『貴方しかいない』

 机上の竹簡を両手で薙ぎ払うと、室内にけたたましい音が鳴り響いた。

 「どうして貴方はいつもそうなのよ!もう嫌、うんざりだわ!」

 紫恋は眼前に佇む男──徐庶に罵声を浴びせると、涙を拭いながら部屋を飛び出して行った。一人部屋に残された徐庶は、ゆっくりと床に散らばった竹簡を拾い集めた。
 喧嘩の原因は、ほんの些細な意見の食い違いだった。今まで度々あった事だったが、彼女がここまで激しく感情を露にしたのは初めてだった。それも仕方がないと思う。いつも曖昧な返事しかできない自分が相手では、我慢の限界にもなるだろう。
 女官の紫恋とは恋仲だったが、正直言って釣り合わない二人だった。身分がどうとかではなく、お互いの性格が不釣合いだ、という意味である。
 彼女は自分と違って弱音を吐く事はまずない。年齢は下だが、しっかり者で面倒見がよく、誰からも慕われている。仕事も率先してやってくれるし、嫌な顔一つ見せずに頼りない自分を支えてくれる。尊敬してしまう程、できる女性だった。
 それに比べて自分は自信のなさが表に出ているような男だ。対照的な紫恋が不満を抱いても不思議ではない。

 「…甘え過ぎていたのかもしれないな」

 徐庶はぽつりと呟き、深い溜め息をついた。
 紫恋といると安心した。いや、本音を言うと楽だったのだ。甘えに甘え、依存してしまった事で彼女を傷付けてしまうなど、男として情けない。本来ならば、守らなければならない立場なのに──。

 ──紫恋を泣かせてしまった。

 拾った竹簡を脇に抱えたまま、徐庶はその場に蹲った。不甲斐ない自分が心底嫌になる。これでは紫恋の重荷になっていただけだ。

 ──もう、離れるべきなのかもしれないな。

 徐庶の脳裏にそんな考えが過った。

 *

 翌日、二人は言葉を交わす事なく公務に就いた。互いに仕事上では普段通り接していたが、徐庶は紫恋を泣かせたという罪悪感で押し潰されそうだった。彼女は今、何を思っているのだろう。そればかりが気に掛かり、この日の公務がいつもより一層長く感じられる。
 一度は別れを決意したものの、徐庶は迷っていた。紫恋を愛する気持ちは変わらず、できれば離れたくはない。しかしこれ以上、彼女の重荷になる訳にはいかない。頭の中でぐるぐると考えが巡るばかりで、未だ答えが見出だせない。

 ──だから俺は駄目なんだ。

 そんな徐庶の元に、諸葛亮が顔を出した。軍師の訪問に周囲が一礼する中、徐庶も急に訪ねて来た旧友に呆然とした。諸葛亮は軽く頭を下げると、すぐに話を切り出した。

 「元直、急で申し訳ありませんが、今度の討伐軍に総大将として参戦してくれませんか?」
 「え…お、俺がかい?」
 「えぇ、知勇兼備の貴方ならば安心してお任せできます。それとも何か都合があるとか?」
 「え、ええと…」

 徐庶はちらりと紫恋の方を見た。目が合ったが、紫恋はすぐに視線を逸らし、執務室の奥へと姿を消してしまった。
 喧嘩はしていても、紫恋も内心では心配したり、喜んだりしているだろうと思った。しかし、そんな甘い期待を突き放すような紫恋の素っ気ない態度。思っている以上に喧嘩で生じた溝は深い。
 徐庶は力なく項垂れ、そしてようやく覚悟を決めた。

 「わかったよ。俺の力が役に立つのなら、どこへでも行くよ」

 顔を上げた徐庶の瞳に迷いの色はなかった。


 それから徐庶はすぐに軍を率いて遠征に向かった。結局、あれから紫恋と顔を合わす機会はなかった。できれば少しでも話をしたかったが、会う時間もなかったし、何より冷たく突き放されるのが怖くてできなかった。
 だが、これも紫恋から離れるいい機会だと思った。徐庶は紫恋への想いを振り切るように、目の前の仕事に打ち込んだ。
 しかし──ひと度時間が空くと、つい紫恋の事を考えてしまう。寝る際も目を瞑ると紫恋の顔が浮かぶ。彼女の眩しい笑顔が、凛とした眼差しが、閨で見る艶かしい姿が、頭から離れない。胸が苦しくなる。彼女を忘れようとすればするほど、想いは一層強くなるばかりだ。

 ──俺は一体、いつまで紫恋に依存するつもりなんだ。

 これでは駄目だ──徐庶は想いを振り切るように固く目を瞑った。

 *

 討伐戦は徐庶が率いる蜀軍の大勝に終わり、ひと月振りに帰還した。祝宴を終えた徐庶は一人自室へと戻った。扉を開けると、誰もいないはずの室内は明るく、同時に澄んだ女性の声が聞こえた。

 「お帰りなさい」

 徐庶の目に飛び込んで来たのは、紫恋の笑顔だった。思いがけない状況に徐庶は動揺し言葉を失ったが、一方で久しく紫恋と顔を合わせた事を喜ぶ自分がいた。

 「紫恋…どうしてここに?」

 平静を装い尋ねると、紫恋の顔に陰が差した。

 「やっぱり、まだ怒ってるのね」

 怒っている──俺が? 徐庶は困惑した。
 何も返せずにいると、紫恋は暗い表情のまま言葉を続けた。

 「また怒るかもしれないけど…あの時、私も限界だったの。だって元直ったら、いつもウジウジしててはっきりしないんだもの。何かあると私にべったりだし、喧嘩の後も私の顔色ばかり窺うし…もう嫌になって…」

 すると、急に紫恋は声を詰まらせた。

 「でも、すぐに遠征で貴方に会えなくなって…気付いたの。いつも当たり前のように傍にいたからわからなかったけど…元直がいなくなって、寂しくて堪らなかった。このまま会えなかったらどうしようって…不安で仕方なかった」

 途端に紫恋の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
 紫恋に依存して負担を掛けたのは自分だ。捨てられても何も文句は言えない。
それなのに、こんな不甲斐ない男を未だに愛してくれていたなんて──。嬉しくて堪らなかった。
 感情を抑え切れず、徐庶は紫恋をきつく抱き寄せた。

 「俺が怒る理由なんて何もないよ、全部俺が悪いんだ。もう依存しないよ、今度は俺が紫恋を守るよ」
 「…そうね、討伐軍を任せてもらうまでになったみたいだし、沢山守ってもらおうかな」

 そう言って、紫恋は意地悪く笑い、徐庶の胸元に顔を埋めた。
 久々に抱き締めた紫恋の身体は相変わらず温かく、柔らかな感触がとても心地良い。胸の奥底から熱いものが込み上げる。彼女を前にすると、どうしても甘えたい衝動に駆られる。

 「あ、でも…時々なら…甘えてもいいかな…?」

 申し訳なさそうにぽつりと溢すと、紫恋は「いいわよ」と言って笑った。

 ──あぁ、やっぱり俺には君しかいないよ。

 徐庶は満面の笑みを浮かべて、しばらく紫恋の温もりに陶酔した。



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