書類を束ねる紫恋の口から溜め息が零れ落ちた。今日だけで一体何度、溜め息を吐いただろうか。
溜め息を吐く度に上官の賈充から鋭い視線を向けられ、大きな舌打ちが聞えた。男の口から舌打ちを聞いた回数も数え切れない。しかし何度注意されようと、紫恋は改める事ができなかった。
溜め息の原因は失恋だった。先日、長年連れ添った恋人との関係に終止符が打たれたのである。私事で仕事を疎かにするなどあってはならない事だが、将来を考えていた恋人との別れは紫恋の心に大きな傷となって残り、立ち直れない状態にしていた。当然、賈充に理由を言えるはずもなく沈黙を通していたが、何分察しの良いこの男は、すでに何かを感じ取っているようだった。
賈充は終始、無言で紫恋の行動を目で追っていたが、ついに沈黙を破った。
「仕事に身が入らぬようだが、何かあったのか?」
一見、気遣うような問い掛けだったが、上目遣いに紫恋を睨み付けていた。
「いえ…別に何でもありません」
紫恋は気のない返事をして、小さく頭を下げた。賈充は反応が気に入らないとばかりに眉間に皺を寄せたが、突然にやりと笑った。
「失恋か」
唐突に放たれた言葉に目を丸くすると、賈充はさらに口角を釣り上げた。この男の洞察力は、まるで人の心を読んでいるようで恐ろしい。
「ほう、図星だったか」
「ち、違います!」
と否定したものの、これほど動揺した姿を見せた後では通用しない。案の定、賈充は含み笑いを溢した。
「失恋如きで落胆するとは、意外と繊細なのだな。もう少し気丈な女かと思っていたが」
励ますどころか蔑まれ、紫恋はじろりと賈充を睨み付けた。少しは優しい言葉を掛けられないのかと思ったが、この男に期待するだけ無駄かもしれない。
長年、女官として仕えているおかげで、賈充とは上官と部下というより『古い仕事仲間』のような関係だ。お互いに素性を知り尽くしているし、さらに同い年という事もあり、女性としての扱いを受けた覚えがない。それは紫恋も同様なのだが、せめて上官として部下を気遣う素振りくらい見せて欲しいとつくづく思う。
「落胆なんかしていません。むしろ清々してますから、どうぞご心配なく」
「くく、無理をするな。やけ酒なら付き合ってやっても良いぞ」
「もう、いいから放っておいて下さい!」
紫恋が向きになればなるほど、賈充は笑った。その独特な含み笑いが嘲笑されているようで、さらに怒りを注ぎ、紫恋は束ねた書類を乱暴に戸棚に仕舞った。
だが、憤りを見せていたのもこの一時だけで、結局一日中、溜め息が途絶える事はなかった。
仕事を終え、一人自席の整理をしていると、紫恋の隣に賈充が立った。また厭味か叱責でもするのかと思えば、机の上に数本の酒瓶が置かれた。何事かと顔を見ると、賈充はにやりと笑った。
「紫恋、今宵、少し付き合え。無論、断るまいな」
「…一体、どういう風の吹き回しですか?」
「やけ酒に付き合ってやると言っただろう。明日も鬱陶しい顔で仕事をされては迷惑なのでな」
相変わらず厭味な言い回しだったが、いかにもこの男らしい気遣いの仕方だと、紫恋は笑みを見せた。
普通に酒を飲む相手として不満はないが、失恋話の相談相手となると相応しくない気もする。だが、失恋の傷を癒すには飲むしかない。近くの椅子と机を引いて執務室に簡易な酒席を作ると、互いに杯を掲げた。
「祝い酒と思って楽しめ」
「祝い酒って…私は失恋したのに?」
「別れて清々したのだろう? ならば祝い酒だ」
意地悪く微笑む男を呆れ顔で眺めた。口を開けば厭味か不敵な含み笑いしか出ないから、気遣いで設けた酒席も素直に喜べない。
