レムの睦言

・幸せ平和島家シリーズ。設定は此方
・デリック×日々也中心。
・全体的に静雄×臨也。他派生も左に同じ。


兄弟の中で一、二を争う引きこもりである日々也がリビングに来るのは珍しい。空のティーポットを抱えて来るあたり、紅茶を追加しにきたようだ。とはいっても、日々也が自分から湯を沸かすことはない。デリックか執雄にさせるのが通例なのだが、デリックはアルバイト、執雄はいつものように散歩と称した脱走をした桜也を追いかけに行ったので、現在日々也の側近は誰もいない。
日々也はソファでサイケと談笑している津軽を見つめていた。視線に気づいた津軽がキッチンに立ち、湯を沸かそうとすると、サイケも共についてきた。

「ひびやくん!おままごとしよ!」

唐突に遊んで欲しい旨を伝えられた日々也は、たじろいでしまうが、たまには兄たちに付き合うのも良いかと思い、了承した。

「じゃあー、さいけがおよめさんでぇー、つがるがだんなさーん!ひびやくんはわんわんね!」
「わんわんって……」

前者二つは理解できたが最後が飲み込めなかった日々也は抗議することも考えたが、ね、いいでしょ?、というサイケに口答えなどできない。ここで駄々をこねてぐずついたら後が大変なのだ。
津軽が薬缶を火にかけると、三人はソファの上でままごとを始める。

「さいけはおくさんだから、おゆーはんの、おこんだてかんがえなきゃなの!みんな、なにがいーい?」
「肉じゃが」
「ミルフィーユが良いです」

ミルフィーユと即答した日々也に、サイケは、だめだめ!、と怒る。

「わんわんは、わんわん!ってわんわんしなきゃ、めっ!」
「ま、まかろんがいいです……わん」
「だーめー!!わんわんわん、ばうわう!はっはっは!あんあん!」
「わんわ……んお」

犬は犬らしく、犬語を強制される羽目になった日々也は、ちょっと待ってください、とタイムを入れた。

「何故僕が犬という配役なのですか?互いの意思の疎通に困ります。娘とか、妹とか、姉とか、お姫様とか、もっと人間らしくても良かったのでは」

日々也の言うことは尤もだが、サイケはサイケなりの回答を出した。

「だってひびやくん、なぁーんにもできないもん。ごはんも、おせんたくも、おそうじも、なぁーんにもできないもん。それじゃ、おくさんにはできないもーん」

正論だった。確かに日々也は、周りの人間に命令しているだけで、自分から働いたことは一度もなかった。サイケは家事を積極的にやる方ではないが、まさに主夫といった働きをする津軽についてまわっているので、見様見真似程度でなら家事はできるのだろう。

「それに、つがるのおよめさんはさいけだけだもん!さいけのおままごとは、さいけとつがるのらーぶらーぶなおはなしじゃなきゃだめなの!」
「サイケ」
「なんでつがるおこるの?さいけわるくないもん。せかいでいちばーんらーぶらーぶなの、さいけたちなんだもん。だからいいんだもーん」

リアルが充実している人間は、時に爆発するべきだ。日々也は呆れて物が言えなかった。黙ってソファから離れることしかできなかった。



日々也がリビングを離れる頃、キッチンで臨也を見つけた。湯が沸いたのか、先程の薬缶の火を消している。

「アプリコットでいいの?」

ティーポットの茶葉の話だと気づいた日々也が頷くと、臨也は慣れた手付きで茶葉を入れ、湯を注いだ。暖かそうな湯気がキッチンに立ち上る。その光景も、ただじっと見ていた日々也に、臨也は、サイケに追い出されたのか、と尋ねる。

「サイケのおままごとはちょっと理不尽だからねぇ。なんて言われたの?」
「今回のことは、僕の方が悪いです」

日々也は一部始終を母に伝えると彼は暫く考える素振りを見せた。

「別に家事ができることが絶対、ってわけでもないと思うけど、まあ、一般的に通用する母親像というのはそういうものかもしれないね、特におままごとにおいては」
「どうしたらいいでしょうか」
「おままごとくらいで気にする必要はないんじゃないかな、単なる子供の遊びだから」

