★演者は狭間の中で

・『演者は薔薇園のレストランで踊る』より『演者は狭間の中で』サンプル。
・静雄×臨也。
・運命に縛られている二人の甘く切ない話。
※原作12巻、13巻の内容に絡みますので未読の方はご注意下さい。


【1】

強烈な眩暈に襲われた。
ここは、どこだ。
俺は、何をしている。
その問いには確実に答えられた。じっくりと、ゆっくりと時間をかけて、ひとつひとつ自分自身の手で答えていく。答えるといっても、今までの記憶を振り返る、たったそれだけで良い。
平和島静雄は、真夏の夜に、池袋の建築途中のビルの階段を上っていた。犬猿の仲である折原臨也との決着をつけるために、このビルの外付けの階段を上っている。錆と砂埃を踏みしめ、カンカンと、硬質な音を立てながら。
途中でどこかの暴走族のような連中とすれ違った。臨也に雇われたボディーガードといったところだろうか。
静雄に向かって襲い掛かるかと思いきや、彼らは何もせずに、何事もなかったかのように静雄を無視していた。
そして携帯電話に着信が入った。臨也の言葉内容は思い出せるわけがなかったのだが、自分は確か、別れを告げた気がした。最後に残しておいた理性の部分を凝縮して告げた。
電源を切ったあとは、また着実に足を踏み込んでいた。ビルの最上階を目指して。
そう、ここまでが眩暈の前だった。
静雄は、静雄としての意識を取り戻した。やはり右腕の感覚がない。痛みも麻痺していてわからない。記憶の糸を紐解いて知った、あのフォークリフトの一件は真実だった。
静雄は一度立ち止まる。階段の踊り場だ。ここからあと一階ほど上れば、臨也の元に辿り着けると嗅覚が告げている。臨也を殺せと、そう溜め込まれた怒りは言っていた。
だがそれは今の静雄の怒りではない。眩暈がする前の話だ。
今は違う。一刻も早く、臨也を見つけなければならない。眩暈のする前、そしてそれより以前の言葉を、静雄は思い出したからだ。忘れてなんかいない。
眩暈が治まってきた。負傷した右腕以外が全て動くことを確認した。自分の体が自分のものであることを再確認して、安堵した。
同時に右腕に痛みが襲い掛かったが、それよりも先にすることがあった。眩暈がしたということは、暫くの猶予があることを知っているからだ。
今の臨也なら、自殺することだって厭わない。静雄を殺さぬためなら、いくらでも自分を犠牲にするだろう。
静雄は臨也を探そうと、臨也の匂いを探す。近いことに気付いた時、ふいにその匂いの在り処が揺れた。
瞬間、静雄の視界に臨也の体が映る。その体は何にも支えられていない。
ただ、落ちていく。自分より上の階にいた臨也が、落ちていく。静雄は階段の鉄柵を乗り越えるより先に体全体でそれを吹き飛ばした。そのまま臨也を追って飛び降りた。
重力に引き付けられたせいで、びゅう、と耳元で風を切る音を聞いた。臨也は目を瞑ったまま落下していく。
静雄はその名を呼びながら、動かすことのできる左手を伸ばした。手首に触れた。
そのまま、ぎゅっと掴むと、人間離れした力で臨也を引き寄せる。
そしてそのまま、よろめきながらも地面に降り立った。アスファルトに打ち付けた足がビリビリと震える。二人分の体重を支えきれずに、思わず踏鞴を踏んだ。
その揺れの中で、腕の中の臨也が目を開ける。

「迎えに来てくれたんだね」

臨也は静雄の顔を見つけて微笑んだ。安心したように、そして少し寂しそうに笑う姿を、静雄は誰にも見せたくなかった。
ヴァローナと見知らぬ二人の女が物音に気付き、此方に目を向けた。初老の男は未だに地面に座り込んでいる。
その驚きと戸惑いを隠せない視線から静雄は逃れようと全力で走り出す。臨也を抱えたまま。
静雄は、右手は動かないままだが、自分の意思で自分の足が動くことに喜んだ。
臨也は誰にも殺させはしない。自殺にも、そして静雄自身にもだ。



