『愁い晴らし』

 春を迎えたというのに、天候は冴えなかった。長雨が続き、雨が止んでも拝めるのは曇り空ばかり。春霖、花霞と言えば聞えは良いが、春の天候は実に鬱陶しい。
 どんよりとした天気が続くと、不思議と心まで陰鬱として来る。この鬱陶しい天候の影響を真っ先に受ける人物が、紫恋の身近にいた。
 この日は特に徐庶の表情が冴えなかった。仕事中だろうと溜め息が絶えず、口調もいつもより暗く重い。何を聞いても生返事ばかり返って来る始末だ。何かあったのか、とは聞くまでもない。悩み癖のある彼の事、また物思いに沈んでいるのだ。この時期ならば春愁とでもいうのだろう、季節の変わり目に訪れる質の悪い風に当たってしまったのだ。女官として恋人として、彼を間近で見ている紫恋には手に取るようにわかった。

 休憩に入り、紫恋は茶を差し出すついでに徐庶に尋ねた。

 「元気がないですね。また何か悩み事でも?」
 「あぁその…いや、大した事じゃないんだ。気にしなくていいよ」

 徐庶は力ない笑顔を見せ、茶碗に口を付けた。そうは言っても、憂い顔で溜め息ばかり吐かれては無視できない。怪訝な顔で眺めると、徐庶は何度も首を振った。

 「本当に大丈夫だよ。それに…改めて相談する事でもないよ、君にはいつも話している事だから…」

 その言葉で察しが付いた。大方、過去の失敗を引き摺り、人との劣等感で塞ぎ込んでいるのだろう。予想していたとはいえ、紫恋も釣られて溜め息を吐いた。
 表情が冴えないだけでなく、どこか顔色も悪い。思い詰めて、食事も睡眠もろくに取れていないのだろう。数日に一度、紫恋は彼の屋敷に赴いて手料理を振舞うのだが、見る限りでは彼の生活は整っているとは言い難い。だから男の独り暮らしは──と言っても使用人はいるのだが──、構わないから悪い影響を受けるのだ。
 このままでは泥沼に嵌ってしまう。紫恋は唐突に話を切り出した。

 「元直様、明後日はお休みですよね。一緒にお酒でも飲みませんか?」
 「それはいいけど、君は仕事だろう?」
 「仕事が終わってからですよ。たまにはお酒でも飲んで、鬱憤晴らしでもしましょうよ」
 「そうだな…じゃあ、付き合ってくれるかい?」

 大きく頷いて見せると徐庶がようやく微笑んだので、紫恋はひとまず安堵した。

 *

 当日、紫恋は早々と仕事を片付けると、店で酒と肴を購入して、その足で徐庶の屋敷に向かった。この日もあいにくの曇り空だった。これでは月見酒も期待できそうにない。何より徐庶がますます落ち込むような気がして、霞掛かった夕刻の空を睨み付けた。

 「元直様、紫恋です」

 玄関先に立つなり声を上げると、しばらく間を置いて勢いよく扉が開いた。

 「やぁ、待っていたよ」

 顔を出した徐庶の表情は思いの外明るかった。休暇で少し気が晴れたのか、前日までの憂い顔はどこにもない。ころっと表情を一転させたので、紫恋はくすりと笑った。

 「厨を借りますよ? 準備しないと」
 「俺も手伝った方がいいかな。今日は使用人がいないんだ」
 「いいですから、元直様は居間で待っていて下さい」

 徐庶の背を押して居間に向かわせ、紫恋は厨に立った。棚から食器を取り出し、買って来た肴と酒を皿に盛り付ける。盆に乗せると、足早に居間へと向かった。

 「さぁ、早く乾杯しましょうか」

 杯を手に持ち、軽く掲げて乾杯をした。注がれた酒は瞬く間に口の中へと消え、空になるとすぐに次の酒瓶に手が伸びた。
 よほど溜まっていたのか、徐庶は煽るように酒を口にし、なかなかお酌の手が休まらない。悪酔いしないかと気を揉んだが、愚痴を溢す気配もなく終始穏やかだったので、紫恋はほっと息を吐いた。