でも、と臨也は付け加える。

「花嫁修行くらいしても、人生の損にはならないよ」

日々也は、童話の世界に憧れて育った子供だ。幼い時からずっと父に絵本を読み聞かされていた。だから人一倍、お姫様だとか、お嫁さんだとか、そういうものには敏感である。服装は王子様でも、心の底では童話の主人公に成りたがって育っていることを母は知っていた。その点では、彼の言葉選びは的確であったと言わざるを得ない。

「ミルフィーユの作り方、教えて下さい」

日々也が頭を下げることなど、年に一度あれば良い方だった。決意だけは硬いらしい。



参ったなあ。臨也は溜息を付いた。床から壁から天井まで、真っ黄色だ。昨日特売で買ってきた卵が、全て無駄になってしまった。大所帯の平和島家では卵一つだって惜しい。
好物であるミルフィーユを作りたがった日々也は、卵を割ったことがない。ミルフィーユを作るのにも必要だから、と臨也はまず卵を割る練習として卵焼きを作らせたのだが、この惨事だ。卵が割れることも知らなかった日々也は、全てのタマゴは自転車に乗って孵化させるものだと思っていたらしいから、とんだゲーム脳である。

「ひ、日々也、もういいよ。次はお味噌汁にしよう?」
「ミソスープ」
「そう、お味噌汁。美味しくて簡単だから、そっちをやってみよう?」

日々也は臨也を見るなり、顔を青ざめさせた。

「あ、頭を抉るのですか……?」
「誰も脳とは言ってないよ」
「お母様はNOですか!?では誰のミソを使うのですか!?」

ダメだこいつ、早くなんとかしないと。臨也の頭痛は激しさを増すばかりであった。



「お洗濯、ですか?」

夕焼けで赤く染まりながら、窓際で家族全員の分の洗濯物を取り込んでいる月島は突然の日々也の注文に驚きを隠せない。

「うむ。洗濯の方法を学ぶことも、たまには良いのではないかと思ったのだ」
「といいましても、お母さんが洗濯機を回して、私が干して、それを取り込んでいるだけなので、特別なことはしていないのですが」
「それが大事なのだ」

月島は機械を触ることを禁止されている。父親のあの力が別の方向に暴発したのか、産まれた時から機械に触れると何故か爆発させる腕を持っている。機械音痴という括りで当て嵌めるには月島はあまりにイレギュラーすぎて、すぐに機械を扱うのをやめさせられた。
そんな彼が家の中でできることは限られている。津軽と同じく社交的な方でもないので、大学から帰ると洗濯をする係にもなっていた。
だが、平和島家は両親と八兄弟の大家族だ。洗濯物を取り込むだけでも一苦労である。何の気紛れかは分からないが、今日は日々也が手伝ってくれるというので月島は有り難く手を借りることにした。

「では、まず、ここに干されている衣服を全て取り込みましょう。その後、畳みますから」
「わかった」

日々也は、このくらい余裕だと言わんばかりの顔で、ハンガーごとシャツを取り込んだ。乾いた衣服から、よく干された匂いがして気持ちが良い。新宿という都会で、これだけ日を浴びることができるのは高層マンション、それも室内干しでも乾けるだけの日当たりの良さだからだ。外出することも少なく、その名に反して陽の光を浴びることの少ない日々也には、こういった日常の風景だけでもとても新鮮だった。
ハンガーをつけたまま、せっせと洗濯物を下ろす日々也だが、途中でハンガーの先が何か白い布に隠れているのを見つけた。白い布をそのまま視線で辿っていくと、長い一枚の布であることがわかった。月島の白いマフラーである。

「日々也さん、どうかしましたか?って、ああ!」

ハンガーを月島のマフラーに引っ掛けてしまっていたらしい。月島は慌ててマフラーの裾からハンガーを取り外すが、時既に遅し、一度空いた穴は綻んでますます大きな穴を作っていた。
謝ろうとする日々也に月島は先に、大丈夫です、と苦笑して見せた。その反応にどうしていいか分からない日々也が俯いていると、リビングの扉が大きな音を立てて開かれた。

「月島、大丈夫!?今マフラー五センチくらい穴空いたでしょ、ケガしてない?誰にやられたの!?」

月島を見つけるなりその背に抱きついて、大声で月島に問いかけているのは六臂だ。そして日々也を見つけると、憎悪に燃えた目を向ける。あまりに素早い対応に、とても同じ引きこもりだとは思えない。

