『子守歌』

 夜も深まった城下町──。
 大勢の人々が行き交っていた日中の賑やかさも夜店の眩い灯りも嘘のように消え、一時の静寂が訪れていた。辺りには夜霧が掛かり、人通りのない街中は不気味な雰囲気を醸し出している。
 そんな夜道を急ぐ人影があった。緑の軍袍と頭巾を被り、見通しの悪い道にも迷わず歩を進める男の姿──蜀の参謀・徐庶である。頭巾からわずかに覗く憂いのある顔は、懸命に何かを探し求めているように見えた。
 彼が訪れた先は、街から少し離れた小さな湖の畔。霧に包まれた人気のない湖は、外界から忘れ去られたようにその存在を潜めていた。
 徐庶は湖に架かる橋の前に立ち、目を瞑って耳を澄ました。闇夜の静寂の中で、微かに聴こえる。美しくもどこか哀愁漂う歌声が──。

 ──今宵も彼女がいる。

 徐庶は微笑みながらそっと目を開けた。
 雲の切れ間から月明かりが差し込み、白い霧の向こう側に女性の姿が見えた。彼女はしばらく橋の袂に腰掛けて歌を口ずさんでいたが、徐庶に気付くと屈託のない笑みを浮かべた。

 「まぁ、徐庶様。来て下さったのですね」
 「や、やぁ、紫恋…今日も来てしまったよ」

 徐庶は紫恋のあどけない笑みに頬を染めて言葉を返した。

 「横に座ってもいいかな。君の歌を聴きたいんだ」
 「えぇ、もちろんです」

 徐庶が隣に座ると、紫恋の口から再び澄んだ音色が奏でられた。
 徐庶が紫恋と出会ったのはひと月ほど前になる。
 その晩、寝付けなかった徐庶は夜風に当たろうと屋敷を出て、人気のなくなった城下町を歩いていた。丁度、湖に差し掛かった時、紫恋の歌声が耳に入った。真夜中に女性が一人で歌っているなど、普通に考えれば異様な光景だと思うだろう。しかし、徐庶は月明かりに照らされた紫恋の姿に、一瞬で心を奪われてしまった。
 無論、幽霊という訳ではなく、紫恋はごく普通の下町の娘である。夜空に月が覗くと、家を抜け出して湖の畔で歌うのだという。それを聞いて以来、徐庶はこうして月夜になると湖畔を訪れるようになった。
 今では、徐庶にとって紫恋と過ごすひと時は掛け替えのないものになっていた。この時ばかりは、この世が荒んだ乱世である事を忘れられる。自分が武将である事さえも。

 ──彼女の前では、ただ一人の男でいられる。

 しばらく歌声に聴き入っていた徐庶は、ぽつりと尋ねた。

 「紫恋は…俺を見てどう感じるかな」

 唐突な質問に紫恋は歌を中断し、徐庶の顔を見た。

 「突然どうしたんですか?」
 「いや…俺は一応、蜀の参謀ではあるけど、士元や孔明ほど才がある訳でもないし、他に際立ったものを持っている訳でもない。君の目にはこんな俺がどう映っているのだろうと思って…その、少し気になってね…」

 徐庶は言葉の途中で力なく俯き、口籠った。紫恋に心を許しているからこそ素直な気持ちを打ち明けたのだが、つい卑下する発言をしてしまった事に後悔した。

 「…すまない、やっぱり俺って情けないな」

 落ち込む徐庶の手に、小さく白い手が重なった。ふと顔を上げると紫恋の微笑みが映った。

 「いいえ、徐庶様はとても優しいお方です。だって、こんな私にも声を掛けて下さったでしょう? 私、本当に嬉しかったんです。徐庶様のおかげで一人でいる事が寂しくなくなったから。また会えると思うと、夜が待ち遠しいんです」
 「…ありがとう。俺も紫恋に会えて本当に良かったよ。君の前だと、本当の自分になれる気がするんだ」

 握り返した紫恋の手は肌寒い水辺にいたため、すっかり冷え切っていた。徐庶は口元にその手を運び、己の手に包み込んだ小さな手に息を吹き掛けた。

 「これで少しは暖かくなったかな」

 聞かれて紫恋は小さく頷いた。頬を赤らめ頷く姿が愛らしい。この腕で抱き締めたい衝動に駆られたが、まだあどけなさが残る彼女を穢す訳にはいかないと感情を抑えた。
 徐庶はゆっくり上体を倒して、紫恋の膝の上に頭を置いた。下から顔を覗き込む形になり、間近で見つめられた事で紫恋はさらに赤面させた。

 「じょ、徐庶様…」
 「元直でいいよ。俺なりに少し勇気を出してみたんだ。嫌だったら退けてくれて構わない」
 「そんな、嫌じゃ…ありません」

 ふと、白い指が徐庶の髪に触れた。髪を愛でる柔らかな指先が心地良い。

 「もう一度、聴かせてくれないかな。今夜は…帰りたくないんだ」
 「私も…元直様と一緒にいたいです」

 紫恋は再び歌を口ずさんだ。
 鈴の音色のように美しく、透き通る歌声。笛や二胡が奏でる音色ですら到底及ばないだろう。紫恋の歌声を生かすのは月夜の静寂だけだ。
 視界に映る濃紺の湖面に浮かぶ月と、辺りを包む白い霧は美しい絹のように輝いている。そして荒んだ心を潤す音色──何と幻想的な光景だろうか。
 まるで夢のようだった。これが自分が望む世界だと思った。

 ──これ以上、大切なものを失いたくない。

 徐庶は胸に誓った。

 「俺、もっと頑張るよ。だから、その…俺と一緒に来てくれないかな。その方が紫恋を守ってあげられるから」
 「はい、もちろんです」

 紫恋は迷わず頷いた。その目には薄らと涙が浮かんでいた。徐庶は満足気な笑みを浮かべると、ゆっくりと目を閉じて音色に聴き入った。
 それは、乱世を鎮める子守唄のようだった。



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