『夏の悪戯』

 夕暮れ時の夏の空は紫色に染まっていた。もう大分日も傾いているというのに、依然として噎せるような暑さが続いている。
 この暑さの中、紫恋は屋敷の前で打ち水をしていた。少しは涼しくなるかもしれない──そう思ったのだが、効果は薄い。むしろ水を撒く動作で身体が熱くなるばかりで逆効果だった。大量の汗が流れ出し、頭から水を被ったように全身ずぶ濡れになっている。
涼しくするために水を撒いているのに、暑くなる一方。紫恋は次第に馬鹿らしくなって来た。

 「やめた、ちょっと休憩」

 そう独り言を溢し、持っていた水桶と柄杓を手放した。
 打ち水は本来、紫恋の仕事ではない。これから屋敷に帰って来る賈充のために、少しでも暑さを凌げればという、紫恋の一方的な気遣いだ。
 例え夏だろうと、賈充は襟の詰まった衣服に真っ黒な戦袍を羽織って屋敷を出る。本人は至って涼しげな顔をしているが、暑くない訳がない。顔に出ない人だから一見わからないが、恋人の紫恋にはわかる。この暑さではなおさらだろうと打ち水を始めたのだが、もはや限界だった。このままでは紫恋の方が暑さで干乾びてしまう。
 賈充が帰る刻限はまだ大分先。紫恋は屋敷に入り、真っ先に厨にある水瓶に向かった。柄杓で何杯も水をがぶ飲みして、ようやく一息付いた。着物も髪も、汗が滴るほど濡れている。ただ拭いて着替えるだけでは済みそうにない。

 ──確か、今晩のために浴槽に水が張ってあったはず。

 少し拝借しようと、紫恋は着替えを持って風呂場に向かった。


 その頃、一騎の馬が屋敷に向かって駆けていた。馬を馳せるのは、真夏の太陽が全く似合わない男──賈充。容赦なく襲い掛かる蒸し暑さに、鬱陶しいと言わんばかりに舌打ちをした。
 苛立っているのは暑さのせいだけではない。また例によって友人が仕事中に失踪し、探し回る羽目になった。おかげで掻きたくもない汗を掻き、苛立ちは最高潮に達している。汗を流したい一心で馬を急がせた。
 屋敷前で馬を降りると、水桶と柄杓が放置されていた。片付けもろくにできぬのか──と、賈充は舌打ちしたが、暑さで叱る気にもなれず、仕方なく自分で水桶に柄杓を突っ込んで玄関まで運んだ。
 屋敷に入ると、なぜか廊下が点々と濡れている。さらに水を飲もうと厨に向かえば、今度は水瓶の蓋が開けっ放し。さすがに我慢ならず、賈充は侍女を呼んだ。

 「これは一体どういう事だ」
 「気付かずに申し訳ありません。実は先ほど紫恋様が打ち水をしていまして」

 名を聞いて長い溜め息をついた。自分が雇った者に限って、仕事を途中で放棄するはずがない。しかし、それほど気の回らない女ではなかったはずだが──。

 「紫恋は今、どこにいる」
 「わかりません、部屋に戻ったのは見たのですが」

 途中で「もういい」と侍女を手で払った。今はとても説教をする気分ではなく、話を聞いている余裕もない。早く火照った身体を冷やそうと、戦袍を脱いで風呂場の引き戸を開けた。
 途端に賈充は目を見開いた。
 視界に飛び込んで来たのは濡れた女の裸体。侍女が水浴びでもしていたのかと思ったが、顔を見てみれば紫恋で、賈充は失笑した。


 一番驚いたのは賈充よりも紫恋の方だった。まだ帰って来る刻限ではないはず──いや、そんな事よりも水浴びをしている姿を見られてしまった。当然、全裸だ。紫恋は掛けてあった着物で隠し、その場に屈み込んだ。

 「こ、公閭様、一体どうしたんですか?何でここに?」
 「それは俺の台詞だ。屋敷中を散らかしておいて、呑気に水浴びか。随分といいご身分だな」

 言葉が刺々しく、無表情で見下ろす賈充の顔が恐い。紫恋は目を伏せた。賈充が怒るのも無理はない。仕事を疎かにする事を一番に嫌う人なのに、道具はほったらかし。さらに主人より先に水浴びをしていたのだから。

 「ごめんなさい…私はもう出ますから」

 すごすごと風呂場を出ようとすると、腕で行く手を遮られ、着物を引き剥がされた。紫恋が慌てて両手で前を隠し顔を上げると、賈充は不敵な笑みを浮かべていた。

 「いい機会だ、一緒に入るか。お前もまだ入ったばかりだろう」
 「い、いいですそんな!」

 取られた着物に手を伸ばすと、賈充は意地悪く笑いながら頭上高く持ち上げた。

 「返して下さい!」
 「俺とお前の仲だろう、今さら何をそんなに恥ずかしがる」
 「だ、だってまだ夕方ですし…」
 「日が出ている内は裸を見られたくないのか?くく…無垢な奴だ。まぁ、そこに惹かれたのだが」

 賈充は紫恋の着物を脱衣室に投げ捨てると、引き戸を閉めた。

 「案ずるな、ただ風呂に入るだけだ」

 そう言って服を脱ぎ始めたので、紫恋は慌てて後ろを向いて浴槽に浸かった。
 水風呂というにはあまりに温すぎて、身体の熱が冷めない。胸の鼓動も速くなる一方だ。背後で水を流す音がした。大きな浴槽の水面が揺らぎ、少し水嵩が増えた。

