『不器用な恋』

 広大な訓練所から威勢の良い掛け声が響いた。規律正しく陣列を組んだ兵士は一斉に槍を振るい、一寸の乱れも見せない動きは思わず見惚れてしまうほどだ。
 陣列に並ぶ兵士の大半は男性を占める中、ただ一つ別の姿があった。身なりは兵士と変わらぬが、なだらかな曲線を帯びた体つきは女性特有のものだ。しかし、その動きは身長や筋力の差を感じさせないほど機敏であり、他の兵士にも引けを取らない。
 紫恋は魏に仕える一介の兵士である。元々、武芸には多少の自信があり、乱世を終わらせる手助けになればと、戦場に身を投じる事にした。とはいえ、仕官してまだ半年余りで、過去に参戦した戦といえば賊徒討伐など小規模な戦でしかない。いずれ大きな戦で功を立てる事を夢見て、紫恋は日々厳しい鍛練に励んでいた。
 訓練終了の鐘声が鳴った。終礼を済ませて兵舎に戻る途中、背後から紫恋を呼び止める声がした。

 「あの、少しよろしいですか?」

 振り返った先にいたのは紫恋の上官であり、魏の五虎将軍・楽進だった。将軍に呼び止められた事に驚いた紫恋は、すぐ姿勢を正し、その場に敬礼した。

 「楽進将軍、お疲れ様です!」

 緊張に身体を硬直させる紫恋を見て、楽進は柔和な笑みを浮かべて言葉を返した。

 「そう緊張なさらずとも結構ですよ。私は将も兵も一人の軍人と考えていますので、堅苦しい挨拶は必要ありません」

 しかし、将軍を目の前にして無礼な真似はできないと、ぎこちない動きで休憩の姿勢を取った。未だに緊張が解けない紫恋を前に楽進は困ったように頭を掻いた。

 「すみません、堅苦しいのは私の方ですね…性分なもので申し訳ありません」
 「そんな、私なんかのために謝らなくてもいいです」

 頭を下げる楽進に紫恋は慌てて言い寄った。将軍が一介の兵士に頭を下げるなどあってはならない。何より、周囲の視線が紫恋に突き刺さった。

 「あ、あの、それで私に何か…?」
 「実はその…以前から思っていたのですが、紫恋殿の武芸は見事ですね。女性でありながら素晴らしい」

 思わぬ称賛の言葉を聞かされ、紫恋は首を振って否定した。

 「そんな滅相もありません。私などまだまだ未熟者です。大した戦功もありませんし…」
 「いいえ、戦場から帰還するだけでも大変名誉な事ですよ。私が言うのもなんですが、もっと自信を持って頂いて結構です!」

 楽進は己の胸に拳を当て、力強い口調で返した。その熱血振りに、紫恋はようやく頬を緩めた。

 「おーい、楽進」

 遠くで男の叫ぶ声がした。そこには魏の武将・李典の姿があった。李典は手を振りながら二人に歩み寄ると、軽快な口調で言った。

 「よぉ、楽進。そろそろ軍議が始まるぞ…って、何してるのかと思ったら、女の子掴まえて逢い引きの約束でもしてたのか?」
 「な、何を言うんですか、李典殿! 私はそんな不埒な真似は致しません!」

 楽進は顔面を紅潮させ、大声で言い放った。普段は物静かな彼が想像以上の激昂振りを見せたので、李典は目を丸くして肩を竦めた。

 「じょ、冗談だよ、そう向きになるなって。ほら、早く行こうぜ」
 「それでは私はここで。お時間頂き、ありがとうございました」

 楽進は何事もなかったように一礼すると、李典と共に訓練所を後にした。紫恋はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ふと一つの疑問が湧いた。

 ──どうして私の名前を知っていたのかしら?

