『涙雨』

 遠くで雷鳴が轟いたと思えば、大粒の雨が降って来た。天が抜けたような突然の豪雨に、街で買い物をしていた紫恋は店の軒先で雨宿りをするしかなかった。
 せっかく許都まで来たのに、雨に当たるなどついていない──紫恋は恨めしそうに黒雲が覆う空を眺めた。通り雨であって欲しいと祈ったが、いつまで経っても止む気配がなく、このままでは日が暮れると思い、やむなく店で傘を買って家路に着いた。
 まだ傘が手に入っただけ運が良かったのかもしれない。街中では慌しく走る者、店を畳む者、雨宿りをする者が多い。中には雨を凌ぐ事も諦めて、ずぶ濡れのまま歩いている人の姿もあった。
 紫恋の目の前を一人俯き加減に歩く男の後ろ姿。随分と陰鬱とした姿だとしばらく眺めていたが、その背格好に紫恋ははっとした。
 頭巾を深く被った軍袍姿の男──豪雨で視界を遮られてすぐ気付かなかったが、それは紫恋がよく知る人物だった。
 男の背後に駆け寄り、間近で見て確信した。さらに顔を覗き込むと、見覚えのある憂い顔と無精髭が見えた。

 「やっぱり」

 と声に出すと男は怪訝な顔をしたが、すぐに目を丸くした。

 「あれ? 紫恋かい?」
 「元直殿、お久し振りです」

 紫恋が笑顔で頭を下げると、その男──徐庶は途端に表情を和らげて微笑んだ。

 「ええと、いつ振りになるかな。俺がまだ荊州に住んでいた頃だから、もう大分経つな。君がここにいるって事は、今は許都に住んでいるのかい?」
 「えぇ、荊州は住みにくくなったので、越して来たんです」
 「あぁ、そう…だよね。でもまさかこんな所で久しい人に会えるとは思わなかったよ。何だかとても嬉しいよ」
 「ふふ、私もです。偶然って凄いですね」

 陰鬱な姿から一転して急に喋々と話し出したので、紫恋は笑いながら答えた。嬉しそうに語るも、その姿はずぶ濡れ。いくら頭巾の付いた軍袍とはいえ、雨風を十分に凌げるものではない。紫恋は持っていた傘を徐庶の頭上に差し出した。

 「そんな事より全身ずぶ濡れじゃないですか、風邪引きますよ。何でしたら私の家に寄って下さい。久し振りの再会に積もる話もあるでしょうし、ね?」
 「あぁ、その…すまない、ありがとう」

 紫恋が微笑むと、徐庶ははにかんで俯いた。その姿は昔と変わっていない。良い意味でも、悪い意味でも──。
 徐庶と知り合ったのは、彼がまだ司馬徽の門下生だった頃で、当時紫恋も水鏡塾に通っていた。神流の場合は、ただの塾生として学問を学んだだけに過ぎないが、同じ塾で学んだ事で意気投合し、荊州にいた頃は頻繁に交流があった。
 あくまで彼とは友人であり、酒を酌み交わして談笑する仲だ。しかし親しい仲には違いなく、彼がどういう男かもよく知っている。
 だから、雨に打たれて歩いている姿を見た時、変わっていないと思った。当時から何かと自分を卑下しては自暴自棄になる男だったので、何か良くない事が彼の中であったのだろうと一目で察した。
 それに徐庶は劉備殿に仕えたと人伝に聞いていたので、許都にいる事自体が不自然だ。あらゆる疑問と不安が過ったが、紫恋との再会に喜ぶ徐庶を見ると、とても聞く気にはなれなかった。

 自宅に帰ると、玄関先に徐庶を待たせて厚手の綿布を差し出した。

 「あいにく着替えはないんです。女の独り暮らしですから」
 「これだけで十分だよ、ありがとう」

 徐庶はようやく頭巾を脱ぎ、布で頭を拭いた。案の定、頭巾の下も雨で濡れていて、顔色も悪い。布を渡した時に触れた手もやけに冷たく、かなり長い間雨に打たれていたらしい。紫恋は不安を感じながらも、表向きは明るく振る舞った。

