『酒は媚薬』

 草木も眠る丑三つ時。全ての灯りが消えた中、徐庶の部屋にはまだ灯りが灯っていた。
 室内には空になった酒瓶が散乱していた。並んでいる皿にも、料理が盛られていた痕跡だけが残っている。その席を囲むのは部屋の主である徐庶と紫恋の二人だけ。しかし、酒を飲んでいるのは紫恋だけで、徐庶の手は完全に止まっていた。その顔は、隣で平然と酒を煽る紫恋を心配そうに眺めていた。

 「…紫恋、もうやめた方がいいんじゃないかな」
 「大丈夫ですよ。私、お酒に強い方ですから」

 そう言って紫恋は笑顔で振り返ったが、顔が異常に赤い。口調ははっきりしているが、声が上擦っている。誰の目から見ても酔っているのは明らかだった。
 酒に強いと言っても、まだ日の出ている時分から飲んでいるから、酔うのも当然だった。紫恋はこの程度で済んでいるが、徐庶はさほど飲んでいないはずなのに顔色が青白い。
 元は、徐庶の戦功を祝うために紫恋が個人で用意した席だった。当初は穏やかに酒を酌み交わしていたのだが、いつしか紫恋が酒に呑まれ、祝ってもらう側の徐庶がお酌をする状態になってしまった。
 もはや一介の女官が取る言動ではなく、無礼極まりないと我ながら思う。それでも文句一つ言わずに付き合うのは、自分の酒席だからか、それとも紫恋の身を案じてなのか──彼の場合、おそらく後者だろう。普通ならば途中で怒るか、追い出している。
 紫恋は杯の酒を飲み干して、手近の酒瓶を手に取った。だが、徐庶がその手を掴んで制した。

 「もう駄目だよ。これ以上は身体に悪いから」
 「まだ大丈夫ですって」
 「大丈夫って言う割には顔が真っ赤じゃないか、酔っているんだよ。もう仕舞いにしよう」

 真顔で諭すように言われ、紫恋は渋々と手を引いた。しかし、酒はまだ残っているし、何より主役の徐庶が飲んでいない事に納得がいかない。

 「じゃあ、最後に徐庶様が一杯飲んで終わりにしましょう。元は徐庶様の戦功祝いなんだし」
 「いいよ、俺は十分飲んだから」

 だが、紫恋は徐庶の言葉を無視して杯に酒を注ぎ、目の前に差し出した。

 「これで最後ですから」
 「無理だよ、俺は紫恋みたいに強くないんだ。これ以上飲んだら倒れるよ」
 「倒れたっていいじゃないですか、お祝いなんだから」
 「もう十分祝ってもらったよ、ありがとう」

 杯を押し返されたので、紫恋を頬を膨らませて一気に飲み干した。その姿に徐庶は小さく溜め息をつき、卓上に散乱した酒瓶を片付け始めた。

 「遅いから部屋まで送るよ」
 「いいですよ、歩いてすぐですから」

 紫恋は勢いよく立ち上がったが、足がふらついて再び椅子に腰を降ろした。

 「うわっ…紫恋!?」

 徐庶の慌てる声に振り向くと、座ったのは椅子ではなく、徐庶の膝の上だった。

 「あ、ごめんなさい」

 と、軽々しい謝罪をして立ち上がろうとしたが、どういう訳か力が入らない。思った以上に酒が回っていたらしく、紫恋は舌を出しておどけて見せた。

 「すみません、立てそうにないです」
 「やっぱり酔っているんじゃないか。部屋まで連れて行ってあげるよ」

 徐庶は紫恋の両脇を抱えて席を立ち、肩に腕を回した。しかし、力が抜けてろくに歩けない紫恋を運ぶのは難儀なようで、自分のために苦戦している徐庶が気の毒になって来た。

 「もういいですよ、徐庶様。面倒だから、ここに泊めて下さい」
 「そ、それはできないよ。男の部屋に女性を泊めるなんて」

 慌てふためく姿に、紫恋はくすりと笑った。

 「いいじゃないですか、少しぐらい。朝には帰りますから」

 紫恋は肩に回した腕を外し、近くの寝台に自ら倒れ込んだ。徐庶に背を向けて横になり、寝る体勢を取る。部屋に泊まる気満々の紫恋に、徐庶は困ったように頭を掻いた。

 「ええと、その…紫恋は男の部屋に泊まる事に抵抗とかないのかな」
 「他の男なら不安だけど、徐庶様なら安心できます」
 「…どうして俺だと安心できるんだい?」
 「だって徐庶様は人が良くて、信用できる方だから。それに私は何の魅力もない平凡な女官だし、間違いなんてまず起こらないと思ってますから」
 「そんな事、わからないじゃないか」

 ふと、視界が暗くなったと思うと、上に何かが圧し掛かった。はっとして寝返りを打つと、目の前に徐庶の顔があった。いつになく真剣な面持ちで紫恋を見下ろし、目が合うなりぽつりと溢した。

 「俺が『人が良い』なんて嘘だよ。俺も男なんだから、簡単に信用しちゃ駄目だよ」

 紫恋の身体を抱き寄せ、首筋に顔を埋めた。唇が這い、着物の上から身体を撫でる。
 一気に酔いが醒めた。
 何がどうしてこうなったのか、一体どこで引っ掛けてしまったのか──。紫恋は戸惑い、抵抗する事も忘れてしまった。

 ──誘うつもりなどなかったのに。

 いや、その前に徐庶が突然情事に及ぼうとするとは思ってもみなかった。自分に自信が持てず、控え目な男だと思っていたのに。きっと酒のせいだと思った。
 裾から手が侵入し、素肌を撫でられた事でようやく我に返り、紫恋は声を上げた。