 「元直様は今日一日、何をして過ごしていたんですか?」
 「本を読んだり、昼寝したり…そんなところかな。大した事はしてないよ」
 「屋敷に篭っているから余計な事考えるんですよ。どこかへ遊びに行けば良かったのに」
 「いいんだ、今日は紫恋と過ごすって決めていたから。それに何をしたって、君がいないとつまらないよ」

 徐庶は柔和な笑みを浮かべて紫恋を見つめた。甘い言葉と酒気で熱を帯びた視線に鼓動が高鳴る。紫恋は赤らんだ頬を隠すように、杯に残った酒を一気に飲み干した。
 杯にお酌したところで、酒が底を突いてしまった。料理も切れていたため、食器を片付けて盆に乗せると、徐庶は驚いたように顔を上げた。

 「もう終わりかい?」
 「片付けないと次を持って来れないでしょう」

 紫恋は笑いながら言葉を返し、厨に向かった。しかし確認してみると、肴も酒もわずかしか残っていなかった。買い足しに行こうかと思ったが、あの様子ではあるだけ飲んでしまうだろう。晩酌を終えるには丁度良い頃合だと判断し、残りを持って居間に戻った。

 「残念、これが最後でした」
 「紫恋、今日はいつまで付き合ってくれるんだい?」

 徐庶は差し出した酒には目も暮れず、不安げな眼差しを紫恋に向けた。顔色を伺い尋ねる様子に思わず笑みが零れる。

 「もう少し付き合いたいけど、お酒もないし、明日も仕事だから早めに切り上げましょうか」

 途端に徐庶の表情が翳り、目を伏せるとぽつりと溢した。

 「…今夜は帰らないでくれないか? 一人になりたくないんだ…」

 見つめ返して来た男の顔に紫恋は動揺した。不安げな眼差しも柔和な笑みもなく、深い憂いに沈んだ姿──。一度消えた憂いが、別れ惜しさから再発したようだ。
 徐庶はおもむろに手を伸ばし、紫恋の手を握り締めた。熱く大きな掌が包み込み、更なる動揺と緊張で身体が急激に火照り出した。

 「…やっぱり晩酌程度じゃ、気晴らしになりませんか?」
 「いや、とても楽しかったよ。君といると嫌な事も忘れられる。でも一人になったら…また元に戻ってしまいそうで怖いんだ。だから今夜はずっと…俺の傍にいて欲しい…」

 力強い目で見つめられ、すぐに言葉が出て来なかった。情交の誘いは構わないのだが、この顔で見つめられると不安が過ぎる。普段が温厚な分、真顔になると怒っているように見えるからだ。

 「…それって、夜のお誘いでいいんですよね?」
 「そのつもりだけど…駄目かな?」
 「それはいいんですけど、大分酔ってますね。目が据わってますよ」
 「そうかもしれないな。でも、今はこの方がいいよ…本心を出せるから」

 わずかに微笑むと、掴んでいた紫恋の手を引いた。身体はするりと腕の中に吸い込まれ、股座に収まると首筋に顔が押し付けられた。弾力のある肉質と生温かい吐息が肌に触れ、途端に呼吸が乱れた。
 抱き締める手が胸元と下半身に向かい、着物越しに膨らみを撫でる。徐々に太腿から内側へと滑り込み、秘部に及ぶと、紫恋はその手を掴んだ。制止に眉を顰める徐庶に静かに首を振った。

 「待って…そのまま来たから汚れてる…」
 「構わないよ、君は綺麗だから…」

 徐庶は吐息混じりに返し、紫恋に口付けた。唇が重なると、酒気を帯びた息が鼻腔を抜けた。優しくも激しい接吻を交わしながら、着物の中に手を入れて茂みと縁をなぞる。蕾を指先で擦り、艶かしい手付きで弄ぶ。堪らず甘い声を漏らすと、徐庶も釣られるように低い吐息を溢した。
 滾り出した男の行為は激しさを増し、着物を剥ぎ取りながら身体を撫で回し、唇から首筋、そして胸へと顔を移動させて肌を舐めた。秘部への愛撫も苛烈になり、指を中に押し込み、蕾と共に掻き乱す。愛撫に悶える柔肌に固い塊が触れ、交合したいという欲望が膨れ上がった。
 しかし、一日仕事に追われ汚れた身体だと思うと、やはり恥ずかしい。ふと理性を取り戻した紫恋は、薄らと目を開けた。必死に愛撫する男の顔と、いつしか全裸になった自分の姿、そして逞しい身体が見えた。そこに温厚な徐庶はおらず、あるのは獣のような荒い息遣いで情交に耽る男の姿だけ。異常なまでに愛撫に没頭する姿に戸惑いながら男に言った。

