夜も更けた頃、紫恋は屋敷から離れた小路に立ち、賈充の帰りを待っていた。落ち着きなく前方に続く道を見つめるが、先にあるのは暗闇のみ。手燭の灯りも届かない。黒尽くめの男が見えるはずもないのに、紫恋はただじっと闇を見つめていた。
帰りが遅いのはいつもの事──。それでも戦が頻繁に起こる昨今では、少しでも刻限が過ぎると気を揉んでしまう。
遠方から馬蹄の音が響き、灯りを向けると黒馬を馳せる賈充の姿が見えた。
「お帰りなさい、公閭様」
笑顔で駆け寄ったが、賈充は紫恋を見るなり眉を顰めた。
「阿呆かお前は。こんな夜更けに女一人で出歩くな。無防備にも程がある」
「ごめんなさい。でも心配だったから」
「だからと言って、俺に要らぬ世話を掛けさせるつもりか。何か事が起こった時、責任を取るのはこの俺だ」
開口一番に叱責されて、紫恋は悲しげに俯いた。
──喜んでくれると思ったのに。
表情も口調も平静だったが、言葉から怒りがひしひしと伝わって来る。目立った変化がない分、余計に恐い。
頭上で小さな溜め息が零れたかと思えば、目の前に白い手が差し伸べられた。見上げた先に、優しく微笑み掛ける賈充の姿があった。紫恋は途端に笑顔を取り戻し、その手を取ると一気に馬上へ引き上げられた。鞍の手前に座った小さな身体を男の片腕が抱き寄せる。
「落ちるなよ」
背後で低音が優しく囁いた。背中から伝わる体温が、夜風で冷えた身体を包み込む。紫恋は心地良い男の体温に陶酔し、身体を委ねた。
──やはり他人の噂など信用ならない。
甘いひと時が訪れる度に紫恋は思う。
冷酷、非情、無慈悲──。賈充の周囲では、よくそんな言葉が囁かれる。確かに仕事上では非情な男かもしれない。だが、その男に寄り添う紫恋にとっては聞き捨てならない言葉だった。
彼の事もろくに知らないのに──。噂を耳にする度に腸が煮えくり返る。
だが、賈充は眉一つ動かさず、憤る紫恋に言う。
「言わせておけ。この乱世、生半可な覚悟や綺麗事で済むほど甘くはない」
そして賈充は笑う。しかし、その様に周囲はさらに畏怖する。
人とは違う道を歩んでいる以上、理解されないのも無理はない。でも本当は違うのだと、心ない言葉を聞く度に紫恋は心の底で叫ぶ。紫恋の瞳に映る賈充は優しく、触れる手も温かい。一見冷たい言動も、言外の意味を汲み取れば相手を思っての事だとわかる。
それに、紫恋が笑うと彼は必ず微笑み返してくれる。それが何より一番嬉しい。
ただ──、この日は少し様子が違った。
入浴を終えて寝室に入ると、賈充が俯き加減に佇んでいた。書物でも読んでいるのかと思い、軽く覗き込んで見たが手元には何もない。こちらに気付き、振り返った表情はどこか冷たく、横目で睨むように紫恋を見た。
──また何か怒らせるような事をしたのかな。
不安に駆られつつも、紫恋は笑顔を作った。
「まだ起きていたんですか? そろそろ寝ないと」
「紫恋を待っていた」
賈充は言葉を遮るように返した。冷淡な声色に、紫恋の笑顔にも戸惑いの色が浮かぶ。
「私が待たせてしまったんですね。湯冷めしない内に寝ましょう」
手を引いてもその場から動こうとせず、賈充は紫恋の目を見据えて静かに言った。
「何があったのか、とは聞かぬのか?」
事情は聞くまいと思っていたが、賈充に言われて恐る恐る聞き返した。
「何かありました? 私、また何か気に障る事でも?」
「違う」
「では、何か嫌な事があったとか? また何か陰口を言われたんですか?」
「まるで子供を案ずる母親のような物言いだな。お前は俺の保護者か」
「ごめんなさい、そんなつもりでは」
紫恋が顔を赤くして頭を下げると、賈充は含み笑いを溢した。
「お前は如何なる時も笑顔を絶やさぬな。俺のような愛想の欠片もない男にも、お前は微笑み掛けてくれる。何度、その笑顔に救われたか知れぬ」
そう言いながら、紫恋の手を弄ぶように何度も握り返した。突然告げられた感謝の言葉と、熱い手の感触、低く穏やかな声に鼓動が高鳴った。
「婉曲な言い回しをしたが、悪気はない。ただ、お前がいなければ俺はどうなっていたのかと、ふと思ってな。感傷に浸るなど俺らしくないと思うだろうが、夜道に佇むお前の姿を見て、少し不安になった。お前には暗闇の中にいて欲しくない。俺だけでいい」
