mort honorable

・執雄×日々也♀。
・近世ヨーロッパパラレル。


昨晩までの働きにより、より短くなった蝋は燭台の底にインク壺のように溜まっていた。上質な羽ペンも、桃色の天蓋も、金の鏡も、黒檀の本棚も、何食わぬ顔をして彼女の小さな背中を見送ったのだ。
廊下は暖炉を炊いているはずなのに、しん、と冷えていた。待ち構えていた幾人ものメイドが彼女の荷物という荷物を抱えていく。
先導するのは柔和な執事。彼女を両親以上によく知る召使いだった。この家に仕えて十数年、ブロンドに白髪を混じらせていた。
彼女は、見慣れた深緑の絨毯を一歩一歩踏みしめた。二度と生家の地を踏むことは許されない約束を交わされていたのだった。
ヒール越しの柔らかさが数々の記憶を呼んだ。まるで走馬灯のようだ。しかし強ち間違いではない。
公爵が更なる隆盛を望む、それ即ち皇子を産むこと。この世界で最も幸福とされる人生。彼女はそれを手に握らされていた。彼女は生を受けたと同時に屍だったのである。
女は道具。子を孕むことこそが全て。地位と権力、富を得るためならば父は競って娘を売り飛ばす。彼女の父も例外ではなく、母もそうして売られてきた女であった。
誰もが羨む幸福を求めさせられ、体を売らされる。貴族の娘と娼婦は紙一重……僕は貴族の皮を被った娼婦だ、いや、ただの生ける屍だ、と日々也は信じて疑わなかった。そして彼女の胸中をよく知っている執事にそれを託そうと思ったのだ。
メイドが先に外に出て、しぶとく残った私物を面倒そうに馬車に積んでいく。嫁入り道具という名の財宝は何週間も前から父が送っていたはずなのだが、彼女はどうしても自らの草臥れた家財を置いていこうとしなかった、その結果だ。
十四人のメイドがポーチへ向かうと重厚な扉は古めかしい音を立てて閉められた。彼女と執事だけが残った。

「新たな門出に相応しい天気でございますね」
「相変わらず下手な嘘だな」
「失礼致しました」

日々也は執事が喜んでいないことくらい、婚約を謀られた時から見抜いていた。日々也の居ない所で話される親族会議においても、あの暴君には恐れ多い娘だ、と最後まで結婚に反対していた。男の召使いを嫁入り道具に含むなど許されないと定めを知っていたからこそ、だった。

「頼みがある」
「如何なされました」
「これを」

シーリングのない封筒であった。印を施さないことは、この封書が日々也個人のものであると証明するようなものだ。危険性はあれど、庶民も手紙を認めるのが増えた以上、大量に増えすぎた手紙を郵便屋もいちいち中を確認しないだろう、と執事は踏んだ。

「畏まりました」

すぐに胸ポケットにしまう。もうすぐメイドが戻ってくる。それまでに今生の別れを済ませなければならない。しかし此方から声を掛ける術を彼は持たなかった。

「長い間迷惑をかけた」
「とんでもございません」
「婚約の件には世話になった……結果はこうだがな」
「申し訳ございません、わたくしの力不足です」
「貴様は昔から謝りすぎなのだ。今回はドジを踏んだわけでもあるまいに」
「申し訳ございません」

未だに頭を下げ続ける執事に、彼女は鼻で笑った。余所から見れば酷い主人であるのかもしれないが、この繋がりを他人に語られるほど脆くはなかった。
彼女は剣呑に目を細めて言った。

「僕は、絶対に奴の言いなりにはならぬ。たとえそれがお父様を殺すことになっても」
「左様でございますか」
「そこで見ておれ、僕の勇姿を。絶対に、ただでは死なぬ」

彼女は高圧的な笑みを浮かべながら背伸びをして執事の頭を撫でた。白髪を作ったブロンドにその手は小さすぎた。
踵が地に着いた頃にメイドが一糸乱れぬ動きで玄関に戻ってきた。

「お嬢様、支度ができました。参りましょう」
「うむ」

メイドにより開かれた大扉から、街の姿が見えた。歓声の群れ。皇后の嫁ぐ姿を一目見ようと敷地に溢れ出しそうな貧しい庶民。それを抑える騎士たちの腰の剣は抜かれておらず、執り行われる式と、この安息日が頭の大部分を占めているらしかった。
宝石箱に足が付いたような馬車にはこの国の名が刻まれていた。執事に、その扉を開かれた。