「お、ま、え、か」

六臂は日々也に掴みかかり、いつも持ち歩いている鋏を首筋に突きつける。

「あんたが月島のマフラー解いたんだね、月島の大切なマフラーを。俺が、愛という愛を注ぎ込んで作った大事なマフラーを。すべての網目にセンサー付けて、GPS入れて、毛糸の一本一本に俺の髪を混ぜて紡いだ、究極の愛の塊を、あんたが壊したんだ」
「ご、ごめんなさい、六臂お兄様」
「許さない、絶対に許さない。あんたは今ここで、俺が殺してやる。月島に死んで詫びろ」
「六臂さん、私は気にしていませんから、日々也さんを離してあげて下さい」
「やだ、月島ったら優しい、イケメン……じゃなかった。ううん、ダメだよ、月島。悪いやつは皆滅ぼさないと。月島に危害を加える身の程知らずは骨まで擦り下ろさなくっちゃ」

鋏の冷たい感触に息を飲んでいる日々也を見て溜息をついた月島は六臂を引き離す。両肩を月島に触れられた六臂は月島を見上げるなりうっとりと恍惚そうに微笑む。

「なぁに?月島。そんなに俺のこと恋しかったの?そうだよねぇ、月島は俺が大好き、俺は月島が大好き!二人は運命なのさ。誰の入る余地もない。月島はこうやってずっと俺の肩だけ抱いてればいいんだよ。勿論、ベッドで抱いてくれてもいいんだけどね。というかそうして?」
「日々也さん、此方こそごめんなさい。マフラーの件は大丈夫です。お洗濯については、また今度、お手伝いをお願いしますね」
「あっ、月島ったらまた余所見して。ねえ、俺が一番じゃないの?どうしてこんなやつに話してるの、どうして俺のこと見てくれないの?そんな月島も好きだけど、ちょっぴり、本当にちょーっとだけ、嫌いだよ。ちゃんと俺のこと見て、かわいがって。ねえ、ねえ」

月島の言葉、行動ひとつで六臂の視界は様変わりする。全く日々也に興味がなくなった六臂は、月島の前で体をくねらせているだけだった。六臂を尻目に、静かにその場を後にした。日々也が月島から洗濯の技術を教わるにはまだ早かったらしい。



日々也がリビングを出て、自室に戻ろうとするとき、玄関の向こうから喚く声が聞こえる。どうやら放浪者が囚われたらしい。玄関が開かれて入ってきたのは仕事帰りの静雄と、それから執雄と、その間に挟まれた桜也だった。桜也はじたばたと暴れながら、離せ、と叫んでいるが二人に押さえつけられているので目立った成果は出せていないようだった。
日々也は父の帰宅に合わせ、お帰りなさい、お父様、と深々と礼をする。静雄は桜也を羽交い絞めにしながら、ただいま、と明らかに疲れの見える声音で言った。

「離せ、離せ!でありんす!」
「桜也、手前、いい加減にしろ。毎度毎度、放浪しやがって。皆がどれだけ心配してると思ってやがる」
「あっしはただ散歩に出ていただけにありんす!」
「だからその散歩が問題だっつってんだろ。服は汚すわ、痣は作るわ、全く、親に心配かけんな」
「ぐぬぬ」

桜也には脱走癖がある。母親に似てやたらに好奇心旺盛なようで、いつも面白そうな景色を求めて散歩、もとい放浪を繰り返している。一度、外に出てしまうと三日、長くて一ヶ月は帰ってこない。夜にはどこかの駅や公園で野宿をしているらしいが、いくら喧嘩が強いといっても一人で寝ているのは危険極まりない。両親は、桜也が散歩に行くと血眼になって探すが、桜也自身はそれを知っているのかなかなかしっぽを現さないので捕まえるのは至難の業なのだ。何度叱っても縛っても構わず逃げ出すので、最近は諦めたのか、桜也の捕獲は専ら執雄の仕事であった。
廊下に投げ出された桜也は、ぷんぷんといった効果音が似合う怒り方をしながら、執雄と共同で使っている自室へ入っていく。

