時折、夜半に賈充の姿を見ると言いようのない不安に胸が押し潰されそうになる。まるで抜け出せない闇の淵に佇んでいるかのようで、そのまま闇に溶け込んで消えてしまうのではないかと思うほど、その姿は孤独で哀しい。
いつからこうなってしまったのだろう──。
賈充が天下のために暗躍するようになった事も一つあるが、同時に彼は大切なものを手放す事になった。親友との間にできた深い溝──。紫恋には、それが賈充を変えた一番の原因に思えた。
賈充と司馬昭の関係に亀裂が生じているのは誰の目から見ても明らかだった。特に賈充と向き合う司馬昭の態度はよそよそしく、仕事以外の場で会話をする事はない。どこか冷たくあしらい、時には拒絶する素振りすら見せる。だが、そんな状況に置いても賈充が友に尽くす姿勢は変わらず、むしろ変わり行く友の姿に満足気な笑みさえ浮かべていた。
賈充と恋仲であった紫恋が、この状況に戸惑い心を痛めたのは言うまでもない。
紫恋は仲睦まじい二人の姿が好きだった。普段は冷淡な賈充も親友の前では別の顔を見せる。あまりの入れ込みように嫉妬してしまう事もあったが、親友と共にいる時の穏やかな賈充の姿が何より一番好きだった。しかし、今の賈充には当時の面影は残っていない。
もう二度と、あの頃の二人には戻れないのだろうか──。
荒んだ乱世が招いた事とはいえ、すれ違う二人を見る度に胸が締め付けられる。だが、紫恋にはどうする事もできず、闇に身を投じた賈充をただ見守る事しかできない。
今、紫恋の傍らで眠る賈充は至って安らかで、この時ばかりはどす黒い気配も冷酷な表情も消える。だが、幽鬼の如く白く窶れた様が痛々しく、より一層儚げに映る。
紫恋は賈充を失いたくない一心で胸元に縋り付いた。伝わって来る鼓動に耳を澄ますと、不安は束の間消え去ってくれる。
不意に賈充の腕が紫恋の首元に回り、顔がこちらに向いた。目を覚ましたのかと顔を覗いたが、まだ熟睡している。寝息が掛かるほど間近に迫った男の顔は相変わらず妖艶で、緊張で直視する事ができない。だが、緊張に高鳴る鼓動も今は心地良い。
紫恋は静かに唇に口付けをし、全身を包み込む温もりに陶酔した。
*
真夜中に目を覚ました紫恋は、隣で寝ていた賈充の姿がない事に気付き、慌てて布団を抜け出した。寝室の扉の隙間からわずかな灯りが漏れており、合間から覗くと机に向かう男の後ろ姿が目に入った。
賈充は時折、こうして夜分遅くに寝室を抜け出しては机に向かう。今ではほぼ毎日と言っていい。彼が紫恋の前で仕事の話をする事は一度もなく、暗躍している件も人伝に聞いた程度だが、間近で見ていれば何をしているのか大抵予想が付く。最近では間者の姿を見る事も増えた。
「こんな刻限にお仕事ですか?」
扉越しに尋ねると賈充は筆を置き、言葉を返した。
「書簡が届いたのでな」
ようやく振り向いた横顔には笑みが浮かんでいた。いつ如何なる時もその微笑みは変わらないが、紫恋は微笑みの裏に隠れる素顔を見逃さない。
「ご無理をなさらないで下さい。本当は疲れているのでしょう? ここ数日、ろくに寝ていないはずですよ」
「くく…知っていたか。お前の目は誤魔化せぬようだな」
手を休めるかと思いきや、賈充は再び机に向き直った。
無理を押してでも仕事を続けようとする賈充に紫恋は苛立ち、背後から手元の書簡を奪い取った。賈充は一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐにじろりと睨み返した。鋭い視線にも怯まず、紫恋は凛とした態度で返した。
「今日はもうお休み下さい。少しはご自分を労われてはいかがですか? せめて私のいる前では仕事をしないで下さい」
「ほう、今宵は随分と強気だが、俺を誘っているのか? 寝ている間にも俺に抱き付いたようだしな」
まるで全て見ていたとでもいうような言い方に、紫恋は動揺した。
「もしかして、あの時起きていたのですか?」
「あの時とは何だ。寝ている俺に何かしたのか?」
皮肉な笑みを浮かべて聞き返す賈充に、紫恋は頬を赤らめて強く言い寄った。
「してません! もう、話を逸らさないで下さい。私は真剣に言っているんです!」
からかわれて向きになる紫恋を見て、賈充は喉を鳴らして笑った。おどけて見せるのは機嫌が良い証拠だが、その表情は疲労の色が濃く、無理をしているのは一目瞭然だった。
「公閭様は何でも一人で抱え込み過ぎです。お役目柄、色々我慢しているのでしょうけど、私には悩みを打ち明けてくれてもいいでしょう?」
「俺が何かを我慢し、悩んでいるように見えるのか?」
「…司馬昭様の事はどうなのですか?」
思い切って友の名を出して尋ねてみたが、賈充は微笑みを浮かべたまま返した。
「子上か。確かに一番手の掛かる男だが、己の立場を自覚し始めた今では大分手間も省けたな」
「そういう事ではなくて…! 公閭様は何も感じないのですか? 以前はあれほど仲が良かったのに、今ではお二人を見ているのが辛いです…」
悲痛な面持ちで訴える紫恋を目にして、ようやく賈充は真顔で答えた。
「子上を天下に導く事が俺の役目だ。その過程に友情など不要、情に流されては天下は取れぬ。子上は優しさ故に未だ非情に成り切れず、俺のやり方が理解できぬようだが、いずれわかる時が来る」
「その時には、お二人は元の関係に戻れるのですか?」
「今の俺は子上の代わりに暗躍する、言わば子上の影だ。光と影は二対一体だが、決して交わる事はない」
平然と言い放つ賈充の眼差しは強固たるもので、己の在り方を後悔している様子は微塵も感じられない。紫恋は失意に深く頭を垂れ、ぽつりと尋ねた。
「それで…公閭様は満足なのですか?」
「当然だ。元より、子上の天下を見る事が俺の夢だからな」
「…ご自身を犠牲にしても…ですか?」
「犠牲になったつもりはない。これが本来の俺の役目であり、生き方だ」
淡々と言い返され、紫恋はついに言葉を失い閉口した。
闇に身を投じた事を非難するつもりはない。それが彼が望んだ道ならば一向に構わない。でも──。
無言で俯いていると、ふと紫恋の頬に手が触れた。
「お前が心配する必要はない。俺は己の役目を果たす、ただそれだけだ。これも俺が望んだ事だからな」
顔を上げると、優しくも憂いに満ちた微笑みが映った。
──ご自分が望んだ事ならば、なぜそんなにも哀しい姿を見せるのですか?
言葉にしようにも声にならず、もどかしさに堪らず賈充に抱き付いた。
「では私も…自分の役目を果たします。何があっても、ずっと公閭様のお傍にいます」
「…やはりお前は誤魔化せぬか。要らぬ心配を掛けるとは、俺もとんだ阿呆だな。この身を安んじてくれるのは、もうお前だけだ」
賈充は紫恋から顔を背けて己を嘲笑うように言った。いつものように笑って見せたが、声はわずかに震えていた。
温もりと鼓動に触れる度に、これが本来の彼なのだと紫恋は実感する。表向きの冷淡な顔は仮面に過ぎないのだと──。
今が夜明け前の仄暗さだとするならば、いつか朝日が闇をも照らし出してくれるはず──。
それまで私は貴方を一人にしない。
了
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