ふと、賈充から微笑みが消えた。ようやく、理解した。
──だからあの時、あんなに怒ったのね。
だが、あまりに杞憂だ。彼らしくない姿に紫恋はふっと笑った。
「大丈夫です、もうしませんから。私が公閭様の前からいきなり消えたりする訳──」
「消えるなど、不吉な事を言うな」
鋭い目付きで睨まれ、ごめんなさいと言い掛けた瞬間、手を引かれた。気付けば紫恋は賈充の胸元に抱き寄せられていた。
「公閭様…冗談ですよ」
「今の俺には笑えぬ冗談だ。二度と口にするな」
抱き寄せる腕に一層力が入る。切ない抱擁に、紫恋から笑顔が消えた。
「周囲が俺をどう評価しようと、蛇蝎の如く嫌われ捨てられようと構わぬ。だが、お前は別だ。俺の前からいなくなるなど考えたくもない。お前にだけは見放されたくない…俺を一人にするな」
賈充は紫恋の首筋に擦り寄り、唇を落とした。甘い吐息をつきながら唇で肌をなぞり、互いの唇が重なると身体を抱き上げ、紫恋を寝台に押し付けた。
「紫恋…お前が欲しい。どんな手を使ってでも繋ぎ止めておきたい」
荒い声が零れた。熱っぽい視線が紫恋を捉える。心情を察した紫恋はそれ以上深く尋ねず、ただ無言で頷いた。
窒息しそうなほど強く唇を吸い上げ、激しく舌を絡ませる。大きな手が柔肌を愛でる。動きと共に互いの着物ははだけ落ち、肌が重なった。湯上がりのせいか、相手を欲しているためなのか、身体が異常に熱い。
唇は露になった乳房へと向かい、舌で舐め上げるとすでに固くなった頂を舌先で転がした。一方で秘部を指で刺激され、上下から襲って来る快楽に紫恋は喘ぎながら、避けるように身体を捩らせた。
紫恋の反応に優しかった愛撫が次第に激しくなっていく。うつ伏せになり、体勢が変わっても秘部への愛撫は止まない。刺激される度に声が漏れ、身体が波打つ。
反応しているのは賈充も同じであり、柔肌に押し付けられた一物は固く滾り、執拗に身体を絡めて来る。舌と唇を紫恋の全身に這わせ、口元からは終始甘い吐息が漏れている。官能的な艶かしい声に脳髄が痺れ、欲で満たされていく。
おもむろに腰を抱き上げられると、胎内に熱いものが押し込まれた。ゆっくり掻き回すように動かし、確実に内部の性感帯を刺激する。紫恋は無意識にそれを締め上げ、賈充の息遣いが荒くなる。
「んぁっ…公閭…様…っ!」
その名を呼ぶと、応えるように胎内の中のものが反応した。低い喘ぎ声が漏れる。
言葉にならない快感に全身が熱を帯び、思考もすでに使い物にならない。感じられるのは、愛しい人との一体感──幸福感だけだった。
「…お前だけは誰にも渡さぬ」
荒い吐息混じりに囁き、賈充は胎内に欲を吐き出した。塊がずるりと引き抜かれ、混ざり合った熱い体液が腿を伝って流れ出す。
意識が飛んだ。その後、どうなったのかよく覚えていない。ただ、混濁とする意識の中で、賈充が紫恋を片時も離そうとしなかった事だけは覚えている。
気付いた時も、すぐ隣に賈充の顔があった。起きるのを待っていたかのように、紫恋と目が合うなり口を開いた。
「よく眠っていたようだな。呑気なものだ」
視線をずらすと、外はもう随分と明るくなっていた。仕事に向かう刻限のはずなのに、寝室に賈充がいるのはおかしい。
「今日はお休みですか?」
「いや、仕事だが、お前の見送りがないと調子が悪い」
白い指先が紫恋の頬に掛かった髪を除ける。憂い顔はなく、紫恋にだけ見せる穏やかな表情がそこにあった。
「…じゃあ、今日もお仕事頑張って下さい。寂しくなったら、また甘えてもいいですよ」
皮肉っぽく言うと、賈充はばつが悪そうに眉を顰めた。
「…昨夜の話はやめろ。気が触れただけだ。誰にも言うなよ」
「わかってます。心配しないで」
紫恋の笑顔に、賈充は優しく微笑み返した。
私はずっと貴方の傍にいる。貴方の笑顔を見たいから。“微笑み返し”は二人でなければできないから。
了
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