 「んっ…やっぱり汚れるから…洗った方が…」
 「俺はこのままがいいよ…紫恋の匂いがするから…心地良いんだ…」

 私の匂い──。その言葉に紫恋は固く目を瞑った。羞恥で紅潮した肌に、男はさらに鼻を摺り寄せて強く接吻した。唇が這った後に、紅い印が刻まれる。
 濡れた唇、熱い舌、荒い息遣い、ざらついた髭の感触──。絶え間なく続く心地良い快感に、理性はいとも簡単に喪失した。紫恋が男の頭部を抱き締めると、応えるように唇が動いた。

 「紫恋…そろそろ俺にも返してよ…」

 胸元で声がすると、ふと愛撫が止んだ。太腿に腕が回り、抱き上げられたと思うと衝撃が走った。侵入した剛直な異物はゆっくりと胎内を掻き回し、肉壁を馴染ませる。動きに合わせて結合部から水音が立ち、男の口からは悩ましい吐息が漏れた。
 焦らす動きに苛立ちを感じた刹那、突然下から突き上げられ、甲高い声が室内に響いた。肉塊が胎内を往復し、その度に頭上から低い喘ぎ声が聞えた。男の声は酷く官能的で、瞬く間に紫恋を壊していった。交合で乱れいく身体は、より強い性感を求めて疼き出す。気付けば無意識の内に言葉を発していた。

 「元直様…もっと…激しく…」

 その直後、徐庶は紫恋を仰向けにし、繋がっていた一物を最奥へと押し込んだ。一層激しく腰を打ち付け、確実に性感帯を攻め立てる。欲望の中に鬱積が入り混じった行為は苛烈さを極めた。肉壁を突き上げ、膣口を押し広げ、縦横無尽に胎内を動き回る。

 「はっ…んっ…! 元直…様…っ!」
 「紫恋…もっと…俺を呼んで…」

 名を呼び合う度に、限界に達した肉塊が波打ち、肉壁がそれを強く締め付ける。増していく性感に求める声も途切れ途切れになり、二人は苦悶の表情で行為に溺れた。
 意識が薄れていく中、不意に強烈な性感に襲われれた。耐え切れずに一際大きな嬌声を放つと、同時に欲が吐き出された。


 「気分は晴れましたか?」

 うつ伏せで寝転がる徐庶に尋ねると、「うん」と力ない返事が返って来た。

 「こんな事言うと怒るかもしれないけど…今までで一番気分が晴れたよ。でも情交で気晴らしなんて、何だか獣みたいだな…」

 ──確かに獣みたいだったけど。

 紫恋は内心でぽつりと呟いて笑った。

 「いいんじゃないですか? 気晴らしになったのは私も同じだし。何なら次からこの手でいってみましょうか?」

 意地悪く笑い返すと、徐庶は苦笑いをした。

 「気持ちは嬉しいけど、君まで巻き込みたくないよ。それより、この悪い癖を治すように努力するよ」
 「無理しなくていいんですよ? そのために私がいるんだから」
 「いや、このままだといつか君を傷付ける気がするんだ。それだけは絶対にしたくないから…」

 悩みから解放されれば、もう傷付き苦しむ事はなくなる。徐庶にとっても良い事だし、紫恋もそれを望んでいる。しかし、どこかで変わらないで欲しいと思っている。紫恋にとっては彼を慰める事も、心の喜びになっていたから──。
 徐庶は微笑みを浮かべて、静かに紫恋の手に触れた。指先から伝わって来るのは、優しさと心地良い温もりだけだ。
 いつもの穏やかな彼に戻ったのだから、それでいい──。紫恋は男の手を優しく握り返した。



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