 「思えば、お前と入るのは初めてだったな」

 真後ろで低音が聞こえた。すでに同じ浴槽に入っていると思うと、紫恋は緊張で声が出なかった。恋人とはいえ、彼の色香には慣れない。

 「いつまで後ろを向いているつもりだ。互いの裸など見慣れたものだろう」

 髪に手が触れ、ふと横を向くと賈充の顔が間近にあった。後ろに流した黒髪は水に濡れ、雫が白い肌を伝って滴り落ちている。その様は女性以上に艷容で、閨で見る姿とはまた別の色気を漂わせていた。
 紫恋は言葉を失い、しばらく呆然と賈充を見つめた。そして賈充も、水に濡れた紫恋に熱の帯びた視線を送った。

 「濡れそぼつ姿も良いものだな…そそられる」

 白い指先が頬を撫で、顔が近付くと唇を重ねた。紫恋が咄嗟に顔を背けると、すぐに背後から抱き寄せられ、首筋に顔を埋めて来た。この状況で、ただ風呂に入るだけで済むはずがない。

 「だ、駄目です!ここ、お風呂場ですし!」
 「たまにはこういうのもいいだろう」

 唇が首筋を這い、大きな手が柔らかな胸を揉む。水中で互いの身体が密着し、官能的な感触に全身の力が抜ける。手放し掛けた理性を何とか取り戻し、紫恋は胸を掴んでいた手を制した。

 「やっぱり駄目です、こんな所で…」
 「閨以外の場所では、何か理由がないと納得いかぬか。ならば片付けを怠った罰というのはどうだ?」

 胸を掴んでいた手が秘部へと滑り込んだ。蕾を指で刺激され、理性は一瞬で崩壊した。声を上げると、室内に嬌声が響いた。

 「ここで声を出すと響くぞ。使用人どころか、屋敷の外にも聞こえるだろうな」

 賈充は含み笑いを溢して、さらに指を動かした。紫恋は口を閉じて必死に声を押し殺したが、代わりに身体の震えが止まらない。そんな状況にも、賈充は紫恋に冷たく問い質す。

 「お前ともあろう者が、あれは一体どういうつもりだ? 俺を怒らせたいのか?」
 「あぁっ…こ、公閭様が…少しでも涼めるようにと…思って…! ごめんなさい…!」
 「ほう、俺のためか。くく…健気で可愛い奴め。だがな、片付けくらいはしておけ」

 耳元で囁くと、指が挿入された。ゆっくりと掻き回され、その度に水が中に入り込んだ。

 「いやっ…や…めて下さい…!」
 「水が嫌なのか、指が嫌なのか、どちらだ?」

 笑いながら賈充は尋ねたが、性感帯を刺激され言葉が返せず、必死に首を振って訴え掛けた。一向に受け入れを拒否する紫恋に、次第に愛撫も手荒くなり、乳房を掴む手にも力が入る。耳元で舌打ちが聞こえた。

 「紫恋…早く素直になれ。今日の俺は気が立っているのでな、これ以上は待てぬ」

 腰を抱えられ、膝の上に乗せられたと同時に熱い塊がずるりと入り込んだ。体重で一気に奥まで押し込まれ、堪らず声が漏れた。抑えていた分、一際大きな声が出てしまい、室内に反響した自分の声に紫恋は赤面した。
 そのまま抱き抱えられ浴槽を上がると、床に前のめりに倒れ込んだ。腰を高く突き上げた体勢のまま、後ろから攻め立てられる。結合部を見られている恥ずかしさに上半身を起こそうとすると、賈充に頭を押さえ付けられた。
 行為はさらに苛烈になり、突き上げる度に男の荒い息遣いが聞こえる。紫恋は何とか声だけは抑えようと自分の手を咥えて堪えた。
二人の息遣いと、濡れた身体がぶつかり合う音だけが響く。水か汗か、蜜なのか、もはやわからない。
 身体が一段と熱を帯びていく。言葉にならない快感と、蒸し暑さに頭がくらくらする。
朦朧とする意識に追い討ちを掛けるように賈充が紫恋の中に欲を放ち、目の前が真っ白になった。


 ひやりとしたものが頬に当たり、紫恋は薄らと目を開けた。
 視界に入ったのは寝室の天井。少し視線をずらすと窓が見えた。外はとうに日が暮れ、綺麗な虫の音が聞こえる。窓とは逆の方向から、心地良い風が吹いて来る。

 「気が付いたか、心配したぞ」

 声の方へ首を向けると、隣に賈充が座っていた。扇で寝ている紫恋を扇いでいる。

 「…私、あれからどうなったんですか?」
 「熱を出して気を失った。何、のぼせただけだ。まさか水風呂でのぼせるとは思わなかったな」

 そう言って賈充は笑った。もちろん水風呂でのぼせた訳ではない。無言で睨み付けると、賈充の表情が変わった。

 「怒るな、配慮に欠けていたと俺も反省している。お前も余計な事をするな、打ち水など侍女にでもやらせておけばいい。無理をしても俺は喜ばぬ」

 穏やかで優しい言葉に紫恋は笑みを浮かべた。きっと、全て夏の暑さが招いた事だったのだろう。夏が二人に悪戯したのだ。

 「公閭様、もういいんです。今日は特別暑かったから、二人共参っていたんです」
 「そうかもしれぬな。だが、お前と風呂に入るのは悪くなかった。紫恋、また付き合え」
 「いいですよ、普通に入るだけなら」

 そう釘を刺すと、賈充は小さく舌打ちをして笑った。



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