深夜の宮中を慌しく走る人の姿があった。紫恋である。書物に読み耽っていたおかげですっかり時を忘れ、急ぎ自室へと戻るところだった。
渡り廊下に差し掛かった時、中庭の方から囁き声が聞こえ、紫恋は思わず足を止めた。
夜空には美しい月が昇っていた。
中庭は暗闇に覆われ何も見えなかったが、再度耳を澄ましてみると途切れ途切れに声が聞こえる。真夜中に囁き声が聞こえるなど普通ではない。背筋が凍る思いだったが、万が一という事もある。紫恋は息を潜めて声のする中庭の方へと降りて行った。
中庭を進むと池の畔に一際黒い影が佇んでいた。池を囲う石塊に腰掛け、時折何か口ずさんでいる。それは詩のようにも聞こえた。
砂利に踏み込む音で、その人影は不意に振り返った。
「誰だ」
聞き覚えのある声と白い横顔が覗き、紫恋は胸を撫で下ろした。
「賈充様でしたか…こんな所で何をなさっていたんですか?」
「詩を詠んでいただけだ。今宵は良い月が出ているのでな」
「詩…ですか?」
真夜中に灯りも灯さず、月光の下で一人詩を詠む──。まるで夢想家のような姿だったが、彼の場合どのような詩を詠んでいるのか全く想像が付かない。
「俺には似合わぬか」
「と、とんでもないです!とても素敵だと思います!でも…どうして真夜中にと思って…まだ夜は寒いですし、灯りくらい点けてもよろしいかと…」
心の内を読まれ、紫恋は慌てて言葉を訂した。その様子に賈充は鼻で笑った。
「この刻限にしかできぬからだ。それに、この方が心が休まる」
そう言って賈充は月に視線を移した。
確かに賈充が休んでいる姿は見た事がない。昼夜仕事に追われている印象が強く、いつ息抜きをしているのかといつも疑問に思っていた。自分の時間が得られるのは、皆が寝静まった深夜しかないのだろう。
月を眺める賈充の横顔はどこか穏やかに見えた。普段見せる冷たく鬼気迫る姿はそこにはない。月明かりに照らされた端整な横顔に、紫恋はつい見入ってしまった。
賈充の視線が月から紫恋に向かい、互いの目が合った。紫恋は咄嗟に目を伏せた。
「そういうお前は何をしていた。女が一人で出歩く刻限ではないだろう」
「えっと、私は…今まで本を読んでいました。気付いたらとうに日が暮れてまして…」
「くく…“日が暮れた”という刻限でもあるまい。面白い女だ」
賈充はくつくつと笑ったが、いつもの冷笑とは違う微笑みが浮かんでいた。今まで見た事のない賈充の表情に、紫恋の胸の鼓動は急激に速まった。
「まだお前の名を聞いていなかったな」
「あの…紫恋です」
「もう部屋に戻れ、紫恋。夜業は公務に差し支えるぞ」
「は、はい…ではお先に失礼します」
紫恋は早々と一礼して、逃げるように中庭から退散した。
幸い、暗闇だったので気付かれなかったが、紫恋の顔は真っ赤に紅潮していた。身体は今にも火が出そうなくらいに熱を帯びている。
前から端整な顔付きをした御仁だと思っていたが、改めて間近で、しかも見た事もない穏やかな姿を見てしまえば、誰だって意識してしまうだろう。
自室に戻った紫恋は床に就こうとしたが、一向に身体の熱が冷めず、しばらく寝付けなかった。
翌日になっても昨夜の出来事が忘れられず、紫恋は深夜に部屋を出て中庭を覗いた。もういないかもしれない──そう思ったが、月光の下に佇む賈充の姿があった。
詩を詠む邪魔をしてはいけないと、その日は遠くから後ろ姿を眺めた。
月夜がよく似合う男だと思った。時折、聞こえて来る低音が心地良い。詩の意味はわからなかったが、どこか物悲しい詩だった。
声を掛けようかと思ったが、詩に疎い自分が行ったところで邪魔になるだけだ。それに、あの穏やかな姿を間近で見る勇気はなかった。
*
連日の夜更かしで眠い目を擦りながら書簡の整理をしていると、仕事場に賈充が顔を出した。他の女官が一礼する中、紫恋は咄嗟に目を逸らした。月夜で詠う穏やかな姿が浮かび、直視する事ができなかった。
賈充はまっすぐ紫恋の机に向かうと、持っていた書簡の束を差し出した。呆然とする紫恋に、賈充は片眉を吊り上げた。
「どうした、お前の仕事だろう。早く受け取れ」
「す、すみません…」
急いで書簡を受け取ると、賈充は無言で部屋を出て行った。いつも通りの冷淡な態度に紫恋は小さく溜め息をついた。
宛名に目を通していると、その中に何も書かれていない書簡があった。失礼を承知で紐を解き、書簡を開くと、一枝の花桃と短い文が書かれてあった。
『紫恋──今宵も同じ刻限にて庭で待つ』
驚きのあまり紫恋は書簡を机の下に隠した。
一体どうして──?
再び書簡に目を通す。何度見ても、はっきりと自分の名前が書かれている。しばらく状況が飲み込めず、紫恋はその場に呆然と立ち尽くした。
*
その夜、紫恋は昨夜と同じ刻限に中庭に顔を出した。手燭を手に中庭に入ると、池の畔に賈充の姿があった。その背後に近付くと、男はゆっくりと振り返った。
「突然呼び出して悪かったな」
「あの…これは?」
書簡と花を見せると、賈充は静かに微笑んだ。
「いつ来るかと待っていたが、お前が一向に来ないので俺が呼んだのだ」
「き、気付いていたんですか?」
「俺は夜目が利くのでな。一晩中、廊下から俺を眺めていて楽しかったか?」
動揺して赤面する紫恋を見て、賈充は口角を吊り上げた。意地の悪い御仁だと紫恋は頬を膨らませたが、賈充の穏やかな表情を目の当たりにして胸が高鳴った。
「あの…どうして私にこのようなものを? とても綺麗な花を頂いて嬉しいのですが…私のような者に花など…」
花桃の枝を翳すと、穏やかだった賈充の顔付きが急に変わった。上目遣いで見つめられ、紫恋は緊張で身体を硬直させた。何かまずい事を言ったのかと気を揉んだが、賈充はすぐににやりと微笑んで見せる。どうも賈充が反応を見て楽しんでいるように見えて、紫恋はつい眉を顰めた。
「お前となら、共に時を過ごすのも悪くないと思っただけだ。そろそろ一人で詩を詠むのも飽きて来たものでな」
すると賈充は突然、紫恋の手を引いて肩を抱き寄せた。互いの顔が間近に迫り、紫恋は緊張と羞恥で頭が混乱し、一瞬何が起こったのか理解できなかった。
「今後はお前のために詩を詠むのも良いかもしれんな。ただ、お前は花桃の意味もわからぬようだから、上手く伝わるかどうか疑問だが…」
「は、花桃の意味…ですか?」
ぎこちない問い掛けに賈充はくすりと笑い、耳元で囁いた。
「俺は一目で心奪われたのだ…紫恋、お前にな。人が恋に落ちるのに理由などない…お前もそう思わぬか?」
紫恋はまっすぐ自分を見つめる賈充の瞳を恥じらいも忘れて見入った。
「お前は俺を孤独から救ったのだ。これからは俺の傍にいろ…いいな」
賈充の白い指が髪を撫でた。愛しい花を愛でるように──。
了
*補足*
『花桃』の花言葉……貴方に心を奪われた・恋の虜・貴方に夢中。
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