 楽進の元には旗下も含めると数万もの兵がいる。兵数を考えると、その中で自分の名前を知っていた事が不思議だった。

 ──きっと、私が珍しい女兵だからね。

 紫恋はそう解釈し、納得した。

 *

 それから間もなく、呉が動きを見せたという情報が入った。前線の地、合肥に軍を進めているとの事だった。陣営内の動きは慌ただしくなり、張り詰めた空気が漂う。
時期に大きな戦が起こる──兵舎でも緊張が走った。
 もし大きな戦が起これば、自分もその戦場に赴く事になるかもしれない。不安はあったが、功を立てる良い機会でもある。そして、将軍・楽進に言われた言葉が紫恋の心を奮い立たせた。

 ──楽進様の期待に応えなければ。

 武器の手入れをする手にも自然と力が入る。そんな紫恋の元に軍団長が顔を出した。

 「楽進将軍から呼び出しが掛かった。表でお主を待っておるぞ」
 「は、はい」

 名指しで呼び出された事に紫恋は戸惑いながら兵舎を出ると、表で楽進が神妙な面持ちで待ち構えていた。

 「お時間頂き恐縮です。すでに聞いていると思いますが、呉が攻め寄せて来ました。明後日、私も軍を進めます」
 「ついに戦が始まるのですね。それでは私も戦場に」
 「い、いえ、それは…できません」

 楽進は口籠り、俯いた。

 ──なぜ?

 紫恋は耳を疑った。自分も楽進の軍に身を置く兵だというのに──。紫恋は堪らず問い質した。

 「どうしてですか?女とはいえ、私も一人の兵士です。今まで訓練も重ねて参りました。いつでも戦場に赴く覚悟はできています」
 「此度の戦は魏の圧倒的劣勢…合肥は激戦の地となるでしょう。そのような危険な場所に、女性である貴女を連れて行く訳にはいきません」

 遠回しに“女は不要”と言われた気がした。紫恋は唇を噛み締め、無礼を承知で言葉を返した。

 「それは…私が経験少ない女兵だからですか? 『自信を持て』と仰ったのは、何だったのですか?」
 「そ、それは誤解です! 私は貴女を失いたくないんです!」

 唐突に放たれた意外な言葉に紫恋は愕然とした。楽進も咄嗟に零れ落ちた己の本音にうろたえ、恥じらいから赤面した。

 「すみません、こんな時に…。しかしこの際ですから、私の気持ちを伝えます。いつも真剣に鍛練に取り組む姿を見て、その…勝手ながら貴女に恋焦がれてしまいました。ですから…紫恋殿は私にとって大切な方でして…失いたくないのです」

 兵士である自分に恋情を抱いていたという事実に動揺してしまい、紫恋は言葉を失った。名高い将軍から恋の告白をされるなど、想像もしていなかった。

 「勝手な事をしてしまい、紫恋殿には大変申し訳ない事をしてしまいました。こんな私の心情など、どうでもいいですよね…忘れて下さい。しかし、此度の戦に貴女を連れて行く事はできません…お許し下さい」

 黙り込む紫恋の姿に楽進は力なく呟くと、項垂れたままその場を後にした。呼び止めようと咄嗟に手を伸ばしたが、どう声を掛けるべきかわからず、迷っている間にその姿は遠く離れてしまった。
 決して不快に思った訳ではない。むしろ、こんな自分を想ってくれた事が嬉しい。
だが、相手は名高い武将で自分はただの兵士。どう応じればいいか、わからなかった。

 *

 数日後、楽進は李典、張遼と共に合肥に布陣した。気まずい雰囲気の中、楽進は別の事で頭が一杯で、事ある毎に溜め息をついていた。それに見兼ねた李典は堪らず声を掛けた。

 「おい、溜め息ばっかり吐くなよ。余計に重苦しくなるだろ」
 「すみません、李典殿…」

 “心ここにあらず”といった様子に、李典も釣られて溜め息を吐いた。

 「楽進様」

 戦地にはおよそ似合わぬ澄んだ女性の声が響いた。名を呼ばれて顔を上げると、具足を纏った紫恋の姿がそこにあった。

 「紫恋殿!? どうしてここに…」
 「私も共に戦わせて下さい。私は楽進様に仕える兵です。無骨者ゆえ、戦う事でしか応える事ができません。先日はろくに返事も返せず申し訳ありません。本当はとても…嬉しかったです」

 紫恋は頬を染めながらぎこちなく一礼した。見る見る内に、沈んでいた楽進の表情が変わっていく。

 「あ、ありがとうございます! では、共に駆けましょう! 貴女は私がお守り致します!」

 満面の笑みで見つめ合う二人。その隣で李典が満足気に微笑んでいた事は、誰も知らない。



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