「おい、桜也、ちゃんと風呂入れ。もう何日も入ってないだろ。服も泥まみれなんだからよ」

不機嫌な桜也は背を向けていたが、くるりと振り返って、んべえー、とアカンベをしてみせる。そして荒々しく部屋の戸を閉めた。東京に住まう流浪の民として生きる桜也にとって、口うるさいのは好きではないようだ。
父は大きな溜息をつくと、桜也が汚していった廊下に落ちた大きなゴミを拾い集める。

「ったく、こんなにゴミだらけにしやがって」

一部始終を見ていた日々也は静雄に、自分が掃除すると申し出た。

「日々也のせいじゃねえんだから、しなくたっていいのによ。悪いな」

執雄と協力して廊下を掃除してくれ、と頼まれた日々也は良い機会だった。
執雄はそれはもう何でもできる。文字通り、大体のことは完璧にこなすのである。執雄はあくまでも桜也の執事だが、同時に日々也の世話も焼く。今日のように、桜也を探すために外出している時以外は日々也の供として常に隣に控えている。一緒に居る時間が長い故に、執雄の天衣無縫さを日々也はよく知っていた。彼にならば、上手い掃除の仕方も習えるだろう。
仕事上がりに桜也を探すという、大事ながらも厄介ごとを押し付けられた静雄は、臨也に抗議するつもりなのか、次第に沸々と怒りを湧かした。臨也くんよ、と怒鳴りながらドスドスと廊下を歩いていくのを見送った二人は、桜也が散らかしたゴミと泥を、さてどうしようか、と腕を組んで見下ろすしかなかった。
日々也は家事に関しては全く知恵の無い頭を振り絞って、雑巾、という単語を思い出す。

「とりあえず、雑巾がけでもすれば良いのか?」
「そうなりますが、まずは掃除機でゴミを取るのが先決でしょう」

暫くの間を置いて、執雄は初めてカメレオンを見た人のように驚いた顔をする。

「日々也様が雑巾がけをなさるのですか?」
「なんだ、文句でもあるのか」
「滅相もございませんが、雑巾がけなど、わたくしが請け負いますのに」
「た、たまには、掃除でもしてみようかと思ったのだ」

明後日の方向を見ながら日々也は言うと、雑巾の在り処を執雄に尋ねる。執雄が手早く掃除機をかけたところで、日々也は真水に浸されて冷たくなった雑巾を床に置き、しゃがむ。

「これで走れば良いのだな」

日々也の、力仕事などしたこともない華奢な腕に、ぐっと力が込められる。

「では、参る!」

強く廊下を蹴る。日々也が、たったった、と廊下を磨いていく姿を見た執雄は、あ、と声を漏らす。その瞬間、日々也は、すてん、とひっくり返った。

「いたい!」
「日々也様!」

執雄が飛んできて、日々也を床に座らせる。幸い、目立った怪我はなかったので執雄は安堵した。

「日々也様、雑巾はこのように、もっと力を込めて絞らねばなりません。落としきれなかった水分が廊下に溜まってしまうと、足を滑らせてしまいます。転びやすくなりますし、大変危険です」
「そ、そんなこと、一億年前から存じておったわ。痴れ者め」

執雄が案じた通りに転んだ日々也は悪態をついて、そっぽを向く。しかしその声に元気はない。失敗が連続するばかりで、日々也は良い気になれなかった。執雄が、日々也を立たせようと差し伸べてくれた手を振り払い、日々也はすっくと立ち上がった。

「僕は、失敗なんかしていない。精一杯、やることはやってやった。それだけでも十分な進歩なのだ!」

彼は俯きながらぼそぼそと声を絞り出す。

「僕は王子だぞ。こんな雑多な仕事など、する必要なんてあるわけがないのだ。全て愚民にやらせれば良い。僕だって、本気を出せばこれくらいやれる。だが、愚民の前で本気になってはならぬのだ。王子たるもの、常に民よりも余裕を見せていなければならぬのだ……」

文面では傲慢そのものだが、常に日々也に付き添ってきた執雄には、虚勢であることは分かっている。日々也は言動とは裏腹に繊細で傷つきやすい。きっと自分の居ぬ間に、誰かから何かを言われたのだろう。だから執雄には、雑巾がけをもう一度試してみることを勧めることはできなかった。