「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「ではな、執雄」

扉が閉められた瞬間、執事は素早く囁いた。

「たとえお嬢様が皇后様となられても、この家は、わたくしは、永遠にお嬢様をお待ちしております。いつでもお帰り下さいませ」

馬が痛みに嘶いた。走り出す馬車に、わっ、と歓声が上がる。日々也はみっともなく窓から身を乗り出して、離れていく邸宅を見た。そうは言っても、もう彼に遭うことはできないのだと涙を流した。

「最後まで下手な嘘を吐きよって、大馬鹿者が」

彼は申し訳ございません、と頭を下げ続けていた。


一八二八年十一月、第四皇子の誕生。
仕えるべき主人が嫁いでから四年と数ヶ月が経っていた。
この間、執事は足を悪くし暇を出されていた。老い先短い身で何をするでもなく、パリ郊外の狭い小屋で、時折吹き込む風の噂と園芸を楽しみに一人静かに暮らしている。新聞社と名乗る胡散臭い組織からの日報を片手に彼は粗末なマグカップのココアを啜った。
大きな見出しに溜め息を吐いた。第四皇子。いくら医学が発達しようと何が起こるかわからない世で、黙っていられるだけの余裕を皇家は持ち合わせていないらしい。そのもどかしさの粋が四番目に当たる皇子だった。
主人は年頃の娘とは違い下世話を嫌う性質だった。その清廉潔白の塊が、短い年月で貧民を凌ぐ子宝に恵まれる。それがどういう意味かわからないほど彼は老いてはいなかった。暴君とは、何も人民に対してだけではないのだ。
今頃大旦那は何十と開いた宴会の準備をさせているところだろう。そして皇后に新たな皇子をせびるのだろう。皇后が産み落とした数だけ家は栄えるのだ。
悩ましくなった老人はココアを飲み干すと、如雨露に水を注ぎ始めた。半分まで満たしたところで、雨が降り出した。無駄になった水を再び瓶に戻した。


一八三一年二月、第六皇子の誕生。
客の応対に追われ、老人が日報を読んだのは月が高く昇った頃であった。かつて彼に与えられていた屋敷の屋根裏より惨めな蝋燭は、彼の命と同じくらい短くなっていた。紙面を照らす灯に親近感を覚えたくらいだ。
第五皇子が生まれた頃より更に大きく書かれた見出しに、成程、と頷いた。
今日ここを訪れた使いたちは、この新聞を読んだ主人の使いであろう。男爵や伯爵、はたまた豪商まで沢山の家々が老人の“皇后の育て方”を求めたのだ。
老人は、それらを悉く断った。中には力ずくでも雇おうとした者もいたが、足が悪いと大袈裟に表現してこの小屋を出ようとしなかった。
結局は何もわかってはいないのだ。どの者も、娘を売り、権力を欲しがる亡者でしかないのだった。
老人は大きく咳き込んだ。もう時間がないことを悟っていた。おそらく、主人も。


一八三一年九月、皇后・日々也の崩御。
配達の青年は老人に日報を手渡すのを戸惑った。構わない、と皺だらけの真摯な顔つきを見て、渋々と日報を預けた。青年は逃げ出すように去っていった。

「ああ、お嬢様、御労しや」

老人は、ぽつり、と呟き、涙した。枯れきった体の何処にそんな水分が隠されていたのかと云う程に、堪えてきた涙を溢れさせた。
泣けもせずに散っていった勇姿は確かに立派だった。檻とも見える寝室にて、彼女は自らの胸を刺したのだった。
パリは大騒ぎだった。大旦那は金の雌鶏が自害したと発狂している頃だろう。そしてじきに、奴隷への躾を問質しに、執事を狩りに来るだろう。
こうなることは想像が付いていた。負けず嫌いの主人が何もせずに、ただ従うわけがないのだ。事実、七回目の懐妊の報道があったのは昨日のことであった。
狩人が戸を叩く前に、お帰りになったお嬢様をお守りしなければならない。老執事はペーパーナイフを胸に刺した。
そういえば、印のない封書はどうなったのだろう。
天から、自らを呼ぶ主の声を聞いて、彼は目を閉じた。


2012.12.06

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