「いただきまーす」
「いただきます」

手を合わせる。そして、早速とばかりに椀に箸を入れた。
蕎麦を摘まんで、つるりと食べていく。
臨也が一口分だけ頬張って飲み込むのを見て、静雄もずるりと蕎麦を啜った。

「うめぇ」
「でしょ?ちょっと奮発して良いところのお蕎麦屋さんの麺にしてみたんだ」
「お、おう」

臨也の方が舌が肥えているので、彼が言うことに偽りはないのだろうが、静雄からしてみれば静雄は普段食べている安物の蕎麦と大差ないと思ってしまった。味に差異を感じられなくなってきているのかもしれない。そういう意味では味覚が鈍くなったともいえる、この体は不便だ。
けれどそれ以上に静雄は、またこうして揃いの箸で食事ができることが嬉しかった。小さなネコの柄がついた箸を動かしている臨也と同じように、静雄は小さなイヌの柄がついた箸を持つ。そのことが何よりも嬉しい自分は単純だと思う。
麺が伸びるよ、と臨也は静雄の手が止まっているのを指摘する。慌てて静雄も年越し蕎麦をかき込む。汁は既にぬるくなっていた。
先に完食した臨也の椀から、静雄はエビ天の尻尾を掴んで口に放り込んだ。臨也はエビの尻尾は食べずに残す。そんな些細なことを知れることも溜まらなく嬉しい。そして、静雄が臨也のエビの尻尾を食べても、ちらりと視線を向けるだけで何も文句を言わないことも嬉しかった。

「今日、デザートもあるんだよ」

そういって臨也は冷蔵庫に紙箱を取りに行った。年越し蕎麦を二人で作った時に入っていたのを静雄は目にしているが、その中身何なのかは知らない。
帰ってきた臨也は平たい白い紙箱を開ける。すると小さなカップに入った手作りのプリンが所狭しに並べられていた。
うまそう、と静雄がプリンを掴もうとすると臨也はその手を制す。

「あ、ダメだよ、これちょっと特殊なプリンなんだから。先にルールを説明しないと」

ルール、と鸚鵡返しのように静雄が繰り返すと、臨也は得意げに、ロシアンルーレットって知ってる?、と尋ねてきた。

「普通は銃の中に、ひとつだけ銃弾を入れて交代に打ち合っていく度胸試しのゲームなんだけど……そうじゃなくて、これはテレビとかでよくある方。ロシアンプリンってところかな」
「ヴァローナとかも食ったのかな」
「ロシアンルーレットのロシアだからロシアはプリンと直接関係ないの」

臨也は苦笑しながらも静雄にひとつひとつ説明していった。

「この十個のプリンは、殆どはただの普通のプリンです。でもたった一つだけ、特別なプリンが入っています。俺とシズちゃんで、交代でひとつずつ食べていき……特別なプリンに当たらなかった方が勝ち、ってことになります」
「特別なのに?」
「特別だけど」

臨也は静雄にスプーンを渡すと、さあどこからでもどうぞ、とニヤニヤ笑顔を浮かべながらプリンを食べさせる。

「プリンうめぇ」
「あれ、ハズレ……というかアタリだったんだね」
「これ手前が作ったのか」
「こんな手の込んだ仕掛け俺の他に誰ができるっていうの?あ、アタリだ」

プリンを口に運んで、少し砂糖を入れすぎたかな、と臨也は呟くが静雄は喜んで食べているようなので気にしないことにする。
六個目までは順調にアタリのプリンを食べ続けた二人は、七個目のプリンを食べていく。

「緊張してきた?」
「もっと食いたいくらいだ」
「じゃあ俺、八つ目食べるからね」

そう臨也がプリンを食べた瞬間、うっ、と呻いて大きく咳き込んだ。慌てて静雄は噎せた臨也の背中を擦ってやる。
どうやらハズレたのは臨也の方らしかった。プリンの色が少し緑色掛かっているように見えた。