「執雄、後は執雄がやれ。僕は先に部屋に戻る」
「畏まりました」

日々也はそれきり黙ったまま、自室へ戻ってしまった。
彼はプライドが高い。人前では決して涙を見せない。しかし、すん、と小さく鼻を啜ったのを執雄は知っている。



モニターに書かれた数字が移り変わっていくのにも、日々也は全く興味を示さなかった。画面さえ見れば勝機があったゲームを、この数時間、全く放棄している。
日々也は優秀なデイトレーダーである。外界に興味があるわけではない。単にゲームのひとつとして遊んでいたら、何時の間にか勝ち続けてしまっていただけだった。毎日の生活のほんの少しの合間だけ、見ているだけで的確に利益を上げていく日々也にはその手の才があることは確かである。何も知らぬ他人からすれば、強盗してでも盗みたくなるような額が毎日振り込まれてくる。マウスをクリックしただけで幾千が動き、幾億が増える。だが、どんなに大量の財産を持っていたとしても、日々也にとってはそれはただのゲームでしかない。彼は、長年の隠遁生活で培ってきたコンピューターとゲームの知識以外は全くの不器用だった。
空より高いプライドを持つために、心の奥底で眠っている気持ちを吐露することなどとてもできない。サイケや六臂にはそれができるのに、自分には何もできなかった。臨也のように愛想笑いもできなければ、桜也のように憎めない性格になることもできない。それだけでなく、今日試してみて分かったのだ。炊事、洗濯、掃除といった基本的な生活スキルも皆無であるのだと。日々也は、金で無機質に人を雇い、命令することはできても、本当は一人では何もできない、ちっぽけな存在だった。それを嫌というほど思い知らされて、あれからずっと膝を抱えて豪奢な椅子に座っている。
昼の残りの紅茶も喉を通らず、夕飯のキャロットケーキも断った。食べさせてくれる存在がいなければ、食事すら取れないのだ。金で釣るか、暴力で従わせるかしなければ日々也は食べることができないのである。花嫁修業だなんてとてもできるわけがなかった。
それでも日々也がそれに挑んだのには理由がある。家来の浮気防止である。朝起きては好きだと言い、昼食を食べては結婚しようと言い、夜になれば関係を持とうと言ってくる、あの小生意気で最低最悪な愚かな家来である。どうせホストとかいうわけのわからない仕事先で、客相手にも同じ事を言っているのに。でもある時それは、自分に魅力がないからかもしれないと思った。自分だけを見ていてほしくても、それをしてくれないのは、それに値するだけの魅力がないからなのだと思った。王子が臣民より劣っているからだ。だからせめて一般的な花嫁のそれと同じくらいできるようになりたかったのである。サイケに煽られたからだけではない。自分の中で彼が足りなくて、自らにも足りない部分が沢山あることを日々也は分かっていたのだ。
けれども、日々也は苦しくなった。王子は常々完璧だと思われがちだが、そうではない。日々也にだって得意不得意はある。だが日々也は、人間とは適材適所で、得意な部分を伸ばせば良いのだと勝手に免罪符を作って逃げていた。そう言えるのは努力した人間だけであるのに。日々也には、もう自分が何をすれば彼に好かれるのか全くわからなくなっていた。彼の帰りを待ち、おかえりと言ってから眠ることしか日々也にはできないのである。この身からは悪態とほんの少しの単語しか呟けないのだ。



丑三つ時になって、やっとデリックは帰ってきた。大欠伸をしながら、誰も出迎えない玄関を上がる。自分だけが夜型なので、兄弟たちはぐっすり眠っている頃だ。例外があるとするなら、それは津軽とサイケのお熱い行為だけだろう。
靴を脱いでいると、遅くまで伸びた仕事を済ませた母が、丁度、事務所からの階段を昇ってきたところだった。ネコのスリッパをぱたぱたと鳴らしながら此方へ向かってくる。

「おかえり。随分遅かったじゃん」
「ただいまー。変な客に捕まってな。枕すると怒られるから嫌だって言ってんのにしつこいんだよ」
「そんなに人気取れるもんなの」
「ほら、俺母ちゃん譲りでイケメンだからさ」
「全然嬉しくないなあ」