 「こんな雨の中をとぼとぼ歩いてるんだもの。せめて雨宿りぐらいすればいいのに」
 「ええと…その、少し考え事をしていたから」

 力なく笑う徐庶に、紫恋は溜め息混じりに返した。

 「上着脱いで火に当たって下さい。雨が上がる頃には乾くと思うから」
 「急に押し掛けたのに悪いよ。君だって暇じゃないんだろう?」
 「昔馴染みにまで変な気を使わないで下さいよ」

 軍袍に手を掛けると、徐庶は「わかったよ」と紫恋を制して自ら軍袍を脱いだ。紫恋はすかさず上から綿布を羽織らせて、徐庶の腕を引いて火鉢の前に座らせた。

 「君は相変わらず強引だな」
 「元直殿も相変わらず構わない人ですね。無精髭だし、髪はぼさぼさだし、そんな格好で都を歩いている人いませんよ」

 くすくすと笑うと、徐庶はぎこちなく微笑み、俯いた。それが身形の指摘に落胆した訳ではないと、紫恋にはすぐにわかった。
 それ以上は聞かずに軍袍を拭いていると、小さくも明瞭とした声が紫恋に問うた。

 「何があったのか、聞かないのかい?」

 ふと顔を上げると、徐庶は真剣な眼差しで紫恋を見つめていた。

 「何で俺が許都にいるのか、不思議に思っているはずだよ。君の事だから、もう気付いているんだろう?」

 徐庶の方から話を切り出されて紫恋は戸惑った。徐庶を気遣って深く追求しなかったのだが、彼はそれが不満だったのだろうか。思い詰めた余裕のない表情が睨んでいるように見える。

 「え、えぇ…最初に元直殿の姿を見た時に。でも、久し振りの再会の場で傷口に触れるような事は言いたくなかったから…」
 「…紫恋は優しいな。昔からそうだった」

 そう言って徐庶は微笑んで見せたが、酷く痛々しい。

 「辛いなら泣いてもいいんですよ。昔馴染みの前なら、気兼ねなく泣けるでしょう」
 「そうしたいけど、本当に辛いと涙も出ないんだよ。久し振りに会ったのに、こんな情けない俺ですまない…」
 「もう、雨になんて打たれるから余計に落ち込むんですよ。とにかく、その冷えた身体を温めて気持ちを切り替えて下さい。今、温かいお酒用意しますから」

 紫恋はあえて気丈に強い口調で言ったが、内心は悲痛な思いだった。予想以上に彼が負った傷は深い。理由を聞く事はおろか直視する事もできず、避けるように席を立った。
 同時に冷たい手が紫恋の手首を掴んだ。振り返ると、すぐ目の前に徐庶が立っていた。いつになく深刻な面持ちに恐怖さえ感じる。それは紫恋の知る徐庶の姿ではなかった。

