今は夏真っ盛り。街中のどこを見ても、日陰で涼む者や打ち水をしている姿が目に入る。炎天下を歩く人の姿は少なく、日向を駆け回っているのは子供くらい。大人は皆、焼けるような暑さに気力を失っている。
そんな中、紫恋は屋敷の庭先に立っていた。片手に柄杓を持ち、萎れ掛けた花に水をやる。日差しを避ける事もせず、かといって暑さに茹だっている様子もない。むしろ表情は生き生きとしている。
夏自体は嫌いではなかった。青い空、白く大きな雲、眩しい日差し。気持ちが晴れ晴れする。それに、夏は行事も多い。今夜も城下町で祭りがあり、徐庶と見に行く約束をしていた。それが紫恋の機嫌がいい一番の理由でもあった。一人庭先に出ているのも、徐庶の帰りが待ち遠しいからだ。
「ただいま」
門前で待ち兼ねた男の声がして、紫恋は満面の笑みを浮かべて顔を上げた。だが、その姿を見て目を剥いた。
「元直様…その格好、一体どうしたんですか?」
着物が濡れていた。汗で濡れたとは思えないほど、ずぶ濡れになっている。
「あぁ、さっき子供に水を掛けられてね」
そう言って徐庶は力なく笑ったが、紫恋は途端に激昂した。
「一体どこの悪餓鬼ですか? 私が捕まえて来ましょうか?」
「いいよ、もう謝ってくれたから。子供が水遊びしていた所に俺が通り掛かって、たまたま水が掛かっただけなんだ。それに暑かったから、丁度良かったよ」
徐庶は怒る素振りも見せずに、逆に紫恋を宥めた。
この状況で笑うなんて、本当に人が良すぎる──。紫恋は内心呆れたが、そこがまた彼らしい。優しさに触れる度、心が惹かれる。
「災難でしたね」と手拭いを差し出すと、徐庶は「そうでもないよ」と言って顔を拭いた。
「子供の頃を思い出して、少し懐かしい気分になったよ。大人になるとできないからね」
「子供の特権ですから。でも、元直様もやりたかったような物言いですね」
笑いながら尋ねると、徐庶は必死に否定した。
「え、いや…ちょっと羨ましかっただけで、俺もやりたいとか、そういう意味じゃないよ。この歳で水遊びなんてしていたら、皆に笑われるよ」
どうやら図星だったらしく、弁解している間も目が泳いでいた。わかりやすい人だと、紫恋はくすくすと笑った。
「着替えて来るよ、これじゃあ祭りに行けないからね」
部屋に向かおうとする徐庶を紫恋は呼び止めた。
「私と水遊びしませんか? お祭りまで少し時間があるし」
唐突な提案に、当然のように徐庶は首を傾げた。
「どうせ着替える訳だし、お祭りに行く前に涼んでおきましょうよ。大人がやってもいいと思いますよ、私がお相手しますから」
「い、いいよ別に。俺はそういうつもりで言ったんじゃ」
言っている傍から、紫恋は隠し持っていた柄杓で徐庶に水を掛けた。暑さで乾き掛けた着物が再び水浸しになった。
「酷いな、いきなりやるなんて」
とは言ったが、その顔は笑っている。
「やり返さないと、ずっと掛け続けますよ」
ほらほら、と挑発しながら紫恋が水を掛けると、徐庶はしばらく手で飛沫を避けていたが、ついに屋敷の裏手へと逃げて行った。
すかさず後を追い掛けて屋敷の角を曲がると、途端に大量の水が紫恋を襲った。あまりの勢いに目も口も開かず、その場に硬直していると笑い声が聞こえた。
「やり返したよ、これでどうだい?」
滴る水を拭って何とか目を開けると、徐庶は井戸の桶を片手に笑っていた。柄杓と桶では差がありすぎる。
「元直様、少しは手加減して下さいよ。溺れるかと思った」
「ごめん、ちょっとやりすぎたよ。大丈夫──」
紫恋に駆け寄った徐庶の言葉が途切れた。その視線は紫恋の顔の少し下の方で止まっている。何かと思って視線をずらすと、水の勢いで着物がはだけて、白い谷間が覗いていた。慌てて胸元を隠すと、徐庶はようやく視線を逸らした。
「わ、悪気はなかったんだよ。別に見るつもりじゃなかったんだ」
「わかってますよ、変に言い訳しなくていいですから」
顔を真っ赤にして謝る徐庶に、紫恋は笑いながら後ろを向き、襟を直した。ふと見ると、着物が水で肌に張り付き、身体の線が見えている。さすがにこのままでは恥ずかしい。
「もう遊びはやめて、着替えましょうか」
振り返った瞬間、急に身体を抱き締められた。先ほどまで赤面していたはずの徐庶が、真顔で紫恋を見つめている。熱っぽい眼差しに鼓動が波打った。
「元直様…どうしたんですか?」
「すまない…つい我慢できなくて」
腕の力が強くなり、手がおもむろに胸の膨らみに触れた。顔が近付く。突然訪れた妖しい雰囲気に、紫恋は誤魔化すように声を上げた。
「そ、それより、そろそろお祭りに行く準備をしないと遅れますよ」
「今夜は祭りより、紫恋と二人きりでいたいな…駄目かな」
耳元で囁く甘えるような声に、全身が蕩けそうになる。
「…いいですよ」
「良かった。紫恋…とても綺麗だよ」
徐庶は微笑んで、紫恋の首筋に口付けを落とした。
あの人の理性を奪うなんて──。
──水遊びって、危険な遊びだったのね。
大人がやらない理由が、何となくわかった気がした。
了
[*prev] [next#]
[back]