「何いれたんだよ」
「ワサビ……」
「手前、俺がワサビ嫌いなの知ってただろ」
「わざとです」

手元にあった緑茶のペットボトルを開けて口に含ませてやると、やっと落ち着いたのか、臨也はゆっくりと溜息をついた。

「ごめん、ありがと」
「他に問題は?」
「ない。ごめんね、本当に」

机の上にはスプーンと食べかけのプリンが転がっていた。静雄は迷わずハズレのプリンを食べる。
食べなくてもいいのに、と臨也は止めようとするがそのまま食べ続けた。ツン、と鼻に来る。

「涙目じゃないか。もういいよ、食べなくて」
「泣いてねぇよ。それと食べ物を粗末にすんな。作った人に悪いだろ」
「ごめんね」

全て食べきってしまう静雄は改めて律儀な人だと臨也は実感した。面白半分に作っただけなのに、きちんと自分に感謝してくれていることを知ると少し頬が赤くなる。そういう人だと昔から知っていたが、それでもだ。
プリンを食べきった静雄は、しょげている臨也の両脇を掴んで軽く抱き上げる。
わっ、と声を上げて驚いた臨也をそのままに、炬燵に入る。炬燵と静雄の間に臨也が座る形になる。
予め温められていたらしい炬燵のぬくもりを感じながら、臨也はほっと息を吐いた。暖房のない静雄のアパートではこれしか暖を取る方法がないので、息は少しだけ白かった。

「こっちは気にしてねぇから、あんま気にすんな」

そうして静雄が優しく髪を手で梳いてやると、臨也は安心したように背後の彼に背を預ける。
点けっぱなしのテレビでは毎年恒例の大晦日特別番組が映っていた。はじめは臨也も、心臓を捧げよ、とか、イエーガー、とか楽しそうに歌番組を見ていた が、やがて眠くなってきたのか、静雄の他愛ない話に生返事をするようになった。
風呂も済ませてあるので、そのまま寝かしつけてやろうと静雄はテレビを切った。
すると臨也は、まだ起きると言ってリモコンを持とうとするが、それより先に静雄にリモコンを奪われてしまう。

「年越しするまで起きるの」
「あと一時間もあるだろ」
「眠くないもん」
「毎年似たようなことやってんだから、そんな気にしなくても変わんねえよ」
「ねむくないもん」

臨也は否定しているが、その瞼は重そうで、ゆっくりと言葉を返すようになる。
これはダメだな、と判断した静雄はそのまま臨也をベッドに運んでしまう。
その途中でじたばた暴れ始めた臨也は静雄に殴りかかるが、ぺちょ、と平手が頬に触れただけで終わった。その攻撃に静雄がくっくっと笑うのを見て、臨也は気分を悪くするが、決して本気ではない。

「ベッドの中で年越し待ってやる」
「それまで起きてられればいいけどなあ」
「がんばる」

それが今年の臨也が発した最後の言葉だった。三分と経たない内にすやすやと寝入ってしまった臨也の横で、静雄もベッドに入る。とろとろとした眠気が訪れて、すぐに眠れそうだった。
臨也が風邪を引かないように、多めに布団を被る。
二人で眠るとベッドも少し窮屈だが、密着すればどうということもない。静雄は臨也を抱きしめると、ゆっくりと目を閉じた。



高校生の頃。ある時、静雄は唐突にやってきた。武器となる物体を何一つ持たず丸腰のままで。
秋風が心地よかった気がする。
臨也は、これから校舎を地面から引き剥がして武器にしようとでもいうのかと静雄に身構える。
が、静雄が臨也の予想通りになったことはない。彼は臨也の前まで歩いてくると、まるで逃がさないというように、校舎の裏の壁に臨也を追い込むと仁王立ちになった。

「俺と、友達とは言わねえから、知人くらいになってほしい」

あまりの唐突さに臨也は言葉を失う。既に知人じゃないか、と憎らしく答える臨也は動揺している。いきなり何を言い出すかと思えば、休戦協定か。

「今、このまま手前を、このノミ蟲野郎ってぶち殺してもいいんだと思う。でもそんなことしたくねえんだ」
「それは君の自己保身じゃない?」
「その通り、ではある。俺だって育ててくれた親がいるし、弟の将来だってある。こんなところで少年院に送られるわけにはいかない。だから、手前を殺さなくていいようにしたい、ってのはある」