紫恋は鬱積を晴らすように手元の酒を一気に飲み干した。杯が空になると、すぐに次の酒を注いで喉に流し込む。酒を煽る姿に賈充はくつくつと喉を鳴らした。
「よほど溜まっているようだな」
「だって五年も付き合ってて振られたんですよ? 当たり前じゃないですか!」
「くく、それは気の毒だったな」
「気の毒に思ってるなら、少しは気遣って下さいよ!」
すでに紫恋の全身には酒精が回り、相手が上官である事も忘れて声を荒げた。だが、酔いが回るにつれて空虚感が込み上げ、ふと杯を持つ手が止まった。
振られた悔しさと腹立たしさも当然あったが、五年ともなると簡単に拭い切れるものではない。忘れようにも月日が長すぎる。視界が滲み、紫恋は咄嗟に顔を背けた。その様子に賈充の顔からも笑みが消えた。
「自分を捨てた男の事など忘れろ。何年連れ添おうと、理由が何であろうと、相手が別れると言うのであれば、さっさと離れて忘れてやるまでだ。悩むほどでもないだろう」
この場に来て賈充の口から慰めの言葉を聞き、紫恋は顔を上げた。男の涼しげな流し目がこちらに向けられている。
「賈充様が慰めるなんて、らしくないですね」
「俺とて鬼ではない。慰撫する心ぐらいある」
言葉に凡そ似合わない冷淡な態度に、紫恋はくすりと笑った。
「私も忘れたいけど…一応それなりに思い出もあるし、そう簡単にはいかないと思います。私、そんなに器用じゃないから。気の長い話だけど、次の相手が見つかるまで当分無理かも」
力なく笑って見せても、賈充は未だに横目で見つめていた。呆れているようにも見えるが、蔑まれようと舌打ちされても反論する気はなかった。自分でも嫌気が指すほど、未練がましい女だと思っているから。
「…ならば、俺が相手をしてやろうか」
返って来た言葉に紫恋はきょとんとした。「えっ」と声に出した時には賈充は腰を上げ、紫恋に顔を近付けていた。途端に身体が大きく揺らぎ、視界が暗くなると、口元に生温かい感触と吐息が触れていた。それが賈充からの抱擁と口付けだと理解すると同時に、唇は離れていった。
「…急に何ですか?」
自分でも情けなくなる問い掛けだったが、唇に残った感触が思考を乱し、正常に働かない。さらに抱き寄せる腕と視界に迫った端整な顔立ちが動揺を煽った。
「俺が相手をすると言ったのだ。相手がいれば忘れられるのだろう?」
「いや…でもそれは…」
「俺が相手では不服か?」
「いえ…そうじゃなくて…どうして賈充様がそのような事を?」
「これでも長い間、お前を傍で見て来たつもりだ。お前がどんな女かも知っている…良い面も悪い面もな。故に、俺は途中で捨てるような真似はせぬ」
この時、紫恋はようやく理解した。失恋と感付いたのも、祝い酒と言ったのも、全て自分に好意を寄せていたため──。厭味ではなく、本心だったのだろう。
「…いつから私の事をそのように見ていたのですか?」
「お前が仕官した時からだ」
未だに無表情で見つめる色白で端整な男の顔。この男はいつも容易に人の心情を読み取るというのに、その顔は心情どころか感情すら読み取れない。自分の想いだけは相手に見せないなど、卑怯だと思った。
「お前が独りになる時を待っていた。この機会を逃すつもりはない」
低音が聞えた直後、再び紫恋の唇は賈充によって塞がれた。今度はただ触れるだけの口付けではなく、唇を押し付け、舌を捩じ込み絡める濃厚な接吻。まるで長年秘めていた感情を表しているようだった。無論、それを拒む理由はどこにもなく、紫恋は行為を受け入れた。
唇が首筋をなぞり、手が着物の中を掻い潜って柔肌を撫でると、互いの呼吸が乱れた。紫恋は愛撫に肌を紅潮させながらも、さらに深い行為に及ぼうとする男に囁いた。