デリックが軽口を叩いてもあっさりかわされてしまうあたり、臨也は何枚も上手である。しかも臨也は、今日は大人しく眠りたいと思っているデリックの心を荒れさせた。

「そういえば今日、日々也が花嫁修業を頑張っていたよ」
「えっ!?なにそれ。えっ。だ、だだだだ、誰の、ための!?」
「さあ?」

臨也はさも面白そうに笑って、人間って良いな、と喜んでは鼻歌を歌った。昔から変わらない、ちょっと小悪魔めいた笑みだ。デリックはそれを見て、かわいいと思いながらも父親は悪趣味だとも思った。
デリックはその横をすり抜けると慌てて日々也と同じ自室に飛び込む。
日々也は、彼のパソコンの前で膝を抱えてぼうっと椅子に座っていた。腫れた瞼が重そうに閉じたり開いたりを繰り返している。

「日々也、ただいま?」
「ん」

眠いのだろう、少し唸っただけでまた黙ってしまう。デリックはそれを見てそのまま寝かせてやることにした。脱いだジャケットをベッドに放り投げようとしたが、日々也の小さい唇から、おかえり、と零したのを聞いて振り返る。

「眠いなら、寝てて良かったのに」

日々也の反応はない。それをいいことにデリックは誰に宛てるでもなく、仕事の愚痴を吐いた。どうせ誰も聞いてないと思って、それなりに赤裸々な話もした。その度に日々也は五秒の時差を置いて、んー、とか、そうか、とか、ばかものめ、とか半分以上眠っている頭で返答していた。本人はデリックの話を聞いているつもりなのだろう。

「まあ、そういうわけでその子を振って来たわけよ。あーあ、今日はほんとに疲れた!こういうやつがいると本当に厄介だよなー」
「ごくろう」
「もうお前寝ろよ」
「いやだ」
「意地張るなよ」

ごにょごにょとよく分からない言葉を話す日々也は、もしかしたら夢の中で宇宙人と交信しているのかもしれない。デリックは日々也を椅子から起こすとそのまま抱きかかえてベッドに運んだ。そうして下ろそうとすると、まだ寝ない、とデリックの顔をぺちりと叩いた。その力はかなり弱い。

「僕は、ままごとなんてできないから、こうしてやることしかできぬのだ」

ままごととは花嫁修業ということだろう。きっとサイケか誰かが日々也を唆したのだろう。デリックは日々也がそれらが苦手なことを知っていたから、余計なことするなよな、と兄を恨む。
日々也のことだ、挑発に乗らされて、上手くできずに失敗していじける羽目になったのだと容易に想像がつく。本当は頑張り屋だから、でも不器用だから、空回りしやすいせいで落ち込みやすい。そして最後には、王子だからと自分を守ったように見えて、まわり回って自分を傷つけたのだ。そうして一周回って、自分にできることは何かと考えた時に、こうして帰りを待って、話を聞いてやることしかできない……、そう日々也は言いたいのだろうとデリックは一瞬で理解した。

「おかえり」

デリックは父とはそれほど仲良くないが、母に関する話を一度だけされたことがある。あいつの考えていることは大体杞憂なんだ、という。今正しくそれが当て嵌まる。成程、やはり親子は似るものだ。
別に花嫁修業なんてしなくたって、十分その素質はあるのに。遅くまで帰りを待って、おかえり、お疲れ様と、そう言うだけで十分花嫁らしいよ、とデリックは思う。



周りが弁当を持って来ないからか、彼は、自分の弁当は目立つと思っている。勿論、それはあまりにもそのまんますぎるメニューだから、ということもある。最初、これを持ってくる時は躊躇したものだ。だが今ではすっかり自分のトレードマークになってきてしまった。
愛妻弁当はバーニャカウダ……という名の生ニンジン。炊事のできない彼曰く、貴様は女の尻ばかり追いかけるあまりに愚かしく情けないマヌケな駄馬だからだ、と言う。せめて馬車馬のように働け、というメッセージもあるようだ。けれども、デリックがどんなに働いてもかの億万長者に勝てるわけがない。
彼はただの大富豪ではない。金に糸目はつけず、ただの娯楽として数字を眺めている。そんな絶対王政を敷く、ウェディングドレスの似合う王子様だ。
眠い目を擦りながら、ばかものめ、と罵る声が愛おしくて、デリックは職場でもニヤニヤする癖をそろそろ卒業したかった。
ただいま。今日も愚痴を聞いて下さい。


2013.12.22

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