自分の身の安全と家族のために、俺に憎むなというのか。臨也は鼻で笑ってしまう。静雄らしい常識外れな考えだ。
さらに傲慢に静雄は続ける。

「新羅は変態なクソメガネだけどよ、新羅の友達を敵と思いたくねえんだ」

臨也は、その言葉が信じられなかった。化け物のくせに人間らしく、人間を友達だという。百歩譲って新羅が静雄を友達と認めていたとしても、臨也は絶対に認めたくなかった。友達の友達は友達とはならない。
臨也はどうしても、静雄を理解したくもないし、認めたくもない。何故とか、どうしてとか、そういう問題ではない。ただ虫が好かないから、臨也は静雄を嫌うし、静雄は臨也を嫌う。

「それは新羅への気遣いってことだね。友達を大事にすることはとてもいいことだと思うよ。でもそれは、君の中で勝手に新羅を友達だと思って、君が自分自身の中で、独りよがりに解決することであって、俺は関係ないんじゃないかなあ。あまりに一方的すぎて困っちゃうよ」

如何に自分が静雄が嫌いかを捲くし立てる。口はいつだって勝手に動く。自分の頭に浮かんだ感情が、ボロボロと口を伝って零れていく。何故だかは分からない。静雄のことを否定することが、自分の正しい道だと、思いたかった。
それはどうして?
どうしてだろう。臨也は、言葉を吐き出し終わると唇を噛んだ。
何故自分はこんなにも静雄を嫌えるのだろうと。まだ出会ってから半年しか経っていない。その間に彼の全てを理解したような口を利くのは一体どういうことか。
自分の人間愛が足りずに、調べが浅いと突きつけられているようにも感じられた。
人間に対する愛はこんなものではない、と臨也は今の考えを否定したが、それは静雄という人間と化け物の堺に位置する者にも言えるのではないだろうか……。
まるで、本当に口が勝手に動いているかのようだ。そう言えと、静雄を嫌えと、命じられているような強迫観念が臨也を襲う。
そんな臨也のほんの小さな動揺を見抜いたのか、静雄は臨也を睨んだ。

「手前、どうしてそんなにムキになって俺を嫌おうとする?」

臨也は視線を逸らした。視界が勝手に動いた。

「ムキになんかなってないよ。ただシズちゃんは、最初から生理的に受け付けないだけで……」
「最初からっていつからだ」
「そりゃあその、最初に出会った時から、だし……」
「本当にそう思ってんのかよ」

調子を狂わされていく。臨也は自分が経験した、春の出来事は単なる幻だったのではないかと思ってきた。よくよく考えてみれば、どうにもおかしいのだ。
予め平和島静雄という人物が驚異的な力を持つと調べていたけれども、その時までは静雄を否定するつもりは一切なかった。単に興味本位で近づいただけで、おもしろそうな人間なら手駒として活用しようと思っただけだったのだ。
では何故あれほどまでに自分は静雄に敵意を剥き出していたのか。
そもそも、手駒とはなんだったか。臨也は、ふと自分が何者だかわからなくなった。
自分が何故ここに存在しているのか、何をしたいのか、さっぱりわからないのである。指示を受けられぬと知ったロボットのようにうろたえている、弱い自分。
自分の意思で行動しているはずが、本当はただ後ろから操られていただけのではないか。静雄はその隙を鋭く突いてきた。

「やっぱり手前もそうなのか」

臨也も、ということはどういうことか。臨也は心の中で冷や汗をかいた。静雄に心の中を完全に読まれているような気がするのだ。

「自分の考えで行動できないっつーか……。俺は頭バカだから、あまり上手く言えねえけど、気が付いたらそうしてた、とか一時期の出来事が抜け落ちているような、確かに記憶があるのに、無意識の出来事であったような……つまり手前もそういう感じで、最初から俺に喧嘩をふっかけてきたんだろ?」