「…ここじゃなくて…賈充様の部屋に…連れて行って…」
愛撫の手が止まった。行為を止めた事で何か返って来るかと思ったが、直後、身体が宙に浮いた。抱き上げられて連れて行かれた場所は執務室にある仮眠用の寝室で、着いた途端に紫恋は寝台に投げ込まれた。
「ここでいいだろう。部屋まで待てぬ」
賈充は薄く微笑むと、上に圧し掛かり再び深く口付けた。その姿は想いを遂げる喜びに満ちているようで、紫恋も腕を回して抱き付いた。
寝台の上では躊躇いも羞恥もなく、自分でも淫らと思うほど激しく身体を絡ませる。欲情に甘い吐息を漏らし、互いに肌を愛でながら着物を脱がしていく。肌蹴た着物から白い乳房が零れると、すかさず唇が押し当てられた。
口が動く度に唾液の音が立ち、柔肌を吸い付けながら膨らみをなぞっていく。熱い舌が頂を舐め上げると、肌が小刻みに震えた。唇が這った跡は紅い轍となって白い肌に浮かび上がり、甘い痛みに悶える身体にさらに自分のものとばかりに刻み付けていく。
手荒い愛撫に戸惑ったが、長年の横恋慕で抑え込んでいた想いと苦痛を考えれば仕方がないと思った。むしろ賈充の官能的な愛撫は味わった事のない快感を生み、紫恋を酔わせた。
身体はさらに強い快感を求めて疼き出す。賈充がこの異変を見過ごすはずがなく、太腿を抉じ開けて内側へと手を滑らせ、濡れそぼつ秘部に触れた。蕾を撫で上げ、蜜の溢れる口に指を押し込み、巧みにその両方を愛撫する。強い性感に襲われた紫恋は悲鳴を上げたが、身体は求めていた快感に大きく波打ち、狂喜に踊っているように見えた。
声に触発され、愛撫はさらに過激になる。秘部全体を掻き乱し、舌が身体中を這い回り、肌に触れる感触全てが理性を狂わせた。賈充は愛撫に喘ぐ身体に脚を絡め、滾る己自身を押し付けた。わざと欲情を駆り立てる行為に男を睨み付けると、その顔は不敵な笑みを浮かべた。
「忘れたいのなら、俺が忘れさせてやる」
賈充は紫恋の両脚を押し広げると、淫らに濡れた口に一物を押し込んだ。異物がゆっくりと胎内を侵入していく動きに連動して、紫恋の口から喘ぎ声が漏れる。身体を抱き寄せられると、それは体重任せに最奥まで押し込まれ、間も置かずに胎内で刺激し始めた。
愛撫同様に行為も荒々しく、指で蕾を擦り付けながら肉塊で胎内を突き上げる。執拗に性感帯を攻められ、快楽に身体が捩れ、嬌声が鳴り止まない。乱れる紫恋の姿は賈充の理性を奪い、さらに行為を過激にさせた。震える肌を舌で舐め上げ、耳元に熱い吐息を掛ける。
絶え間なく襲う性感に続き、男の悩ましい声は紫恋の意識を一瞬で奪い去った。賈充は痙攣する身体をさらに苛烈に攻め立て、躊躇いもなく奥底へと欲を放った。
しばらく荒い息遣いだけが聞えていたが、腕が紫恋を抱き寄せると、耳元で低音が聞こえた。
「これでお前は俺のものだな」
自ら刻んだ痣と体液を指でなぞり、賈充はほくそ笑んだ。どこか大人気ない言動に、紫恋は思わず笑ってしまった。
「賈充様って、意外と純情なんですね。相手がいても平気で強奪しそうに見えるけど」
「しても良かったのだが、お前を傷付ける真似はしたくないのでな。浮かれ顔には腹が立ったが」
言葉とは裏腹に、抱き締める腕は紫恋を優しく包み込んでいた。温かい言葉に胸が熱くなる。
「…本当に私の事、途中で捨てたりしませんか?」
「案ずるな、捨てる事も、泣かせる事もせぬ」
首筋に優しく唇が触れた。
泣かせないと言ったが、その言葉は紫恋の瞳を濡らした。自分の事を大切に想ってくれる人が身近にいた事が嬉しかったから──。
了
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