から逃げ回っていたわけだが、今のトウリにはもはやそんなことはどうでもいい。ただ恐怖感が勝っていた。寂しさが、辛さが勝っていた。

「立てるか?」

シルバの言葉にゆっくりと、弱々しく顔を横に振ると、腕を捕まれて立たされる。自分で立てる力がないため、そのまま腕を捕まれながらシルバを見上げた。

「あんなに走った後に座るな」
「あ、…で、も…っ」
「動物はもう来ない。まずは屈伸だ。出来るか?」
「…ぐす、手、にぎってて、ください」
「立てないなら腰を押さえているから、自力でやってみろ」
「っはい…」

嗚咽を続けながらもシルバに言われた通り、ゆっくりとではあるが屈伸を始める。数日前にも自分の頭を撫でていた大きな手が、バランスのとれない身体を支えている。それに安堵しながら足の屈伸を続ける。
そのままストレッチへと移行し、シルバに身体を支えられながらいつも以上に駆使した身体を休ませていた。


「お前はまだ追い詰められたり、本当の危険を教えられていないと聞いたからな。手荒だったが、ウチ流で叩き込ませてもらった」

地面に座り込み、足を広げて前屈をしながらシルバの言葉を脳に流し込む。それが先程まで自分にされていたことだと理解したのは数秒置いてからだった。

「ずっと見させてもらっていた。初めてで恐怖もとてつもないものだっただろうが、この気持ちを忘れずに持っていて欲しい。恐怖を忘れた人間は死にやすい」

ぐっと身体を倒される。節々が痛いが、ここでストレッチをしなくては後に響くので大人しくシルバに従って続ける。

「体力もそれなりにある、瞬発力もその歳では十分だろう」
「あ、ありがとう、ご、ざいます…いっ」
「今日はもうゆっくり休め。戻るぞ」
「ひゃあ?!」

一通りストレッチが終わったところでシルバが手を止め、トウリを立たせる。と、いつの間にか景色が変わっており、顔に風を強く受けていることに気が付いた。
視界にチラチラと銀が靡いている。体温を感じるところからして、シルバに背負われたらしい。難なくトウリを背負い、軽々しく走って森を抜けていくシルバに黙って身を預ける。


「明日からメニューを使って稽古をしていくからな。気を抜くんじゃないぞ」
「はい」

走り過ぎていく木々に、数刻前の自分を思い出していた。






森を抜け見えた屋敷に小さく息を吐く。屋敷から離れた場所へ移動したと思ったが、結構な距離だったらしい。まだ周辺の地理が分かっていないため何も考えずに逃げるだけだった。
知らず知らずに遠くに来てしまっていた。やはり何も知らないのは危険だ。ましてや一度入ったら二度と出れなさそうな森である。ゾルディックで生活していく以上、少しでも把握しておかねばならないと感じた。


「トウリ!」

シルバの背から降り立つと屋敷の方から走ってくる影。小さいそれが近付きイルミだと分かると、なんだか今の自分が恥ずかしい。
ボロボロで、フラフラ。
シルバに支えられていないと動けない。

「父さんとでていったって聞いてしんぱいしてたんだ。大丈夫だった?」
「えへへ、すごいケガはしてないよ」
「ドロがついてるじゃない」

頬についていたらしい泥をイルミはぐっと指を押しつけてそれを取る。その力が強かったのかトウリは後ろで支えていたシルバに寄りかかってしまう。


「あ…どうぶつさんに追いかけられてて、わからなかった」
「動物?…もしかして、野生の動物においかけられたの」
「うん。でもへいき。シルバさんがずっといたから、うごけなくておわりにしてきたの」
「父さん!」

イルミは今まで見えていなかったようなシルバへ急に視線と言葉を投げかける。その表情は確かに怒りが表れており、口をぐっとつむっていた。

「なんでトウリにこんなキケンなことをしたの?まだこの辺のことだって分かってないのに!」
「イルミ」
「こわい思いをして、トウリがかわいそうだよ…」

そう言ってトウリの頭を優しくなでた。シルバに比べたら随分と小さいが、撫でる手の温かさは変わらなく温かい。
眉を垂らしているイルミにシルバはふっと息を吐く。

「トウリはゾルディックに嫁いできたからこそ、それに見合った強さを身に付ける必要がある。妥協や気を抜くことは死につながる。それをさせないためだ」
「これでしんでしまってたらどうするの」
「俺がしっかり見ていたから問題ない」
「…ぼくだってはじめてはコワかったのに」

泣き出しそうに鼻にかかった声を発したイルミを思わず見上げた。同い年くらいの男の子が稽古について弱音を吐くなんて初めてであったため、安堵感を持つ。
怖かったのは自分だけではない、と。

すると、ぐっと身体が引き寄せられる。見ればイルミも同じようになっており、シルバに抱き抱えられて視界が高くなっていた。


「これもお前たちを強くするためだ。…わかってほしい」

イルミとトウリを両腕に抱き、ぎゅっと筋肉質の腕で締め付けられた。

「…………」
「…………」

2人はシルバの言葉に返すことはなかった。シルバにとって、言葉を返さないと分かっていての発言だった。
しゅん、と効果音がつきそうに2人が顔を下に向けたので、シルバは2人を抱き直し、一歩前へ踏み出る。


「さあトウリ。キキョウが飯を作っているだろうから、それを食べたらもう今日は休みなさい」
「えっ で、でも」
「身体が動かないだろう?休むのも稽古のうちだぞ」
「…はい!」
「イルミは今日のノルマは終わったのか?」
「あ、ゼノじいちゃんに、デンキイスみてもらってた」
「ほう。随分と早かったな」
「もう一段階あげてみろって」
「そうだな。もう少しあげてみよう」


シルバに抱き抱えられながら屋敷の中へ、自分の家へと帰ってきた。中に入ればキキョウが出迎え、笑顔を浮かべて頭を撫でてくれる。

動物との追いかけっこで疲れたトウリは、動けぬ身体をルゥに洗ってもらっている間に眠りについてしまう。
小さな傷が付いた身体は今日の出来事を思い知らせるかのように残っていた。




12.06.10.
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いきなり過酷すぎる(笑)
でも最初に怖い思いをしておくのは今後にもいいと思ったので、怖い思いをしてもらいました。


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