 「せっかく会えたんだ…傍にいてくれないか」

 その直後、徐庶の腕に抱き寄せられた。今まで徐庶から抱擁などされた事など当然なく、紫恋は困惑した。

 「どうしたんですか?私に抱き付くなんて」
 「君が優しすぎるからだよ。今の俺には君の優しさは堪えるよ…」

 腕がきつく紫恋を抱き締めると、胸板に頬が触れた。冷雨で冷え切った身体がまるで彼の心情を表しているようで、紫恋は堪らず徐庶の背に手を回した。

 「冷たい…早く温めないと」
 「…君が温めてくれないか」
 「…私なんかが相手でいいんですか?」
 「紫恋じゃないと嫌だよ。それに…俺には君しかいないんだ」

 ふと腕の力が緩み、紫恋の頬に手が触れた。徐庶の顔が見えたと思うと、唇が重なった。軽く何度か唇に触れると、次第に動きが大きくなり濃厚なものへと変わっていった。
 息遣いも荒くなり、大きな手が着物の上を這う。徐庶は紫恋を抱き上げると床に押し倒し、舌を押し込んでさらに深く口付けた。激しい接吻に切なさが入り混じる。眼前で無心に唇を貪る男が無性に愛おしくなり、紫恋も舌を絡めて応えた。
 不思議と徐庶と男女の仲になる事に抵抗はなかった。自分でも気付かないうちに、彼を友人以上に見ていたのかもしれない。紫恋だけでなく、徐庶も──。
 着物の中に手が滑り込み、柔肌を愛でながら着物を剥いでいく。徐庶の肌が全身に触れると、その冷たく湿った感触に身体がびくりと反応した。冷え切った身体が火照った身体には心地良く、酷く官能的だった。
 徐庶は温もりに縋るように身体を押し付け、一層強く腕と脚を絡めた。首筋から胸元へと唇が伝う。冷えた身体が徐々に熱を帯び、滾り始めた彼自身が太腿に触れた。

 「紫恋…とても綺麗だよ…もっと早くに気付けば良かった」

 愛撫が秘部にまで及ぶと、紫恋は声を上げた。押し込まれた指が内部で複雑に動く。刺激に身体が波打ち、喘げば喘ぐほど愛撫が手荒くなる。掻き乱す激しい動きに思わず顔が苦痛に歪む。

 「痛い…もう少し優しくして…っ!」
 「すまない…でも早く繋がりたいんだ」

 吐息混じりの余裕のない声が返って来ると、唇が塞がれた。接吻を交わしながらも、熱い視線が紫恋を見つめる。淫らに悶える姿を凝視されていると思うと余計に感じてしまい、さらに男の指を濡らしていく。
 片脚を持ち上げられると、熱く剛直な塊が胎内深くに押し込まれた。貫かれた衝撃に背中を反らせて叫んだが、徐庶は構わず内部を探るように一物で掻き回す。性感帯を突かれて嬌声が漏れると、徐庶はそれを見逃さず執拗に攻め立てた。絶える事のない快楽に壊れてしまいそうだった。

 「紫恋…とても温かいよ。もう…離したくない…」

 汗に湿った徐庶の肌が吸い付いて来る。絶えず低い吐息が耳元に纏わり付き、唇が重なれば舌と唾液が絡まる。視界には自分の身体に溺れる男の姿。五感の全てが徐庶によって満たされていく。
 荒い息が零れると、不意に身体が離れた。引き抜いた直後、徐庶は白濁とした欲を紫恋の柔肌に放ち、再び紫恋を抱き寄せた。

 「すまない…いきなりこんな事になって、君も困惑してるだろう。でも、俺の気持ちに嘘はないよ。やっと素直になれた気がする…」

 徐庶は首筋に顔を埋めたまま呟いた。紫恋が首を動かすと、顔を見られる事を拒むようにさらに深く顔を埋めた。

 「もし良ければ…これからもずっと傍にいてくれないかな。こんな俺だけど、君の事は大切にするよ。絶対に大切にするから…」

 言動の一つ一つに切なさを感じる。孤独と不安が彼の体温から伝わって来る。離すまいと必死に紫恋に縋り、求める姿に胸が締め付けられる。ここで自分が泣く訳にはいかないと、紫恋は笑顔で返した。

 「言われなくても、私が傍で支えてあげます。とても放っておけないもの」
 「…ありがとう。君に会えて良かった…紫恋がいてくれて本当に良かったよ…」

 震えた声が囁き、首筋が濡れた。ようやく涙を流した男の肩を紫恋は優しく抱いた。
 窓の外はいつしか雨が上がり、雲の合間から光が差し込んでいた。

 ──きっと、彼の代わりに空が泣いてくれたのだろう。

 そして、紫恋の瞳からも涙が零れ落ちた。



[*prev] [next#]
[back]