その通りだ。臨也の心の中がひやりとした。自分の不安定さを見抜かれている。そして静雄もその不安定さの中で生きている。生かされている、といった方が正しいくらいに、自由意志が抜け落ちる時がある――静雄はまさしく今の臨也の状態を的確に言い当てていた。
自分は二重人格で、何か明確に目的を持ってはっきりと行動できる人格と、そうでない人格の二つを抱えている、そう言っても過言ではない程に、春の自分と秋の自分では立場も意識も違ったのだった。
臨也は何も言うことができなかった。沈黙は肯定の証である。静雄が自分と同じような悩みを抱えていることを知って驚いただけではなく、この人物は一体なんなのだ、という根本的な問いが目まぐるしく頭の中を駆け巡っていた。
そして、よく相手を知らぬまま勝手に攻撃を仕掛けようとしていた自分自身にも驚く。
自分が何をしているのか分からない。自分が自分でないような、そういう毎日を過ごさされていた春があったことが、臨也を怯えさせる。無意識に体を乗っ取られるという超常現象にも似た何か。

「運命が、怖いのか」

臨也は答えられない。そうだ、と答えてしまえば楽だとは理解している。だが臨也は、何故か無意識的に口答えしてしまっていた。

「こわくなんてないし」

口が勝手に動いて余分な言葉を零す。その言葉に意味は殆どなかった。中身のない無機質な強がりが、ボロボロと唇を伝っていく。

「手前は無神論者なら、運命くらい跳ね除けるんじゃねえのかよ」
「俺が言ってる神様は、仏様とかキリスト様とか、そういうのであって……別に信仰心を抱く人間だって好きだから、その対象である神を悪く言ったりとか、そういうつもりは……」
「嘘つけ」

全然的外れじゃねえか、と静雄が言う。春の、勝手に操られていた切れ者の自分ならこういうかもしれない、という臨也の強がりは途中で途切れて意味を成さない。多角的に早口に捲くし立てることができない自分は、本当の自分なのか、それともこれが本当の自分なのか、臨也は迷っている。
臨也は俯いた。誰かに背中を押して欲しかった。いつもできていたように、ベラベラと静雄を挑発したい……。
いつも?いつもって、いつだっけ。
陽はまだ高いのに、臨也は背筋が凍る。自分が何かに、突き動かされて生きているのだと、静雄の言う『運命』に囚われて生かされているのだと気付きつつあったのだ。何か絶大的な権力に、自分という存在が生み出されて、生かされて、手の上で踊らされているような感覚に。

「臨也、手前は怖がってる。自分が自分じゃないような感覚がする時があるってことに。俺も、そうだ。でもずっと俯いてるつもりかよ」

臨也は顔を上げることができない。静雄に突き付けられた、恐ろしい『運命』という現実から目を背けたかった。しかし彼はそれを許さない。

「そのままそうやって『運命』に従って生きるのか?怯えてんじゃねえよ!手前は俺の宿敵として選ばれた、折原臨也だろ!もっといつもみてぇにしっかりしろ!」

しっかり、ってどうすれば。臨也は弱音を吐く。

「しっかり、してないよ」

自分は、あの春の頃のようにしっかりできない。支柱を失った朝顔のように、くたりと蔓をくねらせている。かつての自分が嘘のようだ。
いや、実際に嘘だったのだろう。臨也は自分の本心を少しずつ吐露していく。

「俺は皆が見てるよりしっかりしてない。大人みたいな素振りもしてきたし、普通の高校生から見たら危ない橋を渡ってもいる。でもそれは俺の時間の中のほんの短い間のこと。本当は、俺も人間だから、普通の高校生らしく迷ったり、悩んだり、そういうのしてるんだ。見せてないだけで」