 「じょ、徐庶様、早まらないで下さい! 私みたいな女を抱いては、汚点になってしまいます!」
 「そんな事ない。俺は紫恋に魅力がないなんて、一度も思った事ないよ。君はとても魅力的な女性だよ」
 「それこそ嘘です! だって私、せっかくのお祝いも台無しにするような女ですよ?」
 「俺は嬉しかったよ。個人的に祝ってくれたのは、紫恋だけだったから。俺を気遣ってくれるのは、いつも君だけだから…」

 間近で微笑み掛けられて、鼓動が強く波打った。いつも見ているはずの笑顔が違うものに見える。とても直視できない。
 視線を逸らすと、止まっていた手が動き始めた。耳元で荒い息遣いが聞こえる。愛撫と甘い吐息に、徐々に紫恋の身体が欲に溺れていく。わずかに残っている理性で訴え掛けた。

 「徐庶様…お願いです、目を覚まして下さい。酔っているから、そう見えるだけです」
 「君の事で嘘なんて言わないよ。それに俺はずっと前から紫恋を想っていたんだ…ずっと君を見ていたんだよ」

 吐息混じりの甘い声が紫恋の理性を奪おうとする。

 「でも、あまりに早急すぎます…今日は」
 「今じゃないと嫌だよ。それにもう抑え切れないんだ…頼むから、駄目だなんて言わないでくれ…」

 徐庶は返事を遮るように深く接吻した。舌が入り、酒の混じった唾液が絡み合う。普段の穏やかな徐庶からは想像も付かない激しい接吻。もう目の前にいるのは紫恋の知る徐庶ではなく、自分を欲する男の姿だった。
 口を塞いだまま着物を脱がし、露になった肌を夢中に撫で回す。次第に内腿へと滑り込み、秘部に及ぶと紫恋は身体を震わせた。
 愛撫自体は優しいが、焦らされているようで余計に感じてしまう。刺激される度に濡れていき、徐庶の手が汚れてしまう気がして、羞恥に目を固く閉じた。それに気付いた徐庶は唇を離した。

 「紫恋…目を開けてよ。ずっと俺を見ていて欲しいんだ」

 頬に手が触れたが、紫恋は必死に首を振って拒否した。何か言葉が返って来るかと思ったが、徐庶は無言だった。その間にも愛撫は続き、口が解放された事で喘ぎ声が漏れる。
 断った事で徐庶がどんな表情をしているのか、ある程度予想が付いた。しかし、乱れていく姿を見られていると思うと、顔を見る勇気はなかった。
 徐庶の呼吸が荒くなるにつれ、愛撫も激しくなる。柔肌を撫でる力が強くなり、指の動き大きく大胆になっていく。紫恋の声と連動していたが、声を抑える余裕などもうない。

 「とても綺麗だよ…紫恋、もう…いいかな…?」

 余裕のない震えた声に薄らと目を開けると、いつしか徐庶は一糸纏わぬ姿で紫恋の上に跨がっていた。その意外と逞しい体付きに紫恋はつい見入ってしまった。互いの目が合い、徐庶は嬉しそうに微笑んだ。

 「…ありがとう、そのまま逸らさないで」

 髪を優しく撫で、唇に軽く口付けをする。その直後、衝撃が走った。室内に一際大きな嬌声が響いた。
 徐庶が動く度に快楽に身体が捩れる。微量の痛みがあったが、それすらも官能的刺激となり紫恋を襲う。絶えず叫んでいるはずなのに、自分の声が聞こえない。一点に神経が集中し、他の機能が麻痺している。それでも身体は徐庶を掴んで離さず、自分でも淫らだと思うほど強く引き込んでいく。
 徐庶は苦悶の表情を浮かべながらも身体を動かした。悩ましい声が漏れる。その姿が無性に愛おしく見えた。

 「紫恋…離してくれないと、もう達してしまうよ…!」

 叫んだが、すぐに口から喘ぎ声が零れた。引き抜こうと足掻くほど、快楽に変わる。程なくして徐庶は絶頂に達し、力尽きたように紫恋の胸元に倒れ込んだ。

 「すまない…こんな事するつもりはなかったのに…最低だ。酒の力になんか頼るからだな…情けないよ。俺の事、罵ってくれて構わないよ」

 酔いが醒めたのが、徐庶は声を震わせながら自責した。紫恋は子供をあやすように男の髪を優しく撫でた。

 「そんな事しませんよ。私、徐庶様なら構いませんから」

 すると、徐庶は跳ねるように頭を上げた。不安げな眼差しでこちらを見つめる姿は、いつもの徐庶だった。

 「…嫌だったんじゃないのかい?」
 「いいえ、全然。最初は戸惑ったけど、徐庶様が私の事を想ってくれてたって知って嬉しかったし、伝わって来たから。あの言葉は…信用してもいいんですよね?」
 「もちろんだよ。一生大切にするよ」

 徐庶は満面の笑みで紫恋を抱き締めた。情事の時とは違う優しく温かい抱擁に、心が和む。酒席を用意して良かったと、心の底から思った。
 酒の力を借りるなんて、いかにも彼らしい。ただ、情事でも甘えるような仕草を見せたので、やはり本質は変わらないのだと、紫恋は一人微笑んだ。

 「…でも、これじゃ説得力がないな…もっと普通に告白したかったよ。俺、しばらく酒飲むのやめようかな」

 急に冷静な声で呟いたので、紫恋は思わず声を出して笑った。



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