臨也は無意識で動いていた時期にしか立派な素振りはできなかった。俗に言う悪巧みも今では一切できない。情報屋の真似事だって足が竦んでできやしない。どうして自分がそんなことをする気になったのかもわからないくらいに、今の自分は過去一時の自分より手際が悪いのだ。
今の自分は、あの自分よりずっと不器用で何も出来ない。
それでいてとても人間らしかった。こうして悩んだり、焦ったり、怖がったり、人間臭い部分が今、どろりと静雄の前で垂れ流されている。あの恐ろしく行動力のある自分なら絶対に許さないような、随分と情けない弱みを見せていた。もっとも、かの『運命』が見せさせてくれないのかもしれないが。
静雄はその弱みを見て、それで十分だ、と言う。臨也は何のことかと、驚きながら、ゆっくりと顔を上げる。

「自分の本音ってやつを今ここでぶちまけたんだ、ちゃんと『運命』に抗ってるじゃねえか。それが手前のほんとの本心なんだろ」

こんな頼りない自分が本当の自分なのだろうか。考えれば考える程、そう思えてきてしまった臨也は、あんな超人じみたことは自分にはできない、自分ではないと、『運命』に操られた無意識な自分を否定した。
静雄は、否定しながらも未だに戸惑いの表情を浮かべている臨也に手を差し出した。

「似たもの同志、手を組もうぜ。一時的ならどうってことねえだろ。そんで、勝手にムチャクチャ行動させやがる『運命』に抗うんだ」

今の臨也は優柔不断だ。手を取るべきか迷っている。『運命』にそう簡単に抗えるだろうか。不安も抱える。
けれど静雄にはそんな不安はないらしい。
彼は強い。最強の名は伊達ではなかったのだと知る。

「友達にしてあげてもいいよ、ちょっとだけならね」

口ではそう言いながらも臨也は、臨也を知る周りからすれば驚かれるくらいゆっくりと、その手に指先だけで触れてみた。振り払うだろう運命を退けて、触れてみた。
静雄はその手を握る。
こうして無意識に争い、意識的に行動を共にする奇妙な二人が生まれた。




(中略)


【3】

池袋という街は、二つ存在する。
もう一つの世界と言うべき、その世界に足を踏み入れる時、激しい眩暈に襲われる。
見た目は普段自分達が暮らしている世界となんの変わりもない。路上に立ち並ぶ標識の数も、路地裏に住む野良猫たちも何一つ変わりはない。
異なる点はただ一つ、何かしらの事件が次々に起きるということだ。
全て最初から仕組まれているようにリズミカルに事件は起きる。首無しライダーの出現をはじめとして、カラーギャングの抗争が、切り裂き魔事件が、もう一つの世界では十年分の街の出来事を圧縮したかのように頻繁に起こるのだ。
何かの撮影ではないのだろうかと錯覚する。もう一つの世界は、そのために用意された『舞台』のようなものなのかと。
『キャスト』として選ばれた人間だけが、その地に入り、踊れと命じられている。予め決められた振り付けを演じろと、神という架空の存在を超える何かに動かされている。
その間に自らの意識はなく、勝手に演目は始まり、勝手に演目が終わる。自己の信条を無視して勝手に『舞台』に立たされる。
公演が終わり、気付けば、知らない間に起こった出来事を無理矢理記憶していて、いつの間にか付けられた傷を背負っている――二人はそれを『運命』と呼んだ。

「おそらく、俺たちがもう一つの池袋、つまりは『舞台』で上手く踊れるのは運が付いているからじゃないかな。『運命』という神様が必ずできると、背中を押してくれているような。その時に俺たちが、街が、鎌鼬に切りつけられたように知らないうちに謎の傷を負ったとしても、それは治療すべき致命傷ではなく、次の公演への伏線になるわけ」

静雄の足の間に座らされた臨也は、温風に髪を遊ばせながら自らの見解を語っていた。
風呂上がりに、臨也は唐突に喋り始めた。自らの抱える不安を、静雄と共有することで少しでも取り除きたかったのだろう。限られた人物だけが体験できる超常現象を理論的に説明しようとすることで、怖くないと自分に言い聞かせている。墓場の青白い人魂を、あれはプラズマだと論じるように。

「俺たちが『舞台』で傷つけば傷つくほど、演目は悪化していくように思うんだ。それは俺とシズちゃんだけじゃなくて、自我を失って暴れるようになったセルティとか、重症を負わされた新羅とかもそう。『キャスト』全員が、より大きな混沌に巻き込まれていくようになった今、三日後の演目では命の保障はないのかもしれない」

静雄は臨也の、命の保証がない、という言葉に小さく反応したが、臨也に悟られないように黙って彼の髪を手櫛で梳き続ける。
濡れた臨也の髪は、まさしく烏の濡れ羽色で、静雄の安物のドライヤーで手入れをするのは勿体ないくらいだ。

「でもそれは今に始まったことじゃないよね。現実の、そう、この世界ではどうなのかな。『舞台』から下りている今の俺たちは、選ばれなかった観客側の人間と同じわけでしょ。何も起こらない、他愛のない起伏のない池袋で日々を淡々と過ごしている。チンピラに出くわすこともなければ、怖い大人が町を闊歩しているわけでもない、この世界で生きてる。その間の俺たちは観客と同じ、互いを守って傷つけあう可能性のある、不確定要素にしか過ぎないんじゃないだろうか」

「つまりどういうことだよ」
「『運命』が俺たちから目を離している間にも、命や、本来の運命の保障はどこにもないってこと」

おかしいよね、と臨也は笑う。

「『運命』に関ってなければ、こんな当たり前のこと改めて考えたりすることなんてないだろうに、どうして俺はこんなに死ぬことに怯えてるんだろう」

静雄は髪を梳く手を止めて、臨也を抱きしめた。震えてはいないものの、怯えているのがはっきりと分かる。項垂れた首筋はいつもより白く見えた。

「こんなに悩むなんて、女々しいと笑う?」
「それが人間らしいってことだろ。『舞台』の上では、俺たちは何も考えなさすぎだ。予め決められたレールを歩いているようなもんで、そこに明確に自分の意思を持つことも、その理由を考えることもさせちゃくれねえ。機械みたいなもんだろ」
「シズちゃんも人並みに考えたりするんだねえ」
「俺は人間だ」
「その答えは、今は保留にしよう」

無理しているのか、乾いた声で笑う臨也が痛々しい。
何も不安になることはない、自分がついている、と静雄は声を大にして言いたかったが、臨也の言うとおり、次の『舞台』ではその保障をされないことを静雄は知っていた。あの時、自分の右腕は完全に折れていたのだから。
何もいえない静雄へ、臨也は弱音を吐露していく。

「シズちゃん、最近ヴァローナって子と仲いいんだね」

静雄はただの後輩だと反論するが、臨也の抱えた嫉妬は大きいらしい。

「君のせいじゃないのは分かってるよ。『運命』が勝手にそうしてるんでしょう。でも悪いけど嫉妬してるんだ。今の俺を忘れたシズちゃんが、『運命』に操られて彼女を好きになっちゃうんじゃないかって」
「そんなこと言ったら、手前だってあの秘書と何かあるかもしれないだろ」
「そうなんだよ。知らないうちに、君や俺が、勝手に知らない人を好きになっちゃうかもしれないんだ。俺にはそれが怖い」

今度は反論できなかった。静雄は胸の奥が冷えていくのを感じた。その可能性がゼロではないことを知っているからだ。
『運命』は選んだ『キャスト』たちにいくらでも干渉してくる。
もしかしたら選ばれたのではないのかもしれない。その『舞台』で踊るために、『キャスト』は作り出されたのかもしれない。そうであるならば誰がどうなろうと『運命』の操る人形である自分たちはどうにも足掻くことはできないのだ。
今、自分たちがこの池袋の居ることができるのは、あくまでも公演のオマケのサービスタイムであり、その『舞台』で過ごすことこそが本来の自分たちの存在意義なのかもしれない。

「君を好きでいることを忘れたまま死ぬのが怖いんだ」

臨也は足を抱えるとそのまま縮こまる。
その後、静雄と臨也は言葉を交わすこともなく、一月七日の夜はそうして終わった。


サンプルはここまでとなります。続きは『演者は薔薇園のレストランで踊る』でご覧いただけます。
『この因縁、立ち入り禁止×7』にて頒布します。詳細は